屋上にて【短編小説】
「では、見学者は私にカードを渡してください」
立ち上がったのは五人の女子と三人の男子。そのうちに、里山清子と長谷川蒼がいる。
休み時間、みんな更衣室へ走る。教室には清子と蒼を含め数人の見学者。清子は自席で読書していた。後ろをプールバッグを持った女子が黄色い声を出しながら早足で通り過ぎてゆく。ふと、彼女の視界の端に白い手を見る。清子がぎょっとしたのをかろうじて抑えながら見上げると、蒼だった。
「きみも見学?」
「えっと…そうだけど」
「なに読んでんの?」
「嘘つき娘。知らないでしょうね」
「ああ、マウゴジャタ・ムシェロヴィチの。正直、きみは主人公に似ているよ」
「は?どこがよ」
蒼はくっくっと笑いながら、「そういうとこ、そういうとこ」
清子は、赤眼鏡の位置を直しながら、蒼をまじまじと見た。
「ねえ」
笑い終えた蒼が気を取り直して言う。
「なによ?」
「今日、掃除のおじさんが屋上を開けてるんだ、そこ見に行かない?」
「なんで開けてるって知ってるの?」
「委員会だよ」
「ああ、美化なの」
「いや、厚生」
「でも、見つからない?」
「そんなの、行ってみなくちゃわかんないだろ。万一見つかったとして、しかられるの、いやかい?」
