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薄き緑のなごり夢

 ──あのひと、今日も来てる。
 潮泊の東の港の奥にある喫茶店、その大窓をちらちらと窺い見ている少年がいる。まだ薄くてちいさな背中からは、待ちびとの姿を見つけたこころの声がコウにまで聞こえてきそうに強張っていた。今自分では珍しい学帽の徽章と、半袖の白いワイシャツの左袖に『潮泊』とある。ということは、ここにひとつきりしかない中学校の生徒か、とコウは見て取る。
 赤味のつよい紫の日除けテントにも、ニスが落ちて煤けた扉にも店の名は記されてない。ただ、昔の映画でよく見かけるような店の造りから、なんとなく喫茶店なのだろうと推測されるこの店に、中学生がひとり、足を踏み入れるような度胸はそうそう湧いてはこないだろう。
 ──あの制服、どこの学校だろう?
 少年が細めた目につられるように、コウも店内を注視する。すこしだけ深緑が溶け込んだ色の、厚いガラス窓の向こうでは、背に届く黒髪を下ろしたセーラー服の少女が、左手で頬杖をついている。少年よりは二、三年ばかりおとなびて見える横顔から察するに、本土の高校生だろう、とコウはふむ。年上のひとにあこがれる年頃っていうのも、たしかにあるからね、とコウは口のなかで独りごちると、もじもじする少年の隣で扉のノブに手をかけた。
「いらっしゃいませ」
 嵌め込まれた曇り硝子の分だけ重い扉を開けたとたん、からん、とカウベルが鳴る。老境に近いが、ガタイのいい店主の渋い声とコウの気配にも、少女は姿勢をくずさないままでいた。頬杖をつきながら、少女の黒い瞳は扉でも、カウンターの奥にずらりと居並ぶ茶や緑の酒瓶にも、少年が熱っぽい視線を送る窓にも向けられず、どこか当て所なくさまよっている。
そんな少女の斜向かいにコウは腰を下ろし、手擦れした革張りのメニューを見る。縁がセピアに焦げている象牙色の紙に記されているのは、『珈琲』『紅茶』『アイスクリン』の三つきり。
「──……アイスクリン?」
 思わず声に出してしまったコウに、
「うちの店で出す甘味は、代々これひとつきりで」
 注文の品を差し出し終えた店主が、コウへと近づきざまに返しつつ、
「いま、あの娘が食べてるのが、それ」
 囁くと、胸の厚い上体を斜めに逸らしてみせた。
 紺青色した襟に二本の白線をあしらったセーラー服に、膝をすっかり隠すスカート丈と古式ゆかしくも映る制服姿の少女が、銀のスプーンを口許へとはこぶ。そのもとにある、透明な切子硝子のデザートグラスにのっているのは──コウの予想に反して、薄緑のアイスにチョコチップをまぶしたひと品だった。
「えっ?!」
 アイスクリン、の呼び名に反して、まさかの今風なチョコミント?
 驚きがそのまま声に出ていたコウに、少女がはじめて、にっこり笑いかけた。
「これ、この店のオリジナルだから」
 少女へと、返す言葉を探すコウを尻目に、少女はゆっくりとスプーンに指をかける。そのしぐさが艶めいて見えた分だけ、窓の向こうで少年が息を呑む気配がコウにまで伝わってきた。
「……ご注文は?」
 そんなコウを動揺から引き摺り戻すように、店主が声をかけてくる。
「あっ、じゃあ……アイスクリン、で」
 どぎまぎしながらオーダーしたコウに、彼女がふふ、と声を立てて笑いかけてくる。思わずコウは窓の外へと顔を向けた──が、思いがけず目にした意中のひとの微笑みに、少年は耳まで赤くしてうつむいてしまっているのが見えた。それになんとなくほっと胸を撫で下ろしているコウの内心を知らずか知ってか、
「そういえばこの店のアイスクリン、男の子たちのあいだじゃブラックコーヒーとならんで、美味しく食べられたら一人前のオトナの証、なんですってね」
