帰る ~小説~前編
1
その日は、朝から今年五回目の雪が降っていた。
十八歳になったばかりのとまは、傘も差さずに視線を足元に落として家路を歩いていた。積もった雪を踏む足音が蕭々としてそこここに反響していた。
空を仰ぎ、吸い込まれそうな錯覚を起こすと、彼の足元はおぼつかなくった。道端にそれ、何かが足に引っかかった。とまは我に返ったが遅く、凍てつくほど冷たい雪につんのめって倒れた。小さく叫んだつもりだったが、声はあまりの冷たさに出てこなかった。立ち上がることもすぐにはできなかった。彼は弱々しくもがいた。
しかし、目眩のする白さと刺すような冷たさの上に寝転んでいると、次第に眠くなってきた。むしろこの感覚から離れてしまう方が恐ろしい事のように思えた。
彼は朦朧としながら、自分を転ばせた物は何だろうと確かめてみる気になった。重い頭をもたげて後ろを振り向いた。
(人間だ)
彼は呆気にとられた。よそ見をしていたから全く気が付かなかった。とまは当然のように飛び起きて、その全容を見た。
うつ伏せで倒れていたから顔はわからなかった。茶髪に青いかえるのニット帽、橙色のパーカーに黒いジーンズ。ふくらはぎから下は雪に埋もれている。男ということはわかった。同い年ぐらいだろう、ととまは推測した。
とまはこの男を起こそうとした。近くに落ちていた枝を拾って、「おい」としきりに呼びかけながら首を突いた。時折道を行く人は、彼らを奇異また憐憫の目で見た。だが近寄りもしなかった。これが人情というものである。
雪が止んだ頃に男は目を覚ました。むっくり上半身を起こすと顔の雪を払って唾を吐いた。とまは思わず尋ねた。
「雪、おいしかった?」
滑稽で笑止千万なこの質問に、男は相手を凝視した。更に滑稽なことに、とまは真面目腐った顔をしていた。男はとまが気違いであることに一種の安心を覚え、頷いた。そして、付け加えた。
「まあ、タコスの方が好きだけどな」
とまは舞い上がるような期待を感じた。家にタコスがあったかもしれない。彼はできるだけ平静を装って男を家へ案内することにした。
男はジョンと名乗った。ジョンは千鳥足で歩いたが、とまが「肩貸すよ」と言うのを無言で断った。それからとまの家に着くまでお互い口をきかなかった。
とまの家はキノコの形をしていた。中は至って普通のリビングだが、暖炉があるのはその近辺では珍しいことだったので、ジョンは真っ先に火のついていないそれを見た。それから思い出したように大きなくしゃみをし、身震いした。とまは彼が風邪を引かないように、替えの服を渡した。「ありがとう」ジョンの手に渡った時、服を伝って生暖かい電流が流れた気がした。
とまが暖炉に薪をくべているとき、奥の部屋から少女が顔を出した。とまの妹のさつきだ。ポニーテールの髪がいたいけに揺れ、とまやジョンより幾分幼く見える。「大人になりきれない子供」といった風だった。
「こんにちは」彼女は珍しいお客をじろじろ眺めた。
「よお。えっと、あんたは」
ジョンは無愛想を極めていた。さつきは兄の知人がそんな態度をとることに、些か拍子抜けがした。だが何となく好感が持て、ついぞんざいな口をきいた。
「妹だけど」
そして彼女は、とまが暖炉の前に濡れた服を置くのをちらと見た後、催促するようにジョンに視線を戻した。ジョンはダイニングテーブルの前に黙然と座っているきりだった。さつきは兄のそばへ行くと、
「どうしたってのさ」
「彼…ジョン君が、雪に埋もれていたんだ」
「ふーん?」
しばらく、火の弾ける音だけが聞こえていた。
「さつき、タコスある?」
さつきは頷いて、さっさとキッチンへ行ってしまった。
ジョンの服が乾くまで、三人はタコスを食べていた。
「さっきよろけていたけど、大丈夫なの?」
とまは心底心配していた。だがジョンは平然と言った。
「酔っていただけさ」
「何に?」とまは無意識のうちにそう尋ねた。
「えっと‥‥‥雪に」
とまはついさっき、雪の上で寝転んでいた時の事を思い出した。あれがもしや‥‥‥。さつきは深く頷いた。
「わかるよ、あたしもこの頃雪に酔っちゃうんだ。あれってちょっと良いと思わない?」
ジョンはにやりとしたが、とまは神妙な顔で考え込んでしまった。
ドアを叩くけたたましい音が沈黙を破った。
とまがドアを開けると、ここ五月村で郵便配達をしている、さつきと同い年の大和という少年が立っていた。大和少年は雪の降る寒さにはお構いなしに甚平を着て、純情そうに笑っていた。とまは彼を労わるように言った。
「やあ大和君、寒いのに大変だろう。今ちょうどタコスがあるよ。上がっていけばいい」
とまはドアを押さえ、眉を少し上げて笑いかけた。しかし大和少年は近所の家を見回して、顔をしかめた。「ああ。まだ配達が終わってないんだ。せっかくだけど‥‥‥」
