
Secréta
「こちらの小箪笥を手放される、と?」
手にしたカップの珈琲を波うたせ、瀬埜は調子はずれの声を上げていた。珈琲を口に運ぶのを忘れた姿勢のまま、瀬埜は卓上に置かれた小箪笥をじいっ、とひとまわり眺めてから、相向かいに座る山伽藤子へと向き直る。しゃんと伸ばした背筋も、歳月がしずかに彫り抜いた皺さえもくずさず、山伽家の女当主たる藤子の漆黒の瞳はじっ、と瀬埜を見据えている。昔日の美貌がうかがえる目鼻立ち、墨染めの留袖姿の藤子を前に、瀬埜は指をふるわせながらカップをソーサーへ戻し、ようやく唇を開いた。
「たしかに以前、こちらの小箪笥を応接室でちら、と目にしたときに、アドベントカレンダーのような趣もありますし、アンティーク好きのかたには良い品では、とは口にしましたが……」
あれはしがない古物商の、座興めかせのほんの軽口でしたのに。下がり気味の目尻と、烏の浅い足跡を人差し指でこすりながら、瀬埜がそう言葉を続けるより前に。
「かまいません。わたくしも寄る年波ですし、この家……山伽の家は継ぐものをとらず、わたくしの代でおしまいにすると決めましたので」
藤子はきっぱりと告げてから、瀬埜とともに卓上の小箪笥に視線を転じた。
二十五センチ四辺の箪笥が備える、鍵つきの抽斗の数、しめて二十五。折り目正しい、と形容したくなる木目を背景に、クリスマスローズやスノーフレークなどの師走を彩る花々が、ホワイトオパールにターコイズ、ラピスラズリと、これまた師走を飾る石の象嵌で品良く散りばめられている。そのさまは、数代前に西洋風の応接室に改装したらしい、もと和室の一間に据えられた年代物のテーブルや柱時計、ほどよく褪せた葡萄色の絨毯やクッションだけどなく、かつての名残をとどめている硝子障子に映る、庭の松や椿の常磐緑の深い陰翳にも媚びず怖じず映えていた。
「瀬埜さまはさきほど、こちらの小箪笥をアドベントカレンダーのよう、とおっしゃられましたわね。そのようにかわいらしく受けとってくださるならば、これも浮かばれましょう」
ぴんと張りのある声で話しかけてきた藤子を、瀬埜はつくづくと見つめる。先刻、自身で『寄る年波』と評しはしたが、その声にも居ずまいの良さにも、まだまだ老いの影は色濃く落ちかかってなどいない。
「それに、山伽の稼業のことも……老いさらばえ、慎みさえ忘れ果てて、この小箪笥の抽斗をわきまえもなくめちゃくちゃに開けてしまうことになるより前に、わたくし自身で始末をつけておきませんと、ね」
そう言うと、藤子は目線をしっかりと小箪笥の──いちばん真ん中の抽斗に嵌め込まれた『19』の数字へと合わせていた。つられて瀬埜も視線を向けると、「1」はホワイトオパール、「9」はターコイズが嵌め込まれている。ほう、と息をついた瀬埜を置き去りにするように、藤子は小箪笥から相対する瀬埜へと身体を向けてきた。
「山伽の家は、この小箪笥──『秘告げの箪笥』のあることを聞きつけて訪れてきましたみなさまの、回り舞台の憂き世にて与えられた役柄を、巧拙はともかくも演じきらねばならなくなりました際、どうしても置いていかねばならぬいろいろなこころを秘して封じ、ひとかけらなりと世に漏れぬよう護る家です」
きりり、とまなじりを張り、藤子は言を継ぐ。
「そしてわたくしは十九の歳に、山伽の十九代目としてこちらの小箪笥を先代より与えられました」
藤子の声音に瀬埜はぴっ、と背を伸ばし、あらためて耳を傾ける。
「この山深い里から遠く離れた古い街の小路に、したためはしたものの、とうてい相手には出せぬ文を文箱に納めて預かる商いもありますが……」
「そちらさまはわたくしのご同輩、に連なるのでしょうけれど……でも、山伽の『秘告げの箪笥』は、ずっと──……」
瀬埜の言に、藤子はふ、とうすく紅を引いた唇の片側だけを、ほんのわずか歪ませた。そんな藤子に瀬埜は首をすくめてから、わざとらしい空咳とともに、硝子障子の向こうの庭を見る。松や椿のつややかで深い緑のさらにその先には、四季がめぐろうとも色を変えぬ山々が連なっている。
「まこと、こちらのお宅は秘事を持ち込むにはお誂え向きの一場、ではありますかな」
