ヒュー・ハウイー「サイロ3部作」から日米のウェブ小説の違いと共通性を考える

https://www.amazon.co.jp/dp/4041010152/

 KindleDirectPublishing発のヒット作であるヒュー・ハウイーのサイロ3部作は『ハンガーゲーム』以降、北米ジュブナイル市場で人気のディストピアSFの一種である。

 アメリカで昨今人気のティーン向けディストピアSFを翻訳しても日本ではそこまで売れないようだが、日本には日本人向けに最適化された代替品(デスゲームものなど)がすでにあり、わざわざ翻訳ものを読む必要がないからではないかと思われる。

『ハンガーゲーム』より『バトルロワイヤル』の方が日本人には馴染みがある。

 逆に言えば、国内外の流行/好みの差や共通点を浮き彫りにするにはもってこいだ。
 日本国内のウェブ小説でもそれぞれのサイトごとに定番ジャンルがあるように、2010年代前半においては海外KDPでは人気フォーマットのひとつがディストピアものだったようだ。

 KDPの女性向けロマンスの代表格に『fifty shades of grey』があるが、あれは『トワイライト』の二次創作だった。海外でもウェブ発の作品は形式や設定が斬新だから支持されるというより、おきまりのフォーマットをアレンジしながらいかに読者を刺激し、楽しませるかで人気が決まっているのだろう。

 サイロ3部作は完結するまで1冊99セントにて連載形式でバラ売り、「引き」を作って以下次回! のくりかえしで読者を集めていたのは(有料であることを除けば)日本のウェブ小説の勝ちパターンと似たような手法だと言える。

 本作の舞台は地下144階建ての「サイロ」。地上は生活不能ほど汚染され、人々は資源に乏しく、言論・思想統制がされ、市長が絶大な権限を持つ生活に日々耐えている。

 反体制的な人間は地上を映し出すレンズを磨きに最上階へ清掃員として送り込まれるが、生きて帰って来た者はいない。

 ド直球に階層=階級が反映されていて、サイロ下層の機械部出身の主人公ジュリエットはレンズ磨きに地上へ向かうところからある種の革命が始まっていくのが第1作『ウール』。第2作『シフト』は時間を遡ってサイロができるまでの過程を描き、第3作『ダスト』はサイロ世界の秘密をさらに明かし、ハッピーエンドまで持っていく。

 閉塞感を生み出し、人々に立ちはだかる堅牢なシステム。なぜそれが存在するのか忘却させられている愚かな人々。しかし体制の常識に挑み、覚醒し、世界の成り立ちを解き明かそうとする主人公は、危険と希望を同時に象徴する「外部」へ向かう。という図式は『進撃の巨人』的であり、いま世界各地で声をあげている若者の世界認識そのものだろう。

『都市と星』『マトリックス』などで繰り返されてきた「欺瞞に満ちた社会に抗して真実に目覚める主人公」パターンの物語だ。

 とはいえサイロ三部作では、そんな体制をつくり、維持する権力者側の大変さも描き、革命が繰り返されるものにすぎないことも示唆しているのも特徴だが(それも『進撃』っぽいが)。
 日本の若者に人気のデスゲーム小説は描写がスカスカであるものが多いが(個人的にはこの点に関して批判するつもりはない、念のため)、サイロ3部作は細かい設定や映像的な描写がウリである点は異なる。

 KDP発の映画化作品といえばアンディ・ウィアーのサバイバルSF『火星の人』があるが、あれも過酷な環境から試行錯誤してなんとか脱出する話で、やはり設定や描写の解像度は高い。

 ただ、サイロも『火星』もキャラクター性は決して濃くない。対して日本ではなろう系作品の多くはキャラクター小説然としているし、物語の雰囲気的にも心地よいもののほうが目立つことを考えると、対照的に映る(『fifty shades of grey』は願望充足的な小説だったから、国民性というより「ジャンルに拠る」のだろうが)。

 もうひとつ、日本の小説界との興味深い共通点がある。書物の特権化だ。『図書館戦争』『ビブリア古書堂の事件手帖』をはじめ書店員や司書や本好きを肯定する設定の作品が2000年代以降ずっと支持されているが、サイロ3部作でも(未来社会の話なのに!)紙の本が重要な記録媒体として登場し、お約束めいているが、燃えて潰えて寂しさを演出するシーンがある。

 ハウイーがもともと書店員をしながら小説を書いていた人間であることが反映されているのかもしれないが、非常に興味部会。

 だいたいおまえは電子書籍で人気になった人間じゃないかとツッコミたくなるが、日本のウェブ小説でも本好き(が喜ぶ)設定は人気であり、この点、ウェブと紙の本の関係を考えさせられるものでもある。

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