とまの気分は途端に沈んだようだった。努めて明るく笑おうとしたが、目はできなかった。最近よくあることだが、彼の気分は突如として沈む。
彼が「そうか」と言う前に、さつきが奥から叫んだ。投げやりな口調だった。
「入っておいでよ。いいじゃん、そんなの」
もともとやんちゃな大和少年は、タコスの誘惑に負けて「ちょっとね」と言いながら上がってきた。とまはドアを慌てて閉めた。完全に閉める前、白い雪片が頬に当たって溶けた。
「とま、きみに手紙が届いていたよ」タコスを頬張りながら大和少年が封筒を見せた。「どれ」とまは受け取り、封を切った。中には一枚の紙切れに、
帰る。 エルカ
と書かれていた。
とまは口笛を吹き、手を叩いて大喜びした。
「嘘みたいだ。エルカが帰ってくるんだ!」
その言葉にさつきと大和少年は仰天し、紙きれを覗いた。そしてとまと同じように喜んだ。
「エルカって誰だよ」
いらいらしたジョンの声を聞くと、一同は椅子に座り直した。
「僕の幼馴染だよ」とまが説明した。「一年前、仕事が見つかったとかなんとか、それだけ言って五月村を突然出て行った」
大和が呟くように言った。「急だったよな」
さつきがますます小さい声で言った。「急だった」
ジョンはエルカという人物を容易く想像した。はやてのような美しい女を。
「帰ってきたら、パーティー行こう。その時はジョンもおいでよ」
とまはジョンを意地でも誘うつもりだった。ジョンは彼を変な目で見て、いい加減な調子で「ああ」と言った。
2
森に入った途端、闇が辺りを包み込んだ。とまは懐中電灯をつけて鼻歌を歌い出した。
「おーい、とまぼうや」
聞き慣れたしわがれ声に呼ばれ、とまは振り返った。森へと続く畦道から、大和少年の祖母のメイばあさんが杖をついてやってきた。しかし、その姿は水平線の燃えるような残照のせいで真っ黒に見えた。とまはぞっとして、思わず「メイばあさん?」と叫んだ。
「こんな時間に森へ行くのかい」
「ええ。エルカが帰ってくるから、パーティーで会うんです」
メイばあさんがとまから一メートルのところまで歩いてくると、ようやく彼女の大きな鼻と皺だらけの笑顔が見えた。その目はしばらくして大きく見開かれた。
「おやまあ、エルカちゃんが。そりゃ嬉しいねえ。前に会ったのは‥‥‥いつだったか、憶えてないよ。嬉しいねえ」
とまは少し緊張して言った。「人が変わっていないと良いんですが」
メイばあさんは再びいつもの笑顔を浮かべ「あの子は優しいよ」と言った。「ちょっと無茶するけどね」
森が開けたところでは毎週パーティーが行われていたが、今夜はとまにとって特別だった。突然消えて、二度と会えないとも思っていた親友が帰ってくるのだから。
木に囲まれた空き地も、人々の談笑やパチパチと火の粉を舞い上がらせて燃えるキャンプファイヤーのために本来の静けさを失っていた。いや、むしろこの喧騒が本来の姿なのだろう。とまは、火のそばに寄って辺りを見回した。
ジョンは空き地の隅の暗闇にある切り株に腰掛け、視線をどこかわからないような場所に向けて煙草をくゆらしていた。
「やあ、来たんだ。嬉しいよ」
そう言ったとまの笑顔を、ジョンは探るように見つめた。だが何も得られなかった。彼は言った。
「パーティーなんて久しぶりだよ」
とまはジョンの隣の切り株に座って、膝に頬杖をついた。
「どうして?パーティーは楽しいのに。毎日やりたいくらいね」
ジョンは鼻で笑った。
「ふん、どこが。今までのパーティーは全部つまらなかった。今回はどうだか」
とまはジョンをどうにかしてハイにしたいと強く思い、立ち上がって、ギターを持って眠そうにしているアフロの男のところへ行った。とまはレインと言うその男によくパーティーで会っていた。
「やあ。レイン、起きるんだ。今友達が来てるんだけど、ダンスの曲お願い。すごくハッピーなやつ」
レインはパーティーでギターを弾く以外にダンスの曲も担当しており、設置されているスピーカーから様々な曲を流して人々を楽しませていた。彼は頷いて小さな機械をいじった。とまがジョンのそばへ戻った時、鼓動が早まるような快いテンポの曲が流れだした。パーティーにいる人の多くは体を動かし始め、とまもその一人だった。彼はうんざりした表情のジョンを見て、踊りに誘った。だがジョンの腰はあまりにも重かった。
とまはダンスし続けていたが、ジョンがいよいよ哀れに思えてくるのだった。彼は、今周りで踊る人々のように、ジョンの手前で心からの笑顔でいられるような質ではなかった。かと言って、超然としているように振る舞う人を哀れむことで、本人が一層惨めに思うということが予想できない訳もなかった。その結果、とまは無邪気を装いながらジョンに話しかけるしかなかった。
「ふう。さすがの僕も疲れてしまった」
