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Twitterをしつつ、noteを書きつつ、この間買ったリラックス効果のあるアロマはどこにしまったっけと記憶を探ることについて。



トイレに行きたかった。

かれこれ20分ぐらい我慢している。でもなぜか手が止まらない。誰に言われたわけでもないのに、なぜか頭は作業を続けろと指令を出す。

『区切りが良い』という言葉の甘さが私の時間を支配しているらしかった。

何をするにしてもあともう少し、あとこの一文だけ、区切りのいいところまで、それから別の作業に移ろう……などと、仕事をしているときはそんなことばかり考えている。

私の仕事は細々とした雑務がとても多いのでそれは当たり前、または合理的なことであるとも言える。このやり方のおかげで作業を中途半端にしてしまうこともなく、うっかり忘れただけのミスも少なく済んでいる気がする。

ただそんな思考にも難点はあるもので、それがトイレに行けないと言うことだ。別に強制されたわけでもなく、ただ「区切りがよくない」と言うだけで、私はトイレに行くのを我慢してしまう。

それだけじゃない。あるときはのどが渇いているのに水分を取るのを後回しにしてしまったり、あるときは乾燥した手にクリームを塗るのを後回しにしてしまったり、本当に小さな難点がいくつかある。

ただその一つ一つがとても小さいがゆえに今まであまり気にせずにきた。

そんなわたしだが先日、Twitterで流れてきたこの漫画を読んだ。

内容については私が説明するのは勿体ないので控えるけれど、これを読んでいたら、私は生活の中に潜む小さな不快の種をいくつも無視して生きているのではないかという気持ちになった。

というのも作業が区切りのいいところまで落ち着くのにほんの2.3分程度なこともあれば、うっかり1時間近くかかってしまうこともある。この間、基本的に必要に駆られない限りは別の作業をしない。つまり自分がふと思った「トイレに行きたい」や「のどが渇いた」や「手の乾燥が気になる」など、身体からの要求をないがしろにしてしまっている。

もちろん区切りのいいところまでやってしまいたいと言うのも私の1つの要求ではあるのだけど、それは身体的に言えば急を要することでは決してない。なのにどうしても止められない。

というのも、もしかしたら私には止める気がないのかもしれん。そう考えると少し納得がいく。

区切りのいいところまでやらなかったからといって死にやしない。でも体からくる要求は、極端なことを言えば無視をし続けたら死ぬ。なのにどうして私はそちらを優先できないのか、いや優先しないのか。

少し考えてみたけれど、多分大した理由なんてない。私はなんとなく「区切りがつかないとダメ」だと思って、小さな不快感は「後回しにしてもいい」と思ってる。それだけ。

自分が大切じゃないとか、仕事のほうが大事とか、きっとそういう次元の話じゃなくて、たまたまそれが繰り返される状況にあって、たまたまそれが習慣化されて、たまたま癖になってやめられなくなってしまっただけ。

そう考え直して『区切りが良い』を無視してトイレに行き、紅茶を入れ、はちみつリンゴのハンドクリームを塗ってみたら、あら不思議。全然大丈夫なの。一度気づいてしまえばそれまでのことが嘘だったみたいに平気になった。

そんなもんなのね、人間って。ちょっと壮大な主語で自分の体のことを考えながら、Twitterをしつつ、noteを書きつつ、この間買ったリラックス効果のあるアロマはどこにしまったっけと記憶を探る。

とっ散らかってるのも悪くない。





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七屋 糸
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