いくらか茶化した口調で、瀬埜が言う。
「ええ、この家は、みなさまがそれぞれの……けして、そうとは望まぬ舞台に立つため、めいめいの楽屋にて化粧衣装をととのえるその前に、己に与えられた役柄にふさわしい心持ちをととのえ、台詞をたしかめるための場所でなくてはならぬ。
そう、十六代目……戸籍の上で曾祖母にあたるかたが呟いていたのを覚えています」
やわらかな口調の裏に、ほんのかすかな棘をふくませた藤子の声に、
「たいへん失礼いたしました、どうかご容赦ください」
追従抜きで、瀬埜は深々と頭を下げた。それを見た藤子は「どうぞ、顔を上げてくださいませ」と、平素のおだやかな口ぶりで瀬埜をうながしてから、再び口を開く。
「とはいえ、誰もいない部屋で小箪笥とひとりきり相対し、ひとつ選ばれた抽斗の内に、その胸の奥成るものを声にして吐き出しておしまいになって、と申しましても、気恥ずかしさや……己の来しかた、境遇を、いちどはしかと誰かに──それも、このひとときが過ぎ、この家をあとにしてしまえば素知らぬ他人となる『誰か』に聞いてもらいたいと願うのでしょうか。
山伽の家は、そうしたひとの願い……欲により成り、『秘告げの箪笥』と世の片隅にて囁かれるこの小箪笥を護り、付き従ってまいりました」
藤子は言うと、瀬埜に箪笥の前面をしっかりと向ける。そして藤子は席を立つと、箪笥の脇を過ぎ、瀬埜の背後へと回っていた。
「……ああ、目線こそすれ違ってはおりますが、あなたさまの気配は背中越しにたしかに感じられます。内緒話をうち明けるには、悪くない立ち位置かもしれませんね」
「目線はけして合わさぬように、と申し送りされておりますから」
ふ、と藤子が身じろぐ気配が、瀬埜の背に伝わる。くすぐったさに瀬埜の唇から笑い声がこぼれるより前に、
「その小箪笥を『秘告げの箪笥』とするために、わたくしは『19』の抽斗に、わたくしの秘密をそっと囁き、封じました──それからは本卦還りを迎えるまで、抽斗がすべて埋まるほどの秘めごとを、こうして」
抽斗の数と同じだけの鍵の束をしゃらり、と鳴らしながら、藤子が語る。その声に、瀬埜はあらためて小箪笥を上から下へと眺め回す。
ずらりと居並ぶ、二十五の抽斗。その前面には、宝石でかたどる十二月の花々が、あるものはかわいらしく、あるものは凜と咲いてはいるけれど──その奥へと、ひそめ置かれているものたちは──……。
「なるほど、これはそうおいそれと、軽々しく扱えない代物であることは分かりました。とはいえ、この小箪笥の内なる秘めごとは……?」
いぶかしむ瀬埜へと、
「ご心配なさらずとも。それはもう『秘告げの箪笥』としての役目をわたくしが解きましたから」
背中越し、藤子の笑む気配がした。
「潜む魔や、邪なるものを鎮めると伝わる香を焚きしめ、浄めた布で鍵を拭ってから、わたくしは抽斗へと向かいました。
あの日、あの夜、『秘告げの箪笥』とともに耳にし、封じたひそかごとは、我が身の世にふるあいだに、はたしてどのようになっているのか……どうかおそろしきことになってはおりませぬように、と、遠く果てしなきものへと祈るような心地になりながら、わたくしは鈴蘭水仙のあしらわれた抽斗の鍵を開け、そうっと引いてみました」
淡々と語る藤子を前に、瀬埜は固唾を飲む。
応接室の柱時計が時を刻む音だけが、やけに重たくのしかかってくる。
「そこには、わたくしが予想し、おそれていたものはなにもなく……ただ、ほんのかすかに、なつかしき花めいた残り香がただようばかりでした」
冬には咲かぬはずの花々の香に、瀬埜はふわりと鼻先をくすぐられたような気がした。そんな瀬埜をよそに、藤子は語り続ける。
「わたくしの背越しにも伝わる、胸焦がす想いを裏打ちしながらかすれる声、たったひとつぶきりこぼされた涙の気配。なんと情の、業の深い──とひとり背筋を慄然とさせ、胸底ふかく、溜息をつかずにはいられなかった、そんなひそかごとの数々でしたのに……
その主が、もはや世に在らぬ身となったからでしょうか。
それとも、ときぐすりに癒やされ、忘却という救いの淵に辿りつけたからでしょうか。
