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「自由な働き方」という夢 フリーターからギグワーカーへ引き継がれるもの

 近年ギグワーカーという働き方が拡がっている。ウーバーイーツなどの配達員などがそれだ。
 それが今社会問題になっている。彼らは会社に雇用された労働者ではなく、個人事業主なのだ。だから、事故などがあったとき、労災は適用されない。損害賠償も自己負担で払わなければいけない。
 しかし、彼らは本当に「個人事業主」と言えるのだろうか。名目上はそうであっても、実態は「労働者」そのものではないか?
 ギグワーカーにおける「業務委託」とは、企業が本来労働者に対して負わなければならないその責任を逃れるために、そのような形態を適用させているだけではないか。
 今、ギグワーカーを使う企業の責任を巡って裁判が行われるなど、その在り方が社会問題になっている。

 このギグワーカーは、そういった問題を抱えながらも、その働き方が拡がっている。その背景には、自らこの働き方を選択する人たちが多くいるのだ。
 その背景には企業文化への強い嫌悪感が背景にあるという。
 会社に所属して、パワハラに耐えながら働くのは耐えがたい。彼らは企業や組織の人間関係にとらわれない環境を求めて、ギグワーカーという選択肢を選んでいる。
 ギグワーカーという働き方が拡がる背景には、そういった「自由な働き方」への欲求があるというのだ。

 このような現象には既視感がある。私にとっては1990年代から2000年代に断続的に起こった「フリーター」ブームがそれだ。
 当時フリーターはある種の人々にとって希望だった。会社に縛られない、自由で柔軟な働き方。
 今ではフリーターにそのようなポジティブなイメージを抱く人はそういないだろう。
 フリーターとは、その実態は企業に低賃金で買い叩かれ、時には都合のいいように首を切られる非正規雇用の労働者。企業合理性のもとで使い捨てられる被害者であり、社会問題化する必要がある存在であると。
 2000年代後半には「ロスジェネ」なんて言葉も生まれたが、そんなネガティブな印象が拡がった。

 この認識はまったくもって正しい。特に反論すべきことなどなにもない。
 しかし、フリーターという現象について語られていない側面がある。
 当時、フリーターを自ら選択する人間が確実に一定層存在した。その者たちにとって、フリーターとは日本の正社員中心の雇用慣行に対するカウンターと言える1つの「手段」だった。
 フリーターは労働者でありながらも、正社員のようにその全人格を会社に捧げる必要はない。そのアイデンティティは「労働」よりも、消費社会に順応した「消費」活動に軸足を置く。「労働」の論理に支配されることがない。
 フリーターとは、かつて日本社会が夢見た「消費社会の実現」のための、社会運動の一つの「手段」だったのだ。

 しかし、フリーターがそういった「手段」、つまりある種のカウンターだったことは、今までほとんど語られてきていない。
 フリーターの夢は儚く散った。フリーターは、今になっても不安定な非正規雇用以上の立場を獲得することができていない。その闘いは敗北に終わったのである。
 私もかつてそんなフリーターの一人だった。一人でひっそりと社会運動を行っていたのである。そして、その夢は叶うことはなかった。

 そしてその意味において、今のギグワーカーはフリーターを同じだ。企業社会へのカウンターとして、この働き方が拡がっているのである。
 だから、かつてフリーターに夢を見て破れていった我々のように、闘いに敗れていくのを黙って見ていられない。
 彼らが、権利ある労働者として、その在り方を保障された状態でやっていける環境が整備されていくのを望む。

 今から10年前の2012年、批評家の宇野常寛氏が『ニッポンのジレンマ』という番組で「非正規雇用の夫婦2人で子ども2人育てられる社会にアップデートする必要がある」と言っていた。 しかし、2010年代、日本は安倍政権という極右政権に振り回され、日本の社会保障の議論をまともにすることはできなかった。この10年、全くアップデートすることがなかったのである。

 同じ過ちを繰り返してはならないのだ。2020年代、日本はいかに社会をアップデートさせることができるか。 それは例えば、長時間労働や低賃金の是正、パワハラ・セクハラの厳罰化など企業組織を働きやすい環境にすることが挙げられるだろう。もしくは個人事業主用の社会保険制度を整備して、企業組織以外での働き方をサポートしていくような仕組みを整備していくことだろう。

 こんなことはずっと前から必要だと言われてきたことばかりだ。しかし、日本は何一つそれを実現できていない。我々は考えなければならないのだ。ギグワーカーが、かつてのフリーターと同じように、闘いに敗れて、散っていくその前に。

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