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海づく島 -みづくしま-

 ──……タタ、パタタタタ……タタタ……タ……──
 年代物の映写機が、等間隔の拍を刻みながら飴色のフィルムを回す。まっさらな白絹の面に明滅する光のなか、ほんの一瞬だけ浮かんでは、うたかたさながらに消えていく、輪郭も曖昧な景色と、誰かの影。
 ──……パタタタタ……タタ……──
 島の中央、なだらかに土の堆積した丘陵から四海すべてを見渡せる場所に建てられている、あずまやめかせたちいさな家屋にやわらかい風がそよ、と吹く。それが過ぎたのち、濃密に漂う潮の香に誘われたように、映写機を繰る年若い技師も、横たわりながら白絹の面を見つめていた壮年の男性も顔を横向けた。
 ──……タタ、パタタ……タ……──
 技師の茶の瞳、男性の黒い瞳にそれぞれ映る、鏡面さながらに凪いでしまった海。刻が止まったかのような平板な蒼と、深浅の別なき青空とが静かに釣り合う、その均衡は。
 ──……パタタタタ……タタ……──
 フィルムが淡々と巻かれゆく音に和す、雨粒によりふいに揺らいだ。雨をもたらす黒雲の気配すら、つゆ訪れぬはずのこの島では、光に映える色持つ蝶の羽音だけがときに相和し、またあるときには輪唱するのが常であるはずなのに。
 ──……パタタタ……タタ……──
 ときならぬ雨滴が島を穿つ音が、フィルムを巻き取る音をいよいよかき消さんとするほどまでに高まったそのとき、技師がちいさな口を開いた。
「毎日毎日、同じ映像を見ていて飽きはしませんか? ロウシュ」
 とうに少年の時期は過ぎながら、なお青さを滲ませる技師の声に、ロウシュと呼ばれた男性は、横たえていた身を起こすと、白絹の面に背を向けた。
「飽きはせぬさ、イェスレイ──パタパタとかろやかな音を立てながら早足で動く、そのフィルムとかいう名の巻物に映しだされるものと、朕のなかに遺された島の記憶の破片とが重なりあうひとときを見出すのも、また一興。
……かつてこの海域に勇名を轟かせども、今や刻の果ての亡国と化したこの島に、ただひとり残されていた身にはこよなき慰めだ」
 ふ、と唇をかすかにあげたロウシュを、イェスレイは失礼にならざるよう数秒だけしっかと見つめた。
 海の蒼がつややかに映える長い黒髪と、空と海のふたついろとを遊ばせる漆黒の瞳。イェスレイが幼い時分に読んだ絵本に出てきた東洋の王がまとう衣装から、すべての極彩色を抜ききったそれを、ロウシュは悠然と身につけている。その端正な面差しと相まって、男性ながら、こちらが気を抜けば見蕩れてしまいそうな──とイェスレイが思ったそのとき、ロウシュのかたちのよい唇が、ゆるりと動く。
「海に朧のまつわりて、浮かぶは波濤にありうべからざる楼閣。夢うつつのきらびやかさも、今は昔の語り草──なれば、まだマシであったろう。
 このあたりの海域に転々と存在しているらしき島々、それらに住まう人々、あるいにはヒトならざるあやかしたちの織り成す昔語り。そしてかれらの往還より生まれた、ひとよりずっと長く生きる『品々』たちの物語──めぐる四海を征くものたちを仲立ちに語り継がれた幾千もの物語たちから、とうにはるか遠く深く隔てを置かれたこの島のことなど、人々の記憶より零れ落ち、忘れ果てられて久しきもの」
 その言葉に自嘲も詠嘆もつゆ滲ませもせず、ただ淡々と低い声でロウシュが語る。その口許を凝視してしまったイェスレイに、ロウシュはふ、と今度はくつろいだ笑みを見せた。
「とはいえ、海潮の気まぐれか天の差配でか、その名すら喪いしこの島に流れ着いたそなたは、朕がはじめて目にする、ひとの姿。
 なればこそ──世の語り草ともなれず、古つ言なる伝説のうちにも、一顆の生さえ与えられぬまま、朽ちゆく宿命のこの島の、ひとつ話を聞いてはくれぬか」
  ──……パタタ……タタ……──
 映写機のフィルムが回り続ける音をどこか遠くに聞きながら、イェスレイは「はい」と答えを返していた。