かすかな花の香だけをただよわせる抽斗を前に、ずいぶんとあっけないもの、と、つい思わずにはいられませんでした」
やるせなさに満ちた息を、藤子はひとつふかく吐き出してから、
「そして最後に、わたくしの秘密を解きました」
やわらかい声でそう口にした。
「かつてわたくしが、この小箪笥を『秘告げの箪笥』と成らせるために、『19』の番がつく抽斗へと、零し封じたひそかごと。幾十年ものときを経て、開けた抽斗には──薄紅色の、ちいさな薔薇のかたちした、飾り砂糖がひとつ入っておりました」
なんともかわいらしいものが、そう合いの手を入れようとした瀬埜の口をふさぐように、
「ああ、まだ、わたくしの秘密は現世にこうして在る」
藤子が陶然と囁く。
「なんという執着、と、我ながら呆れもしました。けれども、このまま抽斗に入れたままになどできません。さて、どうしたものかしら、と首をかしげたわたくしの目に、三時に淹れた珈琲が映りました」
背越しにも、藤子が花片をほころばせるように笑むのが瀬埜にも伝わってきた。
「いつもは砂糖などいれず、しんと黒いままの珈琲をいただくのですが、わたくしはそこに、抽斗の内で凝った飾り砂糖を入れ、思いつくまま、ミルクまで注ぎ足していました。珈琲を口にするようになってからというもの、ついぞしたことのない仕立ての珈琲は──やわらかく、ほんのりとあまく、芯から美味しい、とさえ思えました」
身をふるわせた藤子に、
「さて、あなたさまにそうまで思わせた、薔薇のかたちの飾り砂糖──……あなたさまが、わかき日に、その箪笥の内へと封じられたのは」
聞くなど野暮だ、と静止する理性を振り切り、尋ねてしまっていた瀬埜。
そんな彼へと藤子がうかがわせたのは、不躾をとがめる気配ではなく。
「世に慣れたかたがたには他愛なく映るでしょうけれど、年端もゆかぬ娘には、声にしてしまえば、花めいてうつくしきひとつ世界を、底知れぬ闇に閉ざしてしまうほどにこわくせつなく、それでいて、抗えぬほど甘美とも映るひそかごと……そのように、思し召しくださいましたら」
藤子の言が締めくくられるより前に、彼女の総身からただよう香が、瀬埜の総身を覆い始める。百花繚乱、という言葉を連想させる、そのはなやかさ、あでやかさの奥にひそんでいるのは──……
「あら、珈琲が冷めてしまいましたわね」
呆然としたまま動けぬ瀬埜の後背から離れ、藤子は奥にしつらえられた瀟洒なローボードであらたな珈琲を淹れている。珈琲の香が、室内の空気を入れ換えるように漂いはじめたのをしおに、瀬埜は総身の緊張をゆっくりとほどきはじめた。
「どうぞ」
なにひとつ飾りのない真珠色のカップとソーサーを、藤子が差し出してくる。そのやわらかい所作のあと、相向かいに座り直し、砂糖もミルクも入れぬ珈琲を喫する藤子のくちびるをぼんやり眺めながら、瀬埜は思い返していた。
(山伽の姓を名乗る女性は、家どうしの政略結婚が成らぬ限りは、ここで『秘告げの箪笥』を護りながら生を享える、と聞いたことがある。他所に嫁ぐにせよ、女主人として残るにせよ、けして己の意思では選び得ぬさだめを受け容れてきた彼女たちの、はたしてその胸の内なる、ほんとうのこころは──……)
しんと静まる応接室で、藤子は黙然と珈琲を口に含んでいる。
いつだって黒珈琲しか口にしないこの女主人が、はじめて己が秘めごとの凝った砂糖を入れた珈琲を口にしたその瞬間──きっと、そのひそかごとのあまさと熱に、ひとりはなやかに微笑んでいたのだろう。
そこまで想像してから、瀬埜は頭を左右に振り、しがないながらも古物商の末席に連なるものとして、わざとしかつめらしく値踏みするまなざしを小箪笥へと向けた。
(いまはただ、遠いむかしの秘密の名残をとどめた香がただようばかり。とはいっても……さてさて、これが『レトロな小箪笥』のふれこみで、店におとなしく並べられるのはいつの日になるやら)
──この抽斗をすべて開け放ち、数年はたっぷり陽の光を浴びさせたほうがよさそうな。
剣呑剣呑、と口のなかで繰り返してから、瀬埜がすすった珈琲は、どこまでもかぐろなる苦味を舌へふかくふかく、まとわりつかせて離れずにいた。