とまの試みはやはり失敗した。彼は素直すぎたのだ。彼の小さな葛藤は自然ジョンに伝わり、居たたまれない気持にさせた。ジョンは眉間に少し皺を寄せ、仕方なく口を開いた。
「なあ、こないだこの村に住んでる人に聞いたんだけど、伝説のジュースがあるって本当なのか」
とまが五月村じゅうで有名な、ベンジャミン特製の「キノコジュース」を知らないはずはなかった。しかしあれは、若者が飲んだら一気に老けてしまうという恐ろしい噂があった。ベンジャミンは百歳を超えているが、それもキノコジュースのせいだと村の人達は言った。噂が本当かは知る由もなかったが、とまはジョンに飲ませたら大変なことになる気がしてならなかった。
「それを飲んだら何?そんなの本当にあるとしても、知りたいなんて思わない」
すると、ジョンはさも不愉快そうに舌打ちをした。とまは反射的に「ごめん」と謝った。
そこまで気詰まりでなかったのは、レインの流したあまり上品ではない音楽と、踊り狂う人々のおかげだった。ジョンをハイにする方法を探しあぐねたとまは、黙ってその人々を眺めていた。踊る気力など、とうに消え失せていた。ジョンも同じようにしていた。
二人共、こう思っていた。この人と一緒にいない方が良いのかもしれない、と。とまは、ジョンとは隣同士の切り株で話すより、カフェの椅子に対坐して話した方がむしろうまくやっていけるような気がしていたのだった。それは馬が合わないからではなくて、とまが実はキノコジュースに興味を持っていて、ジョンがそのことを知ったら訳を尋ねてくるに違いないと恐れたからだ。またジョンの方では、とまがそんなことを思っているとは露知らず、とまの、キノコジュースを毛嫌いする態度を、自分が「キノコジュースを飲みたい」と言うことでひしゃげてしまったら面倒だと考えていたのだった。彼は既に、とまがあのジュースを求めうる人間であることを予感していた。今はそうでないとしても。
けれども、どちらも尻が磁石で引きつけられたかのように、切り株から立ち上がることができないのだ。
その時、とまは人混みの中にある少女の姿を見出した。深碧のショートヘアに丈の短いショッキングピンクのワンピースの彼女は、紛れもなくエルカだった。とまが呆然としているのに気づいて、ジョンはその視線を追った。想像以上に綺麗な女がそこにいた。
彼女は誰よりもダンスがうまかった。まるで空き地の真ん中で燃え上がるキャンプファイヤーのようである。切れがあるし、それに心から楽しそうだ。
とまはジョンと顔を見合わせ、頷いた。彼らは同時に立ち上がり、曲のリズムに体を揺らしているエルカに近づいていった。エルカが髪を翻して振り返った。そして満面をほころばせて手を挙げた。目に炎が映って揺らめいているのが見える。
「久しぶり。こちらはジョン君」とまは気恥ずかしそうに言った。
「ふうん」エルカはジョンをまじまじと見た。ジョンも見返した。エルカに対抗しようとしたのではなく、ただ目が釘付けになってしまうのだった。エルカは片手に持っていたコップを口に運び、一息に呷った。ジョンはその隙に煙草を捨てた。これほど瑞々しいものを前にして喫煙している場合ではない。
「その変な色のは何」
エルカのコップを指差して、とまが尋ねた。「おいしいのかい」
エルカは無言で横を見やった。その先にはテーブルがあり、老人が飲み物を売っていた。不思議な赤褐色の飲み物が並んでいたが、老人を見てとまは息を呑んだ。
「あれは、ベンジャミンさんだ。まさか」
とまは急いで駆け寄った。
「ベンジャミンさん。これはキノコジュースですか」
「そうじゃ。お前さんもどうかね。一杯二百ジャクシだよ」
とまは焦ってまくしたてた。「待って。今、友達が飲んでしまったんです。老けたらどうしてくれるんですか?」
「老けるじゃと?」ベンジャミンは眉を吊り上げた。「ふむ。そんな噂があるのか。まあ、無理もないわ」彼は何やらぶつぶつ言った。
「少年よ、そりゃまんざら否定はできぬ。じゃが、お前さんやその友達が飲んだって、別に老けることはないだろう。多少酔うかもしれぬが。はっはっは」
どういうことだろう。老ける人もいるということか。とまは恐る恐るエルカを一瞥した。老けてはいなかったが、やはりベンジャミンを信用することはできなかった。
「でも、いりません。それじゃ」
「そうかい。お前さん達なら大丈夫だと思うがね」
その言葉は何か引っかかったが、とまは足早にそこを離れた。入れ違いにジョンがベンジャミンの屋台の方へ歩いていこうとしたが、とまはその肩を?んで止めた。ジョンは仕方なく諦めた。
「どうして止めるの」エルカが無邪気に尋ねた。「ただのおいしいジュースだよ。飲んだらいいのに」
とまはエルカを不安げに見つめた。エルカはもう若さを失った?