 なおも少女は話しかけてくる。
「へえ……」
 西の港にある空き地に、かつてあった喫茶店の話を思い出しながらうなずいてみせたコウに、
「でもこの店、昼間だけはかろうじて喫茶店っぽい雰囲気を一生懸命出しているけど……夜はそうじゃない、ってなんとなく分かるでしょう?」
 はっきりとほくそ笑んでいた少女の唇が、やけに紅く映った。
「……まあ、なんとなく」
 棚に並ぶ酒瓶だけでなく、赤がくすんだビロード張りの椅子の奥や壁紙からも、じわりとにじむ煙草の香が、この店の夜の貌をそれとなくコウに伝えてくる。
「だけど、ね。そこで店の扉ひとつ開けられないなんて、ずいぶん臆病だわ」
 すげなく決めつけるような口調で言い捨てると、少女はすこし溶けはじめたアイスクリームを口にする。
「そこは……純情、って言ってほしい、かな」
 窓の向こう、唇を噛みしめている少年をちら、と見、コウは言い返す。
「扉を開けて店に入って、アイスクリンをたのむのも──気になるひとのことを尋ねるのも、ものすごく勇気と度胸をかき集めないとできないこと、なんで」
 少年のせめてもの名誉のために、そう、コウが内心で独りごちたことなど知らぬ少女が言葉を次ぐ。
「……あの夏の日、この店に入ってきて、わたしの名前を聞いてくれてたら──……いろんなことが、すこしは違ってたかもしれないのに」
 隠せぬ願いがにじむ声に、コウが息を呑んだ次の瞬間。
 少女が手にしていた銀のスプーンが、からりとデザートグラスに触れる。やけにおおきな音、とコウが知覚したそのときには、少女の姿は店からかき失せていた。
「──え?」
 薄緑色のアイスクリンはとうになく、窓越しの光にデザートグラスの切子模様がきつくとがる。背を伝う冷や汗に我に返ったコウがはっ、と窓の外を見れば、少年はまだ、そこに少女がいるように、焦がれるような視線を注いだままでいる。
「この店、昔っからのこりがちみたいでして」
「のこりがち、とは?」
 コウの問いに、店主は眉尻を下げて答える。
「幽霊、とまではまだいかないにしても……ずっと人生過ごしていると、いろいろと出てくるじゃないですか。『もし、あのとき、こうだったら』みたいな夢想が。この店、特にそういうのが代々多くて」
「……」
「この店で過ごしたささやかな時間のなかにさえ、夢想してしまう人生の分岐……なのかもしれませんが」
 それ以上は客の来し方行く末は詮索すまい、と線を引くように、店主はのこされたデザートグラスを下げる。その背を見送ってからコウは、喫茶店でオーダーがふつうに通って、きっちりアイスクリンを食べてからかき失せるなんて、どこまでつよい夢想がのこっているんだろう、と息をついた。
(まあ、それさえも潮泊という地の成せる業、なんて言い切られたら、それまでの話なのかも)
「お待たせしました」
 それ以上、コウが考えるのを止めたのを見透かしたように、店主はテーブルにアイスクリンを置く。すずしい色の合間から、ちらちらと顔をのぞかせるチョコチップを見ながら、「いただきます」とコウはスプーンを差し入れた。
 ひんやりしたスプーンがコウの唇に触れ、アイスクリームがゆっくりと舌先をおとずれる。こっくりとあまい食感の奥からたしかに漂ってくる、ミントとチョコチップのほろ苦さ。
「……これはたしかに、おとなの味だ」
 このチョコミントの妙味をほんとうに芯からしみじみと味わうには、オレもまだ青くて若いのだろうな──銀のスプーンを運ぶ手はやまぬまま、コウはひとくちごとにしんしんと、もの思いにふけっていた。


                 2024文披31題 Day12.チョコミント

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