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「この店の扉をはじめて開けることを許され、おそるおそるだが足を踏み入れた瞬間──ああ、ここを自分の生涯の宿り木にしたい、と思っていたんだ。
けれど……」
 マドモワゼル・レーヌの店に訪れた老紳士が、ふ、とカウンターで苦い笑みを浮かべた。
 ──無理もない。
 どんな店でも代替わりすれば、多少なりとも雰囲気が変わってしまうのは世のうつろいとしてよくある話だ。けれども新入学からふた月過ぎて、学校に慣れはじめた頃に通い出した店──しかも『一人前のおとなの男』として認定されない限りは入れなかった店ともなれば、格別の思い入れもあるだろう。
 それが、リボンだらけの装飾にふわふわしたあまい料理を出し、この老紳士から見ればひよっこにしか見えないくらい若い男女の喋り声に満たされている店に変わってしまう、とあっては。
「……でもそれが世のうつろい、というならば、仕方のないことだろうね。人生の冬も間近なものは、これから春を生きるひとに座を譲るのもまた、時のさだめとして甘受すべきなのだろうから」
 ふ、と、やるせない溜息をついた老紳士へと、マドモワゼル・レーヌが話しかけた。
「お客さま、わたくしからひとつご紹介したい店がございます」
 いつものあかるい口調とは正反対の抑制のきいたそれに、彼女がそんな話しかたもできるのか、となんとなく驚いて目を見張っていた僕の前で、
「どうぞ」
 マドモワゼル・レーヌが老紳士へと見せていたのは、『0014』と焼き印のナンバーがいかめしい木の札だった。なんだろう? と首をかしげている僕に、マドモワゼル・レーヌはいつものおてんばそうな表情で目配せし(いい機会だから、あのかたの後からつけてきなさいな)と囁く。
「こちらへ」
 マドモワゼル・レーヌが老紳士を促し、店の最奥にある本棚の前に連れて行く。そして──なんだか長ったらしいタイトルの全集本らしき一冊の「14巻」を抜き取ると、そこには先程の木札が入りそうな穴が開いていた。
「この木札を、あちらに差し入れてください」
 かれらがおしゃべりに夢中になっている間に、どうぞお早く、と囁くマドモワゼル・レーヌが、なんだか探偵やスパイを手引きしているように見えて、僕の鼓動がすこし高鳴る。それは老紳士も同じなのだろうか、あたりを見回してから、彼女に言われるがままに木札を差し入れると──下の段に把手がすっ、と現れた。
「……えっ!」
 どうやらこの本棚自体が引き戸だったらしい。
 いかにも冒険のはじまりみたいでワクワクするけれど、なんというか──常連の学生さんたちにバレたらまたうるさいんじゃ、とビクビクする僕。でも、よく見てみたら把手の箇所はちょうどカウンター席の陰になっているし、引いた本棚もカウンターの後ろのキャビネットが隠してくれるようになっている。
 こんな仕掛けがあったのか、とびっくりしつつ、それでも、老紳士のあとについて行き、重厚な石組みの仄暗い廊下をランタン五つ分ほど辿っていくと──
「……ふん」
 男性がふたりも入れば満席になる、ちいさなバーが現れた。
 カウンターのなかで仏頂面をしていた老人が、ふ、と笑む。
「こういう秘密基地みたいなのも悪くないだろう」
 孫娘に代替わりするときに、幼馴染みの大工に図面に手を入れさせて、こっそり作ったんだ。そう語る老人に、
「そうですね……店主が息災で何よりです」
 老紳士がほっとしたように、にっこりと笑みを返していた。
 如何にときがうつろい、座していた場を譲る日が来ても──いつか見ていた少年の夢はどこか色あせずに残るものなのかもしれない。言葉すくなに、けれど、ゆたかな酒を傾けながら静けさをたのしむふたりの横顔に、ときおりよぎるイタズラが成功した少年のような喜色に、僕もいつか先の未来にこんなことがあったら楽しいだろうな、と夢想していた。

novelber 14.うつろい


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