しかしとてもそうは思えなかった。エルカは去る以前と何も変わってはいない。いや、何かが確かに変わっているが、また何か・・・彼女の心髄とでも言おうか・・・はいつだって、今だって彼女の眼に宿っていた。とまはベンジャミンが「お前達なら大丈夫だ」と言ったのを思い出し、その言葉を信じてもいいかもしれない、と思った。
何より、エルカが勢いよくキノコジュースを呷った姿が、たまらなく彼を魅了した。とまはジョンを連れて引き返した。
「おや、何じゃ。キノコジュースが気になるんか。はっはっは」
とまは少し赤くなって四百ジャクシをベンジャミンに渡した。ジュースの入ったコップを二つ受け取り、一つジョンに差しだした。
「変な奴」ジョンはにやにや笑いながらそれを受け取った。
そこを去る時、ベンジャミンが白い毛で覆われた顔で微笑んだ。柔和で気骨のあり、しかしやや索漠たるその顔がとまの網膜に染みついた。三人でダンスをしながらキノコジュースを一口飲む度に、その顔が頭にくっきり描き出された。とまと、いつの間にか乗り気になったジョンはエルカに及ばないまでも華麗に、激しく踊った。
踊り疲れると、ジョンは再び煙草に火をつけた。とても満たされた表情をしていた。
3
「大和君はさ、もっと僕達と遊ぶ時間があった方が良いと思うね」
とまが自分の家の庭に寝転がり、空に流れる小さな雲を眺めながら言った。
「今、時間を作っているところさ」大和少年が弁解するように言った。
「時間を作る?どうやって」ジョンは一笑して尋ねる。
「郵便屋をしているじゃないか」
大和はそう答えたが、レインは苦笑した。
「それだから土曜日しか皆で集まれないんだよ」
彼は大和少年を責めたのではなかったが、本人は矛盾を突かれて渋い顔をした。
「ごめん。でも、僕んちにはばあちゃんがいて、郵便屋をやめることはできないんだ」
とまはメイばあさんの丸まった小さな背中を思い出した。
「そう。僕に何かできることがあればいつでも手伝うよ」
「ありがとう。でも配達は楽しいし、問題ないよ」
何だか彼らは詭弁を弄した気持ちになった。とまは目をきょろきょろさせて、地面を埋め尽くしている雑草を一本引き抜いた。その茎を吸うと、甘い味がするので、とまは蜜葉という名前をつけて気に入っていた。大和とレインも、とまにならって蜜葉を採って口にくわえた。それまで煙を吸っていたジョンは、渋々煙草を捨てて同じようにしていたが、酸味のある蜜が爽やかに舌に広がった途端、思わず庭一面の雑草を見直した。彼の様子に気が付いたとまは言った。
「そうか、ジョン君は蜜葉を吸ったことがないのか」
「おいしいな、これ」
ジョンは珍しく心底から言った。その声を聞いた大和少年は、目から鱗という表情になった。
「そういえば僕、初めてこの味を知った時はおいしくてびっくりしたけど、今は何とも思わずに吸ってたな」
「あっそう」ジョンはなぜか、情けないような、きまり悪いような顔をしてそっぽそ向いた。
そこへ、エルカがやってきた。彼女は懐かしそうに庭を見渡して、蜜葉を口にくわえた。そして目を細めて満足そうに頷いた。
「まだあって良かった」
「相変わらずの味でしょ。ジョン君も気に入ってくれたんだ」とまは上半身を起こして言った。晴れた日には調度良い冷たい風が通り抜けたのがわかった。とまは鼻からすうっと息を吸い込んだ。エルカは彼の隣にのんびり腰を下ろした。
「ねえ、あそこは皆で行きたいね」
エルカを怪訝そうに見て「どこ?」と言ったのは他所から来たばかりのジョンだけだった。
他の人には「あそこ」がどこか判然としていた。五月村から電車で二時間かかる、一番星町のことだ。エルカが五月村を去る前に、彼女と、とまと、大和少年と、レインと、さつきの五人で、いつかあの町へ行こうと約束を交わした。その後すぐにエルカはどこに行くとも言わずに姿を消したが、久しぶりに帰ってきて、それに約束を覚えていることを大和少年とレインは胸の内で喜んだ。
だが、とまは違った。彼はエルカの言ったことを、一番星町にはジョンも連れて行きたいということであると解釈したが、不思議そうにしているジョンに向ってこう言った。
「ああ、五月村に一つしかないタコス屋さんのことだよ」
約束した当時、エルカと「町へ行ったらピザ食べたい。絶対食べよう」と騒いでいたとまが、一番星町の事を忘れるはずはなかった。エルカと大和少年とレインは目を丸くした。
「おお、そりゃ行くっきゃねえな」
何となくざわついた空気を感じたが、タコスに目がないジョンにはそれを咎める気はなかった。
とまは心の中で言い訳を繰り返していた。
(僕はあの自由で美しい町へ行きたくない訳では決してないんだ。ただ旅の準備が、ここから出ていく準備ができていないだけなんだ。そしてジョンだって同じだろう。エルカ達には本当に悪いけど‥‥‥)
