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術の背

 陽射し避けのプラタナスがくたびれ気味に葉をひろげるなか、鳴き交わす蝉の声。あ、蝉の声ってそれぞれ違うんだ、とコウが思ったと同時に、視界がぱっ、とひらけた。
 護岸のコンクリートがかっちりと覆い、銀灰色の武骨な倉庫が線を引いたようにかっきりと並んでいる港の景色に、コウの口からほほう、と声がこぼれた。潮泊にやってきてからこれまでに、コウは西と南の港を見てきたが、ちいさくてのんびりとした──と同時に、時代の流れからはあきらかに置いていかれている、と思っていた。
 しかし今、コウが目の当たりにしている東の港は一転して、いかめしい倉庫と整然とした桟橋とを往き来する、リフト車や人々の速度が早い。想像もしていなかった活況にコウは目をまるくしていたが、そんな東の港への五歩手前に、すすけた緑のプレハブ小屋がぽつんと建っているのに気がついた。
 いくつもの現場を巡りめぐって、ようやくここに安住の地を得た、と語るようなプレハブに近づいてみると、やけに新しい木製の看板がかけられている。
「──……潮泊観光協会?」
 つややかな墨も黒々と浮かび上がる、潮泊と観光、の文字。ふたつが結びつかず、コウは首をかしげてしまう。
「……まあでも、観光協会を名乗るくらいなら地図くらいあるだろ」
 ここまでは潮泊で逢ったひとの話を辿りたどり歩いてきたが、そろそろ地図を片手の旅路も悪くない。
 幾許かの期待とともに、コウはいささかすべりの悪いサッシの引き戸に手をかけ、ゆっくりと隙間を広げた──そのときだった。
「この錬金術がうまく作動するための分岐点だったのは、これか、いやそれとも……」
 いかにもどこかの役所の余りものらしい旧式のスチール机の前で、中年の男がうなる声が聞こえてきたのは。
「あ、あの……」
 おそるおそるかけたコウの声に、男は「うわっ!」と声を上げながら跳ね上がる。
 薄いグレーの半袖シャツに夏物のズボンを履いたその男は、太い黒縁眼鏡の奥の目でしげしげとコウを眺め回しつつ、
「……い、いらっしゃい、ませ……でいいのか?」
 椅子から飛び降り、コウのもとに近づいてきた。
「あ、えっと……潮泊の観光案内、とか、地図みたいなのがあれば、と思って……」
 己が背丈の半分強くらいの男の頭越しに、コウは室内を見回す。おおきな島の全域図や港湾施設の案内図、年表とおぼし横長の紙などがいずれも支柱のかたちにたわみながら張られてはいるが、コウが探しているようなハンディサイズの地図はない。ガタガタ音を立てながら踏ん張っている年代物のクーラーからあまり涼しくない風が流れるたび、壁の地図たちはふらふらと揺れるせいで、眺めるのにも一苦労だ。
 夏ならではの汗と、場違いなところに来た冷や汗と、ふたつながら浮かべるコウに、男はぎこちない笑みを浮かべた。
「潮泊に観光? って言いたそうな顔されてますな」
 当たらずとも遠からず、と男の声に頬を引きつらせたコウの目に、男が首から提げている名札が入ってくる。
 ──潮泊観光協会・壬瀧(ミタキ)、とある、外の看板に反比例してインクが褪せつつある名札に目を細めつつ、コウは口を開く。
「あー……えっと、壬瀧、さん、その……」
 何から聞いていこうか、と迷ったコウに、壬瀧のほうから話しかけてきた。
「いやいや、それも道理。いわゆる観光、をじっくり楽しめる『らしさ』というものが、潮泊にはありませんからな。そう──有名どころか地元ならではかを問わず名所旧跡を二、三眺め、地元の料理に舌鼓を打つ、という感じではなかったでしょう」
「……そう言われてみれば」
 思わず呟いてしまってから、コウはこれまでの十日間をひとり振り返ってみる。
(たしかに、無邪気な観光とはまた別の体験はしてきたか、な)
 すがれてゆく街並みに朽ちつつある盛り場。それでも、雑貨屋の店先に並べられた品のようにはっ、とするほどあざやかな色を見せつけられたと思ったら、雷雨あがりの線香の煙にかすむ色があたりを覆う──流れる時間と、過ぎた時間との境目が曖昧な潮泊は、唯一、寄せ返しの波の音だけがやけに醒めて理性的にすら聞こえるときがある。
 ぼんやりとした思惟にふけりはじめたコウだったが、
