
コロナ、麒麟、そして下山の生き方
「ある年齢を過ぎると、人生というのはものを失っていく連続的な過程に過ぎなくなってしまいます。あなたの人生にとって大事なものがひとつひとつ、櫛の歯が欠けるみたいにあなたの手から滑り落ちていきます」(村上春樹『1Q84』BOOK2より)
週末の感覚について。自粛生活が始まって失われた様々の生活シーン。それは仕事であったり、イベントであったり、飲み会であったり、デートであったり、日常の楽しみが公私ともども消え去ったわけですが、もはや週末と土日の感覚も希薄になっていました。
去年の暮れからは競馬のレースからも降りて、これで土日感はさらになくなり、Twitterのタイムラインに流れるつぶやきに僅かの週末感が残っているのですが、そこで思い出したのが上に引用した村上春樹『1Q84』BOOK2の一節。ひょっとしたら、コロナ関係なしに、懐かしんでいる日常シーンは「ひとつひとつ、櫛の歯が欠けるみたいに」俺の手から滑り落ちていく運命だったのでは? という発見でした。
なんでもかんでもコロナのせいにしているのではないか。コロナにさえ依存しているのではないか。
この発見は意外と気に入りました。気に食わないけど、気に入った。少なくとも俺の行動論に喝入れしてくれました。
そこでまた思い出したのが、日刊ゲンダイ連載の五木寛之のコラム『流されゆく日々』の「下山の時代の生き方」の次のような一節です。
「私たちは起ちあがらなければならない。新しい目標に向かって。しかし、それはふたたびの登山ではないだろう。私たちはすでに山頂をきわめて、下山にさしかかっているのだ。」
俺の場合、人生の下山の時代がコロナと重なり、いやに従順に、妙におとなしくダラダラと下山しているのではないか。
俺より若い世代なら十分な登山さえせずに山を下りてしまう人もいるかもしれません。「ひとつひとつ、櫛の歯が欠けるみたいに」「手から滑り落ちていく」スピードがハンパでなく、個人的ではなく、社会的な圧を感じる毎日です。テレビをつければその風潮は明らかです。
だから、ちょっと下山をためらってみようと思う。
山は下りるけど、どう下りるかは自分で決めさせてもらう。流されつつも抵抗して、つかめるものにはつかまって、ジタバタしてみようと思う。
どうせなら自分なりの下山を極めたい。
そういう意味では、『麒麟がくる』というのは象徴的なドラマではないでしょうか。本能寺は信長からの究極の下山とも言えます。
そろそろ最終回のネタバレがタイムラインに流れてくるころです。
俺はたぶん明日以降に観るので、さんざんいろんな感想を読んでからでなりますが、自分の下山の喝入れのひとつとしても楽しむつもりです。