「タコスが食えるなら何だっていいさ」
ジョンの気の抜けた声がとまの思考を遮り、青天井の彼方へと消えていった。彼らは皆、しばらく黙ってその方向を仰いでいた。
4
日が沈んでいく頃、メイばあさんはロッキングチェアに曲がった腰をかけて編み物をしていた。そろそろ孫が帰ってくる時間だった。彼のために夕食を作ろうと思い、メイばあさんが杖をついて立ち上がろうとした時、家の外で子供の声が聞こえた。
「大和ん家はひよこの巣なんだよ!」
メイばあさんは首を傾げた。どういう意味かわからなかった。別の声が言った。
「ああ。ぴいぴい鳴いてるのが確かに聞こえるね」
彼らは大声で笑った。卑劣で下品な笑い。メイばあさんは知らんぷりをして今度こそ立ち上がった。だが、背を向けた扉の向こうから孫の声がした気がして、遠い耳を懸命に澄ませた。
「きみたち、何してるんだい」
やはり大和少年だった。郵便の仕事から帰ってきたのだ。彼が自分の家を「ひよこの巣」と言って囃し立てた子供らを軽蔑しているのが明らかな、冷ややかな声だった。
「何も。お喋りしているんです」
再びあの笑い声が上がる。大和少年の軽蔑は怒りに変わった。彼は自分が馬鹿にされるのは構わないが、祖母にだけは聞かせたくなかったのだ。証拠に、大和少年は家の中のメイばあさんを憚る低い声で、
「ここから立ち去ってくれる」
と言った。子供達のひそひそ声と走り去る足音が聞こえた。
メイばあさんは他人に何を言われようと動じない質だった。と言うより、歳のせいで鈍感になっていた。だからいつもの温和しい微笑みを浮かべて扉を開けた。だがそこにいるはずの孫はいなかった。
とまは家の裏の川で、さつきと釣りをしていた。お玉杓子をつって、庭で燻製にする予定だった。
二人は、いつものように静かに河岸に並んで座って、お玉杓子が食いつくのを待っていた。さつきの竿に手ごたえがあったが、引き上げた時には何もかかっていなかった。バケツに入れていた餌が底を尽きたので、とまが家の中へ取りに戻った。
その時、誰かが玄関の扉を叩いているのに気付いた。叩く音につられて、扉に近付くとまの足は焦った。彼は扉を開け、驚いた。
「どうしたの」
これが真っ先に口から飛び出た言葉だった。とまの前にはひどく肢体を強張らせた大和少年が、自分から訪ねたのに戸惑ったように目をきょろつかせて立っていた。
「すごい汗だね、大和君。郵便屋の途中なの」
とまは、土曜日しか遊ばない大和少年の急な訪問を訝しく思った。大和少年は引きつった笑みを浮かべて「終わった」と言った。とまは首を傾げたが、とりあえす大和少年を中に入れてやった。
紅茶を一口飲むと、大和少年はふととまの顔を見つめた。先ほどよりは落ち着いたようであった。だが、いつになく無口で、とかく明後日の方を向きがちになった。そしてその度にはっとして、まじまじととまの顔を見るのだった。とまは遠慮がちに尋ねた。
「仕事の後はいつもこうなの?」
大和は答えようとしたが、とまを待ちあぐねたさつきがやってくると、再び口をつぐんでしまった。
「あら、大和じゃん。今ね、釣りしてたんだ」
「そうなんだ。邪魔しちゃったね」
「邪魔ついでに、大和もお玉杓子釣る?」
「うん」
大和少年が不自然に勢いよく立ち上がった。川へ向かいながら、とまはさつきに文句を言った。
「ちょっと、邪魔はどっちだよ。大和君、何か言おうとしてたのに」
大和はかぶりを振った。さつきはそれを見て、何かまずいことをしてしまったのかと思った。してみると、大和少年の様子も明らかにおかしいのに気付く。
「大和、大丈夫?」
「多分」
さつきは肩をすくめると大和少年に竿を渡した。
「ありがとう」
「いいよ、全然」
三人はとりとめのない会話を交わしながら安らかな時を過ごした。会話が途切れるたびに、彼らを包む冷たい空間に永遠が流れるのを感じていた。この瞬間に永遠を感じる事が今を生きるという事であり、偶然寄り合った三人でそのような至福を味わえたことを、彼らは喜ばしく思った。お玉杓子は大和少年の釣りの腕が良いお蔭で大量に釣れた。
とまたちは庭にある火鉢でお玉杓子を燻製に仕上げた。寒くて薄暗い庭に火が赤々と燃えて、手をかざすとじんわり体の芯が温まり、鳥肌が立つようだった。
大和少年はお玉杓子をかじっては、冗談を言ってげらげら笑った。先ほどまでの焦燥感はすっかり消え、いつもの大和少年に戻っていた。だが彼はしばらくしてまた思い出したようにそわそわし、立ち上がった。
「ばあちゃんが夕飯作って待ってるから、僕帰るよ」
