「推し」という信仰 宗教のない日本で暴徒化するファンダムについて
ジャニーズ被害者の会への誹謗中傷
昨年驚いたことの1つに、ジャニーズ被害者の会へのファンからの激しい誹謗中傷がある。性暴力の被害者である彼らに罵詈雑言を投げかける心理とは一体どういうものなのか、と衝撃を覚えた。
相手に誹謗中傷の言葉を投げる彼らにとって、ジャニーズとは自分のアイデンティティの支えとなる存在であり、言ってしまえば「神」みたいなものなのだろう。何かを「推す」とは、宗教を信仰するのと同じことなのだ。
その自分の信じる宗教の存在基盤を揺るがされたとして、彼らは被害者の会へのバッシングを繰り返す。彼らにとって、自分の「推し」が汚されることは、自分の信仰、つまり自分自身の存在を否定されることに他ならない。
ファンダムの誹謗中傷、それは戦争だ。これまで人類の歴史の中で行く度も繰り返されてきた宗教戦争。それのローカルでミクロなものが、このネットで行われる誹謗中傷なのだ。
現実を解釈する装置としての「物語」
評論家・大塚英志の代表作の1つ『物語消費論』は、「物語」を「現実を解釈するための装置である」と位置づける。物語は、「現実がどのような世界かを解釈するための装置」であるのだ。
近代以前は、人々が接する物語の量は限られていた。口伝で伝承される民話を中心に、人々はその現実を解釈した。
近代以降、国家が生まれると、人々はその国家の物語によって世界を解釈するようになる。日本で適用された物語とは、言わずとしれた「天皇」である。
しかし、敗戦により日本では「天皇」という大きな物語が失墜する。国から物語が供給されることがなくなった国民は、それぞれが己の判断によって物語を選択することになった。
ところが、複製技術やデジタル技術が発展した現代では、物語の数は近代以前に較べて指数関数的に上昇する。その物語の総てを消費することは、一生をかけても叶わなくなるだろう。人々は、現実を解釈するために物語を要否しようとするが、その全体量の大きさのために、いくら物語を消費しても、安定した現実の解釈を獲られることがない。
「推し」は不安定な社会の現れ
というのが、『物語消費論』の本旨である。日本では特に、国家的な宗教がなく、社会的に用意された「物語」がない。よって人々の「物語」への欲求や飢餓感は、相対的に大きくなる社会であると言ってもよいだろう。
その宗教の代替物としての「物語」が、「推し」なのである。「推し」とは、文字通り特定宗教のない現代日本における「信仰」なのだ。
ジャニーズ・ファンの性被害者への過剰防衛とも言えるバッシングとは、それだけ彼ら彼女らが、不安定な生を生きていることの証左だ。その不安定さを支えてくれるはずの「推し」を守るために、その存在に疑問符を投げかける声を激しく糾弾する。
「推し」とは、この複雑な現実を解釈するための、寄るべき思考枠組みである。「推し」にも様々な強度のものがあるだろうが、ジャニーズファンの誹謗中傷は、その中でもかなり強い類のものだろう。それが意味することとは、人々がそこに縋りつかなければならないほど、この社会でそれだけ自我の確立が困難であることなのではないだろうか。