御箱文なる十八番
「こんばんは」
街灯を落とし、あとは寝ながら月を待とうか、とするころ、ひとりの老婦人が店の戸を叩いた。
「こんばんは。お寒いでしょう? どうぞ中へ」
まだ火鉢にあかあかと炭がともる上がり座敷へと、僕は老婦人を案内する。年の頃はもうそろそろ米寿だろうか、黒いズボンと同じ色のチョッキの裾に、いろづく紅葉の刺繍がほどこされているのが、やけに印象に残った。
「今日はね、こちらをお返しにまいりましたの」
小柄な老婦人の、ちいさいけれどよく働いてきた双の手に乗る、ちんまりとした木箱。山を彩る紅葉と、街路の公孫樹の黄を混ぜたような色合いの箱には、黒いインクで「18」とレタリングがされていた。
「もうだいぶん前に、このお店で手に取らせていただいたものなのですけれど──……」
口の端にかるく笑みを浮かべ、老婦人はゆっくりと語り出した。
「縁談がまとまってすこし経った頃、夫となるひとが日帰りのドライブに連れ出してくれたの。その際にこの……山間なのに、突然ぽっかりとモダンな街並みがひろがるこの一帯を通りかかりまして、このお店に気づいたの。
時代を経たいろんな古い道具がきちんと並べられた店内を、ふたりして興味深く眺め回していたのですが、ちいさなテーブルの、レースの敷物のうえに置かれたこの箱に、わたしは惹かれるままに、手を伸ばしてました」
老婦人はゆっくりと、箱の右手にあったレトロな金具を引いた。抽斗なのか、と目を見張る僕の前に現れた、骨牌サイズの紙片たち。
「このカードは一枚につきひとつ、料理の手順が書かれているの。一枚一枚をよく見てみると、旬の野菜や果物を無理なく食べられる料理や、わかりやすく殿方の胃袋を掴める料理がひとりではない、いろんなかたの筆跡で書かれているのね。
縁がすこしかすれていたり、紙にかすかに醤油やソース、赤ワインの跡が残っていたり、インクが滲んでいたりするのを見ているうちに、きっとこの料理はリクエストを受けて何度もつくったのね、ってわたしにも分かったわ。
──はっきり言って不器用なわたし、料理に自信はないけれど、この箱にある料理なら夫となるかたにも……とつくづく見つめるわたしに、あのころの店主さんが話しかけてきたの。
『その箱がお気に召したなら、どうぞお持ち帰りください。ですが、ふたつばかり、こちらの要望を聞いていただけますか?』
古今東西の料理の宝箱のようなこの箱を持って帰れるなら、って、わたしは間髪入れずにはい、とうなずいていたの。
そんなわたにし、店主さんは目を細めて、こう続けたの。
『お嬢さんがいずれ──遠い将来、もう自らの手で料理を作ることがない、と悟るときがきたならば、どうかこの箱を店に戻してください。そして……そのときには、できましたらこの箱のカードにはないけれど、あなたのいとおしいかたがたが舌鼓を打った料理をカードに記して、箱にしのばせていただけましたら幸いです』
わたしは、ひとつめのお願いはともかく、ふたつめは……と苦笑いしたら、店主さんはだいじょうぶです、とはっきり口にしたあとで、そのままこうも言ってくれたわ。
『その箱がきっと、あなたを護ってくれます』
……ねえ、若い店主さん。わたしが台所をまかされて、不安でどうしようもなくて唇を噛みしめた日々が案外にすくなく済んだのは、この箱におさめられたカードの料理に夫が美味しそうに箸をつけてくれたことと、店主さんの『だいじょうぶです』って言葉があったからなの。
おかげさまで、台所に立つのが怖くなくなっただけでなく──ずいぶんと長いことわたしを護ってくれたこの箱を、いよいよお返しする段になって、わたしからも我が家で人気だった料理のレシピカードを数枚、書かせていただくことができました。
ほんとうに、ありがとうございました」
この箱のご加護が、どうぞ次に手に取られるかたにもありますように──
まごころのこもったやさしい声とともに、ゆっくり頭を下げた老婦人の姿は……思慮深げに座敷へと差し込みはじめた月明かりに、しずかにほどけるようにしてかき失せていった。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
晩秋にひとつ、役目を終えて戻ってきた箱に収められたカードを、僕は月に透かすようにして眺める。
真新しいカードに記されている、かんたんで美味しそうなトマトソースの作りかたや、キノコソース添えのポークソテーなど──在りし日に、あの老婦人が食卓を彩った証のレシピに微笑んで、気がついた。
「ああ、だから『18』なのか」
意中の男の胃袋を掴むだけでなく、そのさき、家族となったひとたちにも胸を張って供せる安泰の十八番。そんな、いろいろな家庭の十八番の得意料理に護られ教えられ、その家のあたらしい十八番が生まれては、カードに書き記されて伝えられ──……誰が最初にそうしたのかは分からないけれど、歳月がめぐり刻を重ねて、かつての日を過ごした見知らぬだれかと料理で繋がる、そういう品があってもいいじゃないか。
うん、と僕はうなずいて、カスタードクリームの色した月を見上げる。
「──さてこの箱、次は何処の食卓の救世主になるのかな」
だれかに再びこの箱を託すまで、そしてまた、あたらしいレシピと相まみえるためにも、この店を護っていかないとね──
店主となってはじめてそう思えた、そんな秋の夜のひとつ話。
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