「ヒトが姿を成したるそのときより、かの海なるものの果てには、己を取り巻く地にはないものがある、そう夢見て、勇敢にも波うつ蒼き海原へと舟にて繰り出すものたちがいた。
 そんなかれらがこの島をぐるりとめぐる海域へと近づくごと、視界すべてを染めてしまう空の青と海の蒼との狭間に、未踏の大地やゆらゆら揺れる楼閣が見え隠れする。
 おお、あれこそが夢にまで見た景色──奮うこころと逸る熱情に身をまかせ、櫂を懸命に繰り、舟を漕げども、今その目にたしかに映る景色には、けして辿り着くことはない。
 ──そしてそのうち己を駆り立てていた熱もはかなく消え、櫂を繰る力すら失ったものたちは」
 ロウシュは言葉をそこで切り、イェスレイへと唇の片端をあげてみせた。その凄絶にして艶な仕草に、イェスレイの尾骶骨がぞわりと震える。そんなロウシュからあわてて目を逸らしたイェスレイだが、つい視線を落としてしまった床の、島の、さらにその先の海の底にたゆたうものたちへと思惟がめぐれば、背を軋ませるほどに震えがはしる。
「うたかたをまつわりつかせ、ゆらめく波濤の底へと落ちゆくものは──……蒼海の底、その吐息にて、海ゆくものたちを惑わせた景色をつむぐものたちへの供物となった。
 しんとした闇と見まごう蒼の果て、かれらはひとの骨の奥、濃淡もとりどりに焼きついた想いや記憶を糧としながら、夢見るように息を吐く。揺らぐ波を越え、蒼海へと浮かび上がるその吐息が、これまでよりもあざやかさを増した楼やうつくしい地を描けば、それに惑わされたひとと舟とが、天なる波濤より新たにまた海底へと堕ちゆく。
 その循環が寸毫の滞りもなく、粛々とまわり続けていたならば──朕がこのように、そなたへとひとつ話を繰り延べ語る、今というこのときは訪れなかったかもしれぬ。しかし」
「私とあなたさまの現実は、あなたさまが今こうして、私へと昔語りを」
  ──……パタタ……タ……──
 フィルムが巻き取られる音がひとたび、イェスレイの耳朶を打つ。その音を意識から遠ざけながらイェスレイはロウシュへと向き直れば、その唇はふたたび、昔語りを紡ぎだす。
「何ひとつとして疑を抱かず、海底にて供物を受け取っていたものたちではあったが──あるときふと、かれらのもとに堕ちくる舟やひとの減ったことに気がついた。これは如何に、と、時折、潮の流れに乗って別の海域からさらわれてくる稀なる供物から、かすかに嗅ぎ取れた記憶や想いを繋ぎ合わせ、ふたつの推論を導き出した。
 ひとつは、ひとはわざわざ己で舟を繰りて海を越えずとも、地に留まり続けたまま、海の果てなる遠き景色を目にすることが可能となったがため。
 もうひとつは、海底にて紡がれる夢見の吐息の噂がめぐり、海ゆくものたちがこの一帯の海域を避けるようになったがゆえに──と」
 そこで言葉を切ったロウシュは、それ、その、とイェスレイの傍らの映写機を指さす。いささか児戯めかせたその仕草を、ロウシュはすっとおさめてから、目を閉じて唇を開いた。
「だがそれは、あくまで推測に過ぎぬ。かれらにのしかかった現実は──年々歳々供物は途絶えがちとなり、それゆえに、かつて海ゆくものを震撼させた波濤にかぎろう景色も、歳々年々色褪せ、かすれてゆくばかり。それでも時勢に抗おうと、かれらはなおもその息を吐き続けども──夢想の養い床は日々やつれ、かれらもひとつ、またひとつ、と海泥になずみ、波濤に溶けていった。
 ……そして、海底に遺された殻がひとつ、またひとつとゆっくりと積もり──その殻に染みついた記憶が、夢の名残がゆるり、ゆるりと重なり合って」
 両手を広げ、ロウシュがかっ、と目を見開く。
「この島と朕とを、かたちづくった」
 ──……パタ……タ……──
 フィルムの巻き取られる音が遠くか細くなるなかで、ロウシュが見つめているイェスレイは笑っている。傲然と映るほどに顔を上げ、端正な面差しを嘲りにゆがませることもせず、ただ、完爾と。
「いずれ刻が満ち、この島を成すものたちの夢や、供物を食みて得た想いの残滓がかすれゆけば、朕は島ごとこの海から消えてゆく。
眠気を誘うほどに永遠を想起させる波濤の寄せ返しにくらべれば、朕らのいとなみしことなど、須臾の間すら満たせぬ悪戯としか映らぬであろう。
 だが、それでも──……この島を訪れたそなたに、かつてこの海でありしことを語り遺したいと思うたのは、朕にまつわる海の底へと堕ち来た、幾千幾万のひとたちの記憶や想いに感化されてのことであろうか……?」
 呟くロウシュに、イェスレイは静かに目を閉じ、うなずいてから口を開く。
「……そうであるかもしれませんし、そうではないかもしれません。
 ただ、私がひとつだけ、あなたさまに言えることは」
 ──……パタ……──
 イェスレイの耳朶のなか、フィルムを巻き取る音に蝶の羽音がかよわく重なる。
 
(ひとびとの暮らしを、世に在る日々をフィルムの奥へ、あるがままに綴るように焼きつけたい。そう願いながら──私が録り溜めたフィルムに映し出されるのは、つくられた喜怒哀楽とひと目に分かる像ばかり)
(どうしたら、生き生きとしたひとたちを撮れるのか、と焦るほど、私は追い詰められて──……そして、飛び込んだ海の涯、映写機とフィルムを抱えたまま目覚めた私は、あなたさまに出逢った)
(私の録り溜めたフィルムを物珍しそうに、けれどどこかなつかしそうに、何度も繰り返し見ているあなたさま。その行いが、あなたさまを造りあげた海底の夢紡ぎたちの、いつかの栄華をたどり夢想を重ね合わせることで、かれらのゆきどころなき魂を鎮めているのだと知った今は)

 思惟を胸の奥へと宿らせて、イェスレイは口を開いた。
「──私はあなたさまの、おそばにおりましょう。いつかおとずれる、最後のときまで」
 ためらいひとつなきイェスレイの声音に、ロウシュがふ、とやわらかく笑む。

 ──……タ……──
 フィルムの掉尾の一コマが巻き取られる音に、ときならずとも降り続いた雨のひとしずくとが重なる。それらが呼び寄せたようにたなびきはじめた海霧が、かつて海底にて紡がれし吐息が描く景色をなぞりながら、ふたりをゆるやかに包み込んでいった。

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