遠き夕暮れ
恋の溜息吹きかかる 秋の夕暮れたそがれどきよ──……
コスモス色のワンピースを着たニノンが歌うのは、彼女のひいおばあさんが若い頃に流行っていたんじゃないかと思うほど古いシャンソンだった。哀調を帯びた調べも愁いに満ちた歌詞も、僕とそう年が変わらないニノンには早すぎるんじゃないか──と、皿を洗いながら僕は思いながら聞いていたけれど、お客さまたちの反応は──うん、学芸会の舞台に立つ孫娘を見守るような温かい視線を向けている。
けれどそのなかに、気難しそうな老爺だけがむっすりとした顔で耳を澄ましている。そして彼女の瑞々しいソプラノが店内からゆっくり消えていった後、彼ははっとしたように窓の外を見ていた。
「──秋は夕暮れ」
オレンジと金を溶かし込んだ西空に相対したまま、彼は低く、渋い声で言を次ぐ。
「まだ、エーヴの歌に全然追いつける気配もないな」
その声にニノンがぷう、と頬を膨らませる──が、いつもだったら瞬間湯沸かし器のように怒り出すニノンなのに、彼には何も言い返さず黙ったままでいる。
「ピエリックがそういうなら、くやしいけどしかたないわ」
また練習しないと、と肩をすくめ、カウンターに戻ってきたニノンに、僕はさっきのはいったい? と尋ねていた。
「ピエリックはエーヴ──わたしのおばあちゃんの熱烈なファンだったの。それこそ少年の頃から、けして自分の腕のなかに降りてくるひとじゃないと見せつけられても、おばあちゃんが歌手としてのたそがれどきを迎えても、ずっとずっと……ほんとに最後の最後までおばあちゃんの歌を聞いてくれたひとだから」
おばあちゃんが歌手だったことにはいい顔をしなかったくせに、わたしが歌うことを選んだら、何を歌っても誉めてくれる孫莫迦のおじいちゃんよりずっと、ピエリックの反応のほうが信じられるの──おばあちゃんの歌があったから、歌うことを選んだわたしにはね。
そう呟いていたニノンの茶色の瞳に、そして家路につくピエリックの背に、渋柿と林檎がゆっくりと混ざり合っていくような秋の夕暮れが降り沈んでいくのを、僕は黙って、じっと見つめていた。
Novelber 7.秋は夕暮れ