【連載小説】満開の春が来る前に p.2
新聞配達のバイト君が奮闘するミステリー小説です。
「満開の春が来る前に」p.1は【こちらから】
他無料noteで連載していた小説は【こちらから】
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俺は準備の作業を早めに上がり、外へ出た。案の定、雨脚は強くなっていて、荷物を積み込むだけでも大変だった。
小山内さんに渡された配布先の住所を軽く覚えてから、原付バイクに乗り込んだ。免許を取ってからはずっとこの原付を借りている。少し古いが手入れはよくいき届いている。明るい緑色の車体もお気に入りだ。
見なれない景色はとても新鮮で面白かった。下町のような雰囲気を残した、静かな街。静かなのは早朝という時間のせいもあるかもしれないが。
新しく開発された住宅街とはどこか違う。全てを計算しつくされたような感じがしない。どこか懐かしいような温かさがある。雨が降っているのが残念だ。
今まで配達をしていた場所とは違う雰囲気を楽しみながら、俺はゆるゆると配達をしていた。
いつもよりも早く出たし、遠いが配布量はそれほどじゃない。このままのペースなら、いつも通りの時間には帰れるだろう。
そうして半分くらいを配り終えた頃、角を曲がった先に大きな木が見えた。それも枝についた花が七・八分咲きくらいに開いている。周囲の他の家よりも一回り大きい家の庭から、低い塀にかぶさるようにして咲いていた。
あまり詳しくないので分からないが、寒桜というやつだろうか。以前に誰かに教わったことがある。雨でぼやけていても、濃いピンク色がひどく目に鮮やかだ。
桜の木にばかり気をとられていたが、近づいてみると木の下に人が立っている。ちょうどそこが玄関先のようなので、おそらくはこの桜の木が咲く家の人なのだろう。
透明なビニール傘をさしている、腰のあたりまで長く髪を伸ばした女性。年は俺よりもいくつか上に見える。
彼女は満開の桜を見上げるわけでもなく、真っ直ぐにこちらを見ている。何かを待っている様子だった。
まさか、この新聞を? 時折そういう人はいるけれど、大抵がお年寄りだ。今時、新聞を読まない人だっているのに。
きっと違う目的だろう。そう思うことにして、俺はバイクを降りて配達先の住所を確認する。するとやはり彼女の立っている家は、配達先の一つだった。
不思議に思いながらも、俺が新聞を取り出して近づいていくと、彼女は小さく会釈をした。
「ご苦労様です」
透き通るような綺麗な声で挨拶をする。それにつられてどうも、と俺も会釈をした。
やはり彼女は新聞を待っていたのだ。
俺が雨粒のついたビニールに入った新聞を手渡すと、何も気にする様子なく彼女は受け取った。その落ち着いた仕草が、余計に大人びて見えた。
とくにかける言葉も見つからず、俺はその場からそそくさと立ち去る。近くにあるもう一軒の配達先の郵便受けに新聞をさし入れ、すぐにバイクにまたがって走り出した。
珍しいこともあるものだ。いや、たまたま今日に限って何か見たいものがあっただけかもしれない。そうしたらきっと、明日以降に彼女の姿を見ることはないだろう。
そう思いながらも、俺の頭の中には何かがわだかまっていた。
はじめて太一さんの配達していた地区を回ってから、約一週間が過ぎた。
冬から春へかけての一週間は、ひどく移り変わりが激しい。ぐっと日がのび、暖かくなる。ともすれば花々もいっせいに咲く準備を進めているようだった。
それはあの桜の木も、例外ではない。すっかり満開になり、いっそう色濃く咲きほこっている。
唯一変わらないのは、桜の木の下に立つ彼女の姿だけ。
あれ以来、俺は毎日彼女に新聞を手渡している。ようするに彼女は、毎日あの場所で待っているのだ。
今日も見なれはじめた角を曲がると、彼女の姿があった。凛とした立ち姿。まるで芸能人のようにとても姿勢がいい。
今朝こそは、彼女と話をしてみようと思っていた。何を見るために待っているのか。いや、そこまで聞けなくても、軽い世間話がしたい。
親近感、というやつだろうか。やはりこんな朝早い時間に起きている人とは、ごく少数に限られている。それも若者に関しては、ほんの一握りだといってもいい。
だから他の配達員の姿を見かけると、お互いになんとなく会釈してしまう。それがたとえば他の新聞社の配達員だったとしても。
そんな俺からすれば、約一週間も毎日会っているのに、一度も声をかけないというのはなんだかとても違和感だったのだ。
今日も近くでバイクを降り、新聞を取り出した。彼女もいつものようにご苦労様です、と言って会釈をする。
「いつも早いですね」
俺が声をかけると、彼女は一瞬だけ動きを止めてから、ふわりと笑った。
「日課みたいなものなんです」
そう言った彼女に、俺は気の利かない相槌を打ちながら、新聞を手渡した。
今日は雨が止んでいて、過剰な包装はほどこされていない。紙も乾いて、さらさらしている。
「明日もよろしくお願いします」
彼女は綺麗なお辞儀で俺を見送った。俺も不恰好に頭を下げる。
柄にもなく早くなった鼓動を沈めつつ、もう一軒の家に新聞を押し込んで次の目的地へと向かった。
わずかな達成感と、あれだけしか言えなかった自分への情けなさ。二つの感情がないまぜになって襲ってくる。なんとも言えない不思議な感覚。
今日の彼女は、真上で咲きほこる桜と同じ色のカーディガンを着ていた。その柔らかな色は、彼女によく似合っていた。
日課みたいなものだと、彼女は言った。ということは、以前からこうして、新聞が運ばれてくるのを待っていたのだろうか。
もうだいぶ覚えた配達先へ向かいながら、俺は考える。相変わらず朝は寒いが、日中はマフラーをしなくてもいいくらいに暖かくなってきた。
日課ということは、彼女が毎朝を桜の木の下で過ごすようになったのは、俺が配達をはじめた頃からとは考えにくい。すると太一さんが配達をしていたときから?