そう言った彼の瞳は、覚悟を決めたように底光りしていたが、どこか寂し気であった。とまは、大和少年が彼の唯一の家族をどれだけ愛しているのかわかったような気がした。それが大和少年の重荷であり、一旦ここへ逃げてきたのだということも。
「大和はお玉杓子の燻製も、メイばあさんの夕飯も食べなきゃ気が済まないみたい。貪欲なんだな」
さつきが走る大和少年の後ろ姿を見送りながら言った。とまは不安そうに眉をひそめると、お玉杓子の燻製を一つ口の中に放り込んだ。
5
とまは日が傾き始めた頃、エルカと買い物へ行った。久しぶりに再会した友人とは以前の日課を踏襲するのが自然だと思ったのだった。とまとエルカがそれぞれ変わり果てていたとしても、これだけは相変わらず二人が互いを絶対的な存在として必要としていることを確かめたかったのかもしれない。だからこそ二人は買い物の後、今は廃墟となった自分たちの母校へ足を踏み入れたのだろう。
彼らは屋上の換気扇の上に座って、五月村を一望した。
「あの白い大きな建物は見たことないな。一体何なの」エルカが尋ねた。
「三か月前に新しく建てられた図書館だよ。あのお蔭で五月村がちょっと賑やかになったんだ」
その図書館は寂れた村の中で皓々たる壁を精一杯聳え立たせていた。美しくは見えないが、どこか涙ぐましい有様であった。
「エルカ、きみのいない間に唯一できた建物なんだ。きみが黙ってどっか行っちゃってる間にね」
エルカはきまり悪そうに沈黙した。とまは畳みかけた。
「‥‥‥一年間、どこで何してたんだい」
とまは、エルカが行った場所には恐らくあの図書館のような建物が、澄ました表情でずらりと並んでいるのだろうと思った。果たしてそうであった。だがとまにはそれ以上にショックな事があった。
「一番星町でモデルをしてたよ」
・・・・・・何だって?
とまはそう言おうとしたが、喉からは嗄れた声が漏れただけであった。エルカは淡々と話し続けたがその表情は悄然としていた。動揺しているとまにも、彼女を象徴するエメラルドグリーンの瞳は、いつもの硝子玉のような輝きを失っているように見えた。
「一年前、親の知り合いが私を会社に紹介してくれることになって。その会社は一番星町にあったの」
エルカはとまの方を見る事ができなかった。事実を話しているのに、言い訳をしているような罪悪感に駆られた。とまの頭はエルカが約束を破った、裏切ったというような言葉でいっぱいだった。だが、悲惨な事実を押し付けられたからといってすぐには呑み込めないだろう。とまはそんな狼狽えの中、藁にも縋る思いで「どうして」と呟いた。エルカは彼に少しずつ消化させるように、口重に出来事を話し出した。彼女にとって今のとまは脆弱で割れやすい卵だった。
「私がモデルやらないかって言われた時、とまに喜んで伝えようとしたの。一番星町に行く絶好の機会だって。でも、ちょうどきみはここで初めての仕事が見つかって、頑張ろうとしていてさ。私だって皆に置いていかれたくないから依頼を断りたくはなかったし、だけどきみの出鼻を挫くような真似もしたくなかった。だから‥‥‥」
とまは言葉に詰まったエルカの代わりに言った。
「だから、黙って去ったんだね」
そして彼はふてくされた調子で尋ねた。
「一番星町は、さぞ素敵な所だったろう」
エルカは呆れ果てたように笑うと、質問で応酬した。
「私はなぜ帰ってきたと思う?」
二人はようやく目を合わせた。とまは、それを聞くとついさっきまではローマの有名な彫刻のようだった女子を、一種の失望を感じずには眺められなかった。それでもやはりエルカは美しく、内に活きいきとしたものを孕んでいた。とまは同時にベンジャミンの達観に満ちた笑顔を思い出した。そして言った。
「君があっちで何をしでかしたとしても、きっと間違っちゃいないよ」
「私は、間違った事なんかしない」
エルカがいたずらっぽく笑った。風が悠々と吹き、二人の頬を掠めた。その音に紛れて「だからあんな事になっちゃったんだけど」とため息交じりの彼女の声がとまの耳に入った。
とまはエルカの背をぽんぽんと叩きながら言った。
「僕はきみみたいに正しい事をしたっていう確信が持てない。申し訳なくて、恥ずかしいと思いながら逃げてきてしまったんだ」
エルカは黙っていた。
「僕は職場の皆のために一生懸命になるのが幸せだったけど、今頃その人達は僕を厄介払いしたと、せいせいしてんだろう」
とまは、他でもない自分を嘲って笑っていた。それに気付いたエルカが一瞬ぴくりと震えた気がした。彼女は探るような目をして急に尋ねた。
「そういえば、なぜきみはこの間庭で嘘をついたの」
この間とは、約束の事をエルカにさりげなく言われた時、つまりとまがジョンに本当の事を隠した時の事だ。
「ジョン君は一番星町に行きたがらないんじゃないかって思ったから。それよりエルカの方こそ、もう行きたくなんかないでしょ」
