【連載小説】満開の春が来る前に p.7(最終回)
はじめて彼女が桜を眺めているのを見た。
相変わらずのまっすぐ伸びた背筋と、綺麗な黒髪。いつもさしている傘には、桜の花びらが幾枚か散っている。
彼女がまだ外にいたことに安堵しつつ、俺は声をかけた。聞かなくてはいけないことがある。
「会いに行かなくていいんですか」
「あなたは……」
振り向いた彼女は、誰が見ても無理矢理だと分かる笑顔を作った。
大事な人にこんな顔をさせているあの人に、俺は一人腹を立てていた。俺は部外者だけど、だからこそ分かることがある。
「会いに行くって、誰のことですか」
「もちろん、太一さんにですよ」
俺がそう言うと、彼女はまた目を丸くして驚いていた。
「会わないのは二人が決めたことなのかもしれないけど、知ってしまった以上、俺は何も言わずにいるなんてできません」
俺は丁寧に頭を下げた。
俺が考えたことが本当に正解とは限らないが、彼女を見る限りでは少なくとも、彼女が待っていたのが太一さんで当たっていたということくらいは分かる。
彼女は観念したという顔で、小さくつぶやく。
「どうして分かったんですか。よかったら、どうしてそう思ったのか聞かせてください。私、彼について話しませんでしたよね」
「えぇ、話していません、もちろん太一さんもです。でも何も言わなかったわけでもないですよね。
はじめにおかしいと思ったのは太一さんが、俺にこの地区を任せたことです。
わざわざそんなことをする理由なんて、あなたのこと以外に見つかりません。俺なら太一さんが隠そうとしていることを、簡単に喋ったりしないと思ったんでしょう。
でもどうしてそこまでして隠したかったのか? それがずっと分かりませんでした。そして俺に直接頼まなかったことも。
俺がどうして毎日待っているのかと聞いたとき、あなたは日課だから、と答えました。若い女性が新聞を待っているなんて珍しいことだけど、ない話でもないですよね。
でも少しのあいだだけ配達をしていた澤平が言っていました。彼のときに限って、あなたは一週間のうちで二日しか姿をあらわさなかった。俺が配達をはじめてから今日までは、いない日なんて一日もなかったのに。
そしてあなたは澤平に、担当の配達員が代わったことまで指摘してみせたそうですね。それができたのは何度も何度も太一さんと会って、知っていたからです。
そして俺がはじめてきたとき指摘しなかったのは、あなたにとって俺に変わることは、大して意味がなかったからですね。大事なのは太一さんから、他の配達員に代わってしまったこと。
それにショックを受けて、何日も待つのをやめたんじゃないですか?」
「…………あなたは頭のいい人ですね。それだけで分かったんですか」
「いいえ、あなたと太一さんを含め、色々な人が話をしてくれたからです。
あとはあなたが言った春が来る前にやめる、という言葉です。はじめは意味が分からなかったけど、太一さんが就職のために地元に帰るという話を聞いて思ったんです。
もしかしたら春が来るまでは、何かを待っているんじゃないかなって。でもそれは毎日運ばれてくる新聞なんかじゃない。バイトを辞めた太一さんです」
小山内さんが言っていた言葉。それがはじめて形になった。新聞以外のものを待っているのだとしたら、それはいったい何か。配達員以外に俺には思いつかない。
「……えぇ、そうです。私はずっと彼を待っていました。
はじめは雨の日、たまたま朝早くに外に出たのがきっかけでした。もともと体が弱くて家で過ごすことが多かった私ですから、変な時間に起きていることも多くて。
その時に彼を見て、こんな雨の日なのに偉いなぁって感心しちゃったんですよ。だからせめてタオルだけでもと思って渡したら、彼は笑ってくれました。
それから雨の日は欠かさず、玄関先に立つようになりました。そのうち悪いからってタオルは受け取らなくなったんですけど、私がただ彼に会いたくて。
……なんだか懐かしいな」
彼女が寂しそうに笑う。
「春までって決めた理由も、あなたが言った通りです。
太一さんが行ってしまう春までは、もしかしたら会いに来てくれるんじゃないかと期待していたんです。でもそれも、もうすぐ終わりね。明日も雨だから、桜は散ってしまう」
「そんなの関係ありません」
だって太一さんは、雨の日でもいつも楽しそうだった。それは彼女がいたからなんじゃないだろうか。雨が嫌いな俺とは違って、いつもてきぱきと仕事をしてのいたのも同様に。
そして俺に後を任せたのだって、きっと彼女を守るため。
太一さんが何も告げずに去ったのは、太一さんなりの優しさなのかもしれない。それを尊重したいと思う気持ちもある。だけど、
「何も知らず、何も言わないままでいるなんておかしいです。太一さんも、あなたも」
「でも、私は彼がいつ発つのかすらも知らない……」
「太一さんは、明日の早朝に高速バスで発つんだそうです。明日には桜が散ってしまうなら、ちょうどいいじゃないですか。あとはあなたが決めてください」
俺は彼女の返事を聞かずに、その場を立ち去った。
太一さんのことを伝えたとしても、会いに行くかどうかは彼女が決めることだ。彼が俺に告げずにこの地区を任せたのも、澤平に口止めをしたのも、俺がこうして太一さんのことを伝えてしまうかもしれないと考えたからだろう。
いつの間にか雨は止み、わずかに太陽の光が差していた。水たまりに落ちている綺麗な薄紅色の花びら。
桜は明日の雨で散ってしまう。だから今日だけは精一杯に咲いて欲しい。そして、今朝太一さんが行こうとしていたのが彼女の元であればいい、そう思った。
二人についての話は、いつかきっと太一さんに聞こう。その時は、目一杯に冷やかしてやるんだ。
たまには雨も悪くない。