「なんとなく」疲れてもいい
昔、私は全く疲れない子供だった。
学校行事や習い事のあと、周りの友達が口々に「疲れた」と言っていたけど、私はまだまだ元気いっぱいで、一日の始まりのごとく体力があった。
そもそも友達や先生、身の回りの大人たちがなんで「疲れた」なんて言うのかわからなかったし、疲労を理由に遊ばないなんてちょっと信じられなかった。
毎日遊ぶことを考えていて、それは朝でも夜でも変わらない。眠らなくてもいいならずっと遊んでいたかった。
あの頃の私は、きっと無敵だったのだと思う。
でもその反面、少し横暴な子供だったのかもしれない。
もっと遊びたくて、沢山のことを知りたくて、誰よりも前へ進みたくて、気力もあれば体力もある。一人で行けるものならどこまでも行ってしまう。
ちょっと向こう見ずで、他人を省みないこともあっただろう。
しかし月日が流れて、社会人になった。毎日朝起きて、仕事して、少しだけ自分の時間を楽しんで眠る。
そういう生活になった。
そうなって初めて、私は「疲れた」と思うようになった。特に週の終わりや、月末は忙しくって疲れる。
「これが疲れるってことかー」と思ったと同時に、「これは良くない」と心底思った。
身体と心は繋がってる。身体が疲れれば心も疲れるし、心が疲れれば身体も疲れる。
たぶん人間はそういう風にできていて(たぶん)、疲労をないがしろにしていたらいずれ少しずつダメになる。
感覚的にそれがわかった。
社会人になると、「もっと頑張らないと」「同期と同じにやらないと」って思ってしまう。
それに会社からは「もっとやる気を見せて欲しい」「早く一人前になって欲しい」という見えない圧力がかかることもある。
どちらももっともなことだし、気合いや気力は大切。
だから「疲れた」なんて甘いことは言ってはいけない。
そう錯覚してしまうけど、それは違う。
私たちは学生の頃、嫌というくらい「他人と自分は違う」ということを突きつけられる。成績、容姿、能力。全部において周りと同じでいられたら楽だけど、それは絶対に無理だ。
自分は自分にしかなれないし、他人は所詮他人だ。
それを学び続けて大人になっていくのに、たかが同じ会社に入ったくらいで周りと同じにはなれないし、突然先輩と同じようにはなれない。
そりゃできる努力はするべきだけど、「疲れた」は努力じゃ治らない。
人の感覚に合わせていたら、きっといずれダメになる。
だから「なんとなく」疲れたっていい。
別に特別な理由なんていらないし、疲れたもんは疲れた。それじゃダメなんだろうか。
気合いは必要。やる気も大事。でも自分をないがしろにすることとは別問題。
社会人なら適切な自己管理を。無理な時は無理という勇気を。
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