とまは誤魔化した。彼はエルカに本音で話せば、昔からの固い友情が壊れてしまうような気がしていたのだ。
「私は、あそこへ一人で行ったことを後悔してる。でもきみたちとならぜひ行きたい」
「ジョン君も?」
エルカはためらったが「もちろん」と頷いてみせた。
「ジョン君が酔ったと言って雪に埋もれたまま寝ちゃうような人でも?」
とまは、漠々とした不安が更に募るだけだと知っているのに責任をジョンに押し付けているのを情けなく思ったが、続けた。
「彼があの町へ行くのは到底難しいと思うんだ」
エルカは言った。「きみとジョンはとても仲が良いんでしょ」
「そうだけど。僕が誘ったらついてくるかもって?」
とまはそう言ってかぶりを振ったが「ジョン君はきみとは違うよ」と言うのは完全に適切な訳ではないと思ったので、付け加えなかった。エルカだって、ジョンと気が合っているのをとまは熟知していた。二人の親しげな雰囲気には首を傾げる時もあったが、今日それが彫刻の崩壊と共に納得のいくものになった訳だ。
だが、エルカはジョンにはない逞しく鋭い目を以てとまの胸を震わせた。その時とまの全身に走った痛みは、エルカが帰ってきたことを少し残念に思わせる程だった。
彼の間抜け面を見て、エルカは天真爛漫な笑みを顔じゅうに満たした。そしてあどけない子供のように言った。
「私が何とかするよ。皆でこの村を出よう」
6
レインは隣村の梅林の近くへ散歩に来ていた。ちょうど梅は盛りの季節を迎え、そこは花見をする人々がひしめいていたが、人混み特有のむさ苦しさは初春の風に吹きはらわれていた。彼は冴えざえとした空気を鼻から吸った。一人で来ているのは彼とカメラマンくらいで、家族や友人と花見を楽しむ人が多かった。
レインは一本の枝垂れ梅に近寄った。梅の木が並んでいるのを眺めると壮麗で見事だと思うが、あの点描画のような厳かさを結晶として生み出した小さな花々を、この目でよく確かめてみようという気になったのだ。
澄み切った青空のせいか、それはハッとする程鮮やかに映った。たまたま近付いたウツリシロヒトエの花は、遠くから見た時とは打って変わって、散りぢりした混じり気はなく、純朴な白色のインクを青い紙に無造作に落としたかのようだった。
「可愛いなあ」
レインは思わず呟いた。一つひとつの蕾が殊勝にもその身を弾かせている様を想像して、その言葉が彼らに一番しっくりくると感じたのだ。
そこへ一組の恋人たちがやってきた。女が枝垂れ梅の、垂れてカーテンのようになっている梢の内側へ入ってしゃがんだ。男が笑顔の彼女を写真に収めていた。
何となく彼らを見ていると、今度は母子がやってきた。子供はまだ幼い少女で、肌の血色が桃のように良く瞳も真ん丸だった。彼女は母から離れて梢の内側へ駆け込んだ。母がカメラを構えると、少女は無邪気に笑ってみせた。レインの胸がきゅっと絞られた気がした。少女が、梅と一体になっているように見えたからだ。レインが梅を言葉で表したのなら、少女はその全身で表してみせたのだった。隣でしゃがんでいるあの女には決してないであろう巧妙さで。
レインはそこまで思うと、慌てて後ずさった。それから梅林が一望できるところまで足早に歩いていった。少女の笑い声に反射したように振り返ると、木々が無頓着に屹立していた。それらは自分を拒みもしないが、受け入れることは二度とないだろうと、レインは悟った。林に向けた彼の背に、少女の透き通る声だけが虚しく貼りついていた。
7
ジョンは長い眠りから目を覚ました。目の前には硝子窓を透かして入ってくる西日の中、埃があまた浮かび、交錯していた。彼が陽光へ手を伸ばして掻き回すと、それらは方々へ散って見えなくなった。そしてすぐにまた戻ってくると、宙の放浪者のように泳ぎ始めた。ジョンは頭がぼうっとして、体が埃の如く浮かぶような錯覚を感じた。ため息が出るほど心地よかった。起き抜けのこの朦朧とした時間も数分で終わってしまうことを思うと、いっそこのまま塵と化してしまいたかった。ジョンは五月村に来てから常にそういった考えが胸の奥底にあるような気がしていた。田舎の寂れた情景が限りなく、ジョンを無為の世界に帰りたいという欲望に駆り立てた。だがそれが激しい孤独を伴うということも心得ていた。
そこへ言い合わせたかのようにエルカが訪ねてきた。ドアを開けた時、ジョンは目を細めた。てっきりとまが来るものと思っていたから、突然現れたエルカの緑髪は彼には眩しすぎた。彼女はその眩しさを湛えたまま、片手の酒瓶を振ってみせた。矛盾したものを魂の滑らかさで統一してしまう無碍、彼女の美しさはそこにある。エルカは潤滑油のようにドアの内側へ滑り込んできた。
