別れって、どうしてあんなにエモいんだろうね?



わたしにとってエモいって、たぶん「別れ」だと思う。



「別れ」そのものと、その周辺にあるいくつかの美しいものたち。

さよならだけが人生だ、なんてその最たるもので、そういう心を強く揺さぶられてしまうような出来事がいつまでも脳裏に焼き付いて離れないから、たぶん「エモ」としてリピートされ続けるんだろう。




別れを題材にしたnoteをいくつか書いてきた。いずれも鳴かず飛ばずだったけれど、書いた事自体には結構満足している自分がいる。

自分の中でぐるりぐるりと溜まっていたものが吐き出されて、人の手に渡ったせいかもしれない。




でもこうして書いてみると、「エモい」って過去にばっかあるもんですね。


思い出が美化されるからなのか、無意識に脚色しまくった記憶をビデオテープみたいに擦り切れるほど繰り返すうちに「エモ」として完成されていく。

逆に言えば現在進行系にそういったたぐいの色をのせることができそうにない。

だって、リアルはあくまでもどこまでも泥臭くて、奥底に流れているであろう切なさとか淡い情熱みたいなものがうまく拾いきれない。

そんなことよりも痛みとか、苦しみとか、激烈なものばかりがまとわりついてきて、ついつい何かを俯瞰してみることを忘れてしまいがち。

上手に一歩引いてものを見ることに憧れるけれど、それができる自分はまだ具体的に想像ができなくて困る。




話のまとを少し絞るけれど、幸福な恋愛にもその色をのせるのは難しい気がしている。

別に幸福だからダメというわけじゃなくて、幸福なものにはそういう装飾のような、美化のようなものは必要ないと感じられるから。

だって幸せは「幸せ」ってだけで完成されてるような気がする。

たとえば恋人と寄り添うこと、その間に何を考えてもなんだか陳腐なものに思えちゃって、「ま、いっか」ってなっちゃう。

他の一切のことがどうでもよくなるのが「恋」であり「愛」なのかもね。わかんないけど。




だからもしもわたしが今の恋人と別れることになったら、たぶんそれはそれは「エモい」記事になる、と勝手に思ってみたりする。

だってすでに完成された思い出たちが、さらに一度壊れて再構築されて、擦り切れるほど何度も脳内上映されて、そして復活を果たすわけでしょ。

そんなん、綺麗だよ。綺麗すぎるよ。



綺麗すぎるから、やめておこっと。









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