夢現の境
名残の霜を含んだ風に、道を縁取る鈴掛の樹の実が揺れた。かろん、と素朴な土鈴が鳴るような──と錯覚したと同時に、端正と熱情、色合いの異なる二挺のヴァイオリンが、木々の奥から聞こえてきた、そんな気がしてくる。
ああ、あの楽士さんは、南の空に輝く一つ星と巡り逢えたろうか──
そんな夢想を裏打ちするように、ニノンにはまだ早過ぎるシャンソンを、マダム・ロクサーヌの、あまい蜜とぴりりと辛いスパイスとを掛け合わせたあの歌声が、ひとつの高みを見せつけるのでもなく、おもねるのでは当然なく、ただすてきに重ね合わせてくるのも、耳の奥で響いてきた。
それが幻聴であることくらい、僕にも分かっている。
(だけど、今年大詰めの紅葉を眺めている今は……今だけは)
祈りを重ね、僕はつい一時間ほど前に、ただひとり降り立った駅のプラットホームにおびただしく散っていた公孫樹や楓の葉の色を思い返していた。
しずかな紅玉や琥珀にも似た色は──マダム・シーラの店のオランジュの扉によく合うだろうなあ、と眺めていたところにやってきたのは、今時珍しい、幌なしの馬車。ずいぶんと高齢の馭者さんは僕のほんとうの名前と行き先をちいさな声で確認し、隣に乗るように促して──今は、ゆったりと過ぎてゆく景色のなかに、このときまで見てきた景色や音を、二重映しにして辿りかえしている。
「食べるかい?」
手綱を離さないまま、馭者さんは僕にちいさなバスケットと陶製の水筒を差し出してきた。中に入っていたのは、馭者さんの姿からはとても想像できない──と言っては失礼なのだけど──果物と生クリームを挟んだパンだった。
「ありがとうございます」
いただきます、と噛みついた、そのパンのクリームは、けして不味くはなかったけれど、予想していたとおり、マドモワゼル・レーヌの店のふわふわクリームに甘さもやわらかさも及ばない。ふう、と息をつき、水筒のなかで揺れた、温かい牛乳を飲む。蜂蜜のあまさがなつかしいそれを、路地裏の酒場でもいただいたっけ──と、すこし瞼を閉じかけたところに、北風がぴゅうっ、と吹きつけてきた。
亀のように縮こめた外套の襟の奥、そっと潜んでいた海の香がまた遠くなっているのをすこし淋しく感じながら、僕はまた、馬車の行く道の先と周囲の木々を見比べる。
霜月ひとつのなかで、僕が見てきた景色も聞いてきた音は、意外とたくさんある。
──けれど、どうしてだろう。
地図を辿り、地名を声に出して指先確認すれば、たかが汽車で半日ほど離れただけなのに、なんだかずいぶんと遠くに来てしまったような気がしているなんて──……
さみしい、とふいにつのった感情に涙がこぼれそうになり、僕はとっさにポケットのなかの、リシャールが渡してくれた瓶をぎゅっと掴んでいた。すこし厚ぼったい、しっかりした瓶の意外なぬくもりにほっとして、おおきく息を吐いたのと同時に、馭者さんがもごもごと口を動かす気配を感じる。
「ときが過ぎてしまえば、どんなことも白昼夢みたいに遠く感じてしまうけれどなあ──……でも、たしかにすべてが、あったこと。
そのひとつことをちゃんと抱きしめられるかどうかで、これから先のいろんなことは、ずいぶん変わってくるものさ……」
どこか遠くに投げかけているのか、それとも隣にいる僕に語りかけているのか、ぱっとは判別のつかない呟き。けれどその言葉は僕のなかにすうっとやさしく、根を下ろしていくのを感じる。
「──……はい」
ちいさな声で素直に返事をし、顔を上げた僕を覆っている空は──冴えた青と海の碧とが混ざり合った、あの貴婦人のテュルコワーズを慕わしく思い返したくなるような色をしていた。
#novelber 29.白昼夢
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