「しかしそれでも、この潮泊を世に浮揚させ、なおかつ子々孫々が栄えるための錬金術としての観光立脚を模索する、それを企図したものたちもいたのです──この私、壬瀧を発起人として」
 壬瀧の声に、現実へと引き戻される。あわてて瞬きしたコウの眼前で、壬瀧は壁に貼られた、年表とおぼしき横長の紙の前へと歩いていった。
「しかし、潮泊にある四つの港のうちいずれかを観光客向けに整えよう──まずそこから躓きましたね」
「スタートから?」
 コウのひっくり返った声に、壬瀧はうなづく。
「この潮泊の東の港は漁師のための、南の港は交易船のためのもの。北は本土との定期的な連絡のために八十年前に急ごしらえされたものであり、西の港はいちばん古くからいろんなひとたちを受け入れては送り出してきたが、残念ながら寂れている。そんな、それぞれの港に住まうものたちの長たちもだが、潮泊を統べている網元の家とその番頭衆たちがそれぞれの理由を掲げて、いつ、どれだけの訪れが当て込めるか分からんモンたちのために、港はたやすく明け渡せん、と」
「……」
 返す言葉を探すコウに、壬瀧はほんのすこしうつむいて言を次いだ。
「そればかりか、軽々薄々なみぃちゃんはぁちゃんとやらが潮泊に大挙して押しかけられるのも御免被る、と──潮泊の名を波越しに知るものも、いくばくかの縁があって訪れるものもないままに、寂れすがれてゆくとしても……このままでよい、と」
 壬瀧の言葉に、これまで西から南へと辿ってきた途上の景色を思い返しながら、コウはふ、と気づく。
 途上で逢ったひとたちの昔話を聞いているのはコウだけで、かれらの血縁たる子や孫にそれを聞かせているところを、この潮泊に来てからまだ目にしたことはない。とおく離れ、いつかは色褪せてゆく世のひとつ語りをコウに──いや、あるいはもしかしたら、コウの手にしている玻璃混ぜ硝子の蘭燈に、かれらは語り聞かせているのかもしれない。
「あの、もしかしたら……いえ、もしかしなくても、潮泊のみなさんはいまの静けさを毀されたくないのかもしれません。こんなに時の流れがゆるやかで、どうかすると刻すら凪いでいるのでは、と思わせるところ、そうそう国内に……いや、世界じゅうどこを探しても見つからないと思いますし」
 いずれ朽ちゆくと知りながら、静けさを護ることを選ぶというならば、それもそれでひとつのありかたじゃないか。
 呑気にそんなことを思うコウ──だったが。
「『時のながれがゆるやかで、刻すら凪いでいる』これだよ、これ!」
 指をパチリと鳴らし、壬瀧氏は喜色満面の笑みを浮かべている。
「今はなにかとせっかちが過ぎて、何をするのも流行るのも速さばかりがもてはやされる。そこに潮泊のけだるいばかりに動かぬ風土は一周回って魅力的、とも映るかもしれん、ということか!」
 やはり外からの風は貴重だ、と鼻息をあらくする壬瀧に、なんとはなしにイヤな予感を覚えたコウは、
「あ、えっと、……お仕事の邪魔をして」
 すみませんでした、失礼します、と、続けざまに足を浮かせた──が、コウが歩を踏み出すより先に、壬瀧のちいさいながらも分厚い手がコウのTシャツをがしっと掴む。
「あ、あの」
「わずかではあるが謝礼は出す、宿の手配もしておくし、歩くのがつらければ自転車も貸そう。きみから見た潮泊の魅力を活かした観光地図を作る手伝いをしてくれないか」
「え」
「正直、私ではもう見慣れた景色でも、きみから見たらまた違うふうに見えるかもしれない──潮泊がいずれ朽ちゆくのが宿命だとしても、私は……私の目の黒いうちは、この錬金術の観測を続けていたいし、諦めたくはないんだ」
 どうかこの通り、何卒よろしくお願い致します、そう口にしながら深々頭を下げてくる壬瀧に、あーあ、とコウは天井をあおぐ。
どうしたもんだろうな、と外した視線の先で、蘭燈の硝子が午後の光にちか、とまたたいた。
「……分かりました、お受けします」
 玻璃混ぜ蘭燈の硝子たちも、なんだか面白がっているみたいだし。
 呟きざまにコウはぐっ、と溜息を噛みくだきながらも、壁に貼られた大きた地形図と年表とを見比べはじめていた。


                    2024文披31題 Day11.錬金術

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