海果てぬ夢
「あらためて見ると、ほんと、ムッシュ・ダロンドのバーは飾りっ気がないなあ……」
船員さんたちもさすがに呑みすぎて引き上げていった朝、僕は箒をロッカーに片づけ、かわりにデッキブラシを取り出しながら、つくづく店内を眺め回してしまった。
ムッシュ・ダロンドのバーの壁にも、棚にも、絵画やオブジェの類は置かれていない。だから、棚に並んだ酒瓶のラベルそのものが豪華な装飾に見えてしまうくらいだ。僕が最初にお世話になった路地裏の酒場にだって、まどろんでいるような古いチェス盤のひとそろいがあったのに──なんて思っていた、けれど。
その日の開店準備中、僕は、壁にかけられていたひとつの額縁に気がついた。
ほとんど黒に近い木製のそれは、スナップ写真やハガキの一枚を入れるのにちょうどいいサイズ。そこに納められているのは──時代がかった帆船を描いた、白黒の絵とも写真ともつかぬ一枚だった。
なんの飾りもないこの店内の、煙草とお酒ですっかり飴色になった壁に、この黒い額縁はものすごく目立つ。
「あの、ムッシュ・ダロンド……この額縁、は」
おそるおそる、だけど、答えは期待せずに尋ねてみると。
「──……ル・ミラージ」
低い声でぽつりと、そう返された。
「……蜃気楼、ですか?」
なんというか、船につけるなら『波行く女神号』とか『わだつみ号』とか、もっと勇ましい名前があるじゃないか。と、昨夜遅くまで読んでいた冒険小説に出てくる船の名を思い返しながら、僕が首をかしげていると、
「この港町に、霜月の霧深い夜にあらわれるという言い伝えのある船で──その絵を描いたヤツは、そいつに乗り込んでいっちまった。
……たった一枚だけ、その絵をのこして」
何か感情があふれるきっかけがない限りは、淡々としゃべるムッシュ・ダロンドの声がかすかに震えた。
「海の果ての、さらにその果てには芸事に抜きん出た人間が集う、選り抜きの白い玉を磨いて作られた楼があるという。長い航海の果て、そういったところに辿り着いて、ヤツが今でも絵を書いているといいのだが」
遠い憧れを船に託していったひとをなつかしむまなざしは、ムッシュ・ダロンドひとりのもの。
その姿をただ好奇心だけで、軽々しく見てはいけない──僕は身を屈め、ムッシュ・ダロンドと背中合わせになって、床にデッキブラシをかけ続けた。
novelber 24.額縁
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