ジョンがリビングへコップを二つ運ぶと、エルカは慣れた手つきで酒瓶を傾け、赤褐色の液体を注いだ。ジョンはその色に見覚えがあった。
「キノコジュースだよ」
案の定だった。エルカがどうしてベンジャミンからそれを手に入れたか気になったが考えるだけ無駄である。ジョンはエルカと酌み交わした。その時、エルカがコップを持つためにテーブルに縦長のノートを置いた。コップの中身を呷ると、ジョンは遠慮なくそれを繰った。中身はエルカの自作の短歌集である。
「やめてよ。皆駄作なんだから」
そう言いつつもエルカは止めなかった。そのような他人行儀は彼らには必要なかった。
・・・ぱたぱたと夢が閉じていきあなたのいない世界へ「ただいま」を言う
「あなた」って誰だろう。ジョンは思った。
・・・あたしのね人生すばらしいという微笑を赦すのはただ死のみ
エルカが死んだらこの世の終わりだし「盲目」は死の代替品にならないかしらん。ジョンは思った。
抽象的な死はともかく具象的な死はエルカによって外界と繋がってはならなかった。それはひとえに彼女が死に魅かれやしないかとジョンが危惧していたからである。彼女はそれだけジョンの心を満たすのに完全な器量を持ち合わせていた。そういう面でジョンとは正反対だった。
それ故にジョンはエルカを憎んでいた。だが彼がエルカを憎む程彼女は輝きを増すように思われた。星との距離の分だけその神秘が増すように。実際に星に辿り着くには厖大な努力を要する。でなければ美しくは見えぬ。すなわち、実はこの憧憬の所以は単にジョンが星へ辿り着くための努力をしたくないという怠惰に存している。
だからエルカがふとジョンに流し目を遣って「一緒にこの村を出ない?」と言った時、彼が相反する二つの感情の籠もった眼差しで彼女を見たのは自然な事である。それにその時エルカは人を酩酊へ導くキノコジュースを手にしていたのだから皮肉である。
ジョンはかぶりを振った。当然のように。とまの言う通りジョンは手強い相手だとエルカは思った。ジョンは酔い過ぎている。あまつさえ彼としては五月村を出て町へ行って、エルカが単なる嫉妬の対象となることを恐れていた。つまりあくまでエルカに憧れ慕っていたいならば、常に立ち位置を同じくしてはならないのである
ジョンが少しの逡巡もなしに首を振ったのがあまりにエルカの意に違わなかったので、彼女は半ば呆れて視線をそこらにさまよわせた。ふと、壁に掛かっている写真に目が留まった。
少年期らしく白い歯を覗かせて笑っているジョンと、彼に肩を組まれてはにかんでいる見知らぬ少年。エルカの視線をジョンが追った。
「あれは弟のグレゴリーだ」
彼は突如として顔に翳りを示した。それも、普段の表情とはまた異なる類の翳りである。一般大衆の、純良なそれである。本質的に純良であるかは別として。
「随分仲が良かったんだね」
エルカは憚るように慎重に言った。そしてジョンが問わず語りに語り出すのを待った。
「まあ、昔はな」ジョンは軽く嘆息した。「だけどいつも喧嘩して、大抵親に怒られるのはおれの方だった。グレッグは気の弱い奴だったし、冷静に見てもおれが悪かったんだろうな。何しろおれはこんなだから」
ジョンは情けないようなへらへらした笑い方をした。写真の彼からは想像もつかぬような。
「ここへ来る前も……」ジョンはキノコジュースを再び呷った。「喧嘩した」
「そう」エルカはそれきり黙って写真を見つめていた。
エルカなら自分のおぞましい過去をも外界の言語に翻訳してくれるはずだ。ジョンは決心した。
「馬鹿なおれはグレッグに金を無心したんだ。そん時は相当酔っていて。……弟は生真面目な質でね。きっぱりと断られたよ。だがその言い方に、泥酔したおれはかっときたんだな。そんで、グレッグの左頬を拳でぶん殴っちまった。奴さん、あんまり驚いたもんで、泣きやがったんだ。ただ……泣きやがったんだ」
ジョンの右の拳が固く握られ、膝の上でわなないていた。エルカが腕をそっと伸ばしたが、ジョンは手で制した。
「それからは‥‥‥酔い潰れたおれもさすがにハッとして、階下から物音を聞きつけた母さんが慌てて上がってくるのから反射的に逃げるように家を出た」
エルカはつむっていた目を開けて静かに尋ねた。
「とま君から、あなたは初めて会った時雪の中に埋もれていたと聞いたのだけど」
ジョンは頭を抱えた。「酔っていたんだ。しゃにむに歩いていたら五月村に着いて、疲れで道端で寝てたら雪が降ってきて。でももう何もかもどうでも良かった。一生あのままでも良かった。なのに」
「とま君があなたを見つけちゃったのね」
エルカは麗らかに笑った。通訳人の玲瓏たる笑声は留まるところを知らない。ジョンは陶然として彼女の震える髪を見た。勿体ぶって彼女に付随するまだ無垢な緑を。