ラ・トゥール・ノーヴァンブル
「ラ・トゥール・ノーヴァンブルにようこそ、ジーヴル・ブランシュ」
チェスの駒に塔を模したものがあったけれど、あれとよく似た塔が、色づいた葉もいよいよ散りゆく山を背景に建っていた。うすい象牙色の塔を何周もしている蔓の紅があざやかすぎる、と目を細めた僕の前に立つ、僕より頭ふたつ分だけ背の高い白衣の青年が、出迎えの声をかけてくる。
温和、というよりニヤケ顔、と言いたくなるような笑いかたをしている口許と、けして笑っていない眼鏡の奥の黒い目。それをみとめた瞬間、僕の身体に、おおきな試験を目前にした生徒の緊張がはしっていた。
「そんなおびえた顔しなくても、とって食いやしませんよ──こちらでお茶でも飲みましょう」
蝶番がかすかに軋む音をたて、塔の扉が開かれる。その奥から、外界よりもずっと濃い枯葉の香が漂ってきた、そんな気がした。
だいたい三階建て分くらいの塔のてっぺんには、透明なガラスがかっちり嵌められている。井戸のなかにでも迷い込んだみたい、そうと錯覚しそうになる天の青のもとに置かれた丸テーブルに、青年は紅茶を淹れた銀の茶器を置く。
「霜月の旅はいかがでしたか、ジーヴル?」
僕の向かい側に座した青年の問いに、僕の喉の奥からすぐさま言葉は出ず──沈黙が塔の内を満たす。何か気の利いたことを言いたくて、ちらちらと塔のなかに視線をさまよわせるけれど、天窓からの光が届かない部分には、壁に添った螺旋階段と棚らしきものがあること以外は、何があるのか皆目、見当もつかない。
こんな得体の知れないところに呼び出されて、なんて思うほど、言葉の尻尾を捕らえられなくなってしまう。それゆえの沈黙がいよいよ気詰まりになるころ、肩をすくめてから、青年が口を開いた。
「出立許可からひと月の旅は、言葉にできないほどすばらしかったか、あるいは、筆舌に尽くしがたいほど惨めだったか──」
「惨めなんてとんでもない!」
笑う猫のような青年に、僕はとっさに声を上げていた。
「僕は──カフェからバーへと渡り歩く暮らしを、楽しんでいました。渡り鳥やデラシネよりもたちの悪い、気まぐれがすぎるふるまいと言われれば、それまでかも、しれませんけど……」
「石の上にも三年、とはヒトの世間のことわざですが、そこまでやれとは言いませんよ──とはいえ、ひと月に四回も店を変えてきたのは、ふいに訪れた潮目の変化や、きみの好奇心の発露とはいえずいぶんと落ち着きのないこと、とは正直思ってはいますが」
上げた片頬と唇の端とはうらはらの落ち着いた声で、青年はそう口にしてから、
「とはいえ、路地裏の酒場とマダム・シーラの店で紹介状を書いていただけたのはありがたかったですね。ああいうことがないと、天使見習いの人界研修はずいぶんときついものになりがちですから。
ジーヴル、きみはそうしたヒトの好意を、よくよく身に沁みて感謝していますか?」
すこしきりりとした口調で、そう続けていた。
──天使見習いの人界研修。
有史以来、天使はそこはかとなくヒトに寄り添い、その生を加護するものとして傍らに在る。しかしここ百年来、ヒトの生活様式の変容ぶりはすさまじく早く、天使が知識として有する「ヒトの生活様式ならびに一般常識」とは、あきらかにずれていった。そのせいで、天使の加護がヒトにとっての余計なおせっかいどころか、時に災厄になってしまう事態も頻繁に発生したことに、上位の天使たちが心を痛め──ふたつの施策を敷くことになった。
まずひとつが、天使見習いをひとつに集めて教育を施す学院の設置。
そしてもうひとつが、天使見習いが心身ともに整ったと見なされたら、ヒトの世界での研修という名目で、ひと月ほどの旅を許される制度だった。
「学院の運営も研修も今のところはつつがなく、滞りなくすすめられているのは言祝ぐべきことです。
が、旅の仕上げにひとつ、きみが果たさねばならぬことがあります」
青年が僕の顔を、じっと覗き込む。夜闇より深いその黒い目に、僕の怯えて引きつった顔が映される。
「きみがこの霜月の旅で得たもののうち──外套のポケットに入っているものはすべて、この塔に置いていってください」
「……え」
リシャールの瓶を置いていくなんて、と、とっさに手でポケットを覆っていた僕に、
「その瓶だけではありません、外套の裏ポケットに入っているトパーズもです」
──トパーズ?
旅に出る時はおろか、今だって宝石に類するものは持ってないはず、と、僕はいぶかしみながら、外套の胸裏にあるポケットを探る。
──……ひやり。
隅のほうに縮こまるようにしていたそれを、僕はゆっくりと指先でつまみあげる。最初に触れたつめたさゆえに、僕の体温で溶けてしまうのではないかと、半ば怯えながら。
ようやく取り出したそれを、おそるおそる僕は手のひらに乗せ──霜月の旅で目にしてきた、紅や黄に色づいた葉を、午後のあわい光に透かせたような、ひとつぶの結晶をまじまじと見つめた。
「そのトパーズは、きみがこの旅で出逢った誰かに寄せた想いや、見聞きしたできごとに寄せた想いの凝ったもの──……そして、これから学院に戻るきみには不要のもの」
不要、という言葉だけを、やけにきっぱりと言い切った青年に、
「いやです」
間髪入れず、僕ははっきりと拒絶の意志を口にしていた。
「僕はリシャールの瓶もこの石も、ここに置いてはいきません。出立許可をもらったあのときから、いまこのときまでに過ごした日々、出逢ったひとたちを思い出すよすがとして、僕の手元に置いていきます」
「……それは、天使の本懐に反するとは思わないかい?」
天使はあまねく、ヒトに寄り添うもの。ヒトよりも長い長い時間を過ごす天使の、たかだか一ヶ月程度の日々にそうまで思い入れをするのは、いささか勝手では?
声にこそ出さなくとも、視線でそう告げてきた青年に──僕はおおきく深呼吸してからゆっくりと、口を開いた。
「これは天使見習いとしての僕以上に、ひとりのジーヴル・ブランシュとして、ずっと忘れたくない思い出につながるものたちです──たしかに、この名前を霜月の旅で名乗ったわけでもないし、まして自分の素性を口にすることもありませんでした。
けれど、僕は、この霜月にあったことに繋がるものたちをこの塔に置き去りにして、天使の顔をして暮らしたくはありません!
リシャールにもらった瓶は、いずれもっと先の旅路で、再会を約して海へと投げるためのもの。そしてそのトパーズだって──マダム・シーラのカフェの扉や鈴掛の樹、マドモワゼル・レーヌの店の脇にあったマロニエ、それだけじゃなくて、もっとたくさんの景色や香り、音や声を思い出させてくれて──また、みんなの店に行くんだ、そんな気持ちを僕のなかで奮い立たせてくれるんです。
……このトパーズは、ひとつきの旅路で抱いた僕のいろんな想い凝ったものだと、あなたはさっき言いましたよね。それならばなおさら、僕は、他ならぬ僕自身のために、この石は手放してはいけないんです!
──それこそ、いつか訪れる最後のときまで」
目に力をこめ、立ち上がった足を踏ん張って、僕は青年をほとんど睨みつけるように見つめていた。
そんな僕を、青年もしばし凝視していた──けれど。
「……まあ、この塔もいろいろなモノで溢れかえっているし、棚もパンク寸前だからね」
青年は肩をすくめるなり、くるりと僕に背を向けた。
「きみがこのきみが旅で得たものは、他ならぬきみだけのもの──か」
学院長にはそれなりに報告しておくよ。
背中で語る、共犯者のささやき。そんな青年に、僕はありがとうございます、と頭を下げていた。
「そろそろ学院に戻りなさい──ヒト曰く、旅は、懐かしの我が家や古巣に根城、ともかくも、寝付き慣れた自分のベッドに潜り込むまでが旅、だそうだから」
促す青年が、扉を開ける。すっかり陽は傾いて、名残の陽光の橙と夜帳の藍とがしずかに混ざり合う刻限になっていた。
僕の一つ星、どこに見えるだろう?
駅まで馬車で送る、という馭者さんの傍らに腰を下ろし、ゆっくり馬車が走り出しても、僕はしばらくきょろきょろと空を眺め回していた。
──そして、塔がすっかり見えなくなったころ、馭者さんの口がもぐもぐと動く気配がした。
「たいせつなひとつことを、ちゃんと胸に抱きしめてる顔をしてるなあ」
その言葉を耳にした、それと同時に──僕の目からあふれ出していた、熱い涙。
ひとつの旅の終わりがさみしいのか、それでも、この旅で出逢えた、たくさんのあたたかさが嬉しいのか──ひとことではとても、説明できそうになかったけれど。
「はい」
返事をひとつしてから、僕は外套の袖で涙を拭って、前を向く。
──まだ、終わりじゃない。僕の生という旅は、これからも続いていくんだから。
そう自分に言い聞かせながら見上げた夜空では、しろい月の輝きに負けじとまたたく星たちの競演が繰り広げられていた。
#novelber 30.塔
-épilogue-
今日から新しい級へ。
学院に戻った僕は学院長の一言を受け、つい一ヶ月前まで過ごしていた階よりひとつ高いところにある級へと向かう。先に教室にいた生徒たちは──これまでの級友たちとは違って、すこしだけおとなびた表情をしていた。
これも、ひとつの旅を果たした余裕からだろうか。
などと考えながら席に着いた僕に、日焼けした、背の高い級友が話しかけてきた。
「やあジーヴル、次の旅は、いつ出かける?」
その問いに僕は笑顔で、はっきりと答える。
「もう決めてるんだ、僕は──霜があきらかに降りる前、紅と黄の葉が門を彩る季節こそ、僕の旅立ちのときにする、って」
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