書評:吉川浩満『哲学の門前』 「哲学」とは、人生に置いて自分の「脆さ」が露わになったときに必要とされる。
タイトルに「哲学」という名前が付く本のイメージとは、異なる内容
『哲学の門前』という不思議なタイトルの本だ。「哲学」とあるので、さぞかし哲学の本なんだろうと思って読んでみると、想定されるイメージとはかなり内容が異なる。
この本の内実は、著者の半自伝的なエッセイ集だ。鳥取県での少年時代、家族の出自、大学生、社会人、そして文筆家としてデビューしてからのこと…などなど、著者の半生がある種赤裸々に描かれている。
しかし、著者はこれが「哲学書」であると言う。一体どういうことか。
描かれたシーンは全て著者が「哲学」を必要としたときのこと
この本は、”人生においてどんな時に「哲学」が必要になるのか”という問題提起のもとに描かれている。つまり、ここで描かれたエッセイ的な内容は全て、著者が「哲学」を必要としたとき場面だと言うのだ。
この本で描かれた著者の人生のシーンの数々は、それが全て「ままならなかったとき」のことだ。それはつまり自分の人生に置いて己の脆さや弱点が露わになったときと言ってもいいだろう。
要するに著者にとって「哲学」とは、人生に置いて自分の弱さに遭遇したときに、その切実な状況から、欲しいと思わされるものなのである。
「哲学」は、私たちの「脆さ」が表れた場面において必要になる
そしてこの本は、そんな自己のナイーブな面に触れてしまうような繊細な真実を、「自身の半自伝的エッセイ」という、ある種アクロバティックな方法で描いてみせる。そのことを通じて、「哲学」という学問の有り様を浮かび上がらせるのである。
難しい概念も、有名な哲学者の名前も出てこない。だがしかし、これは確実に「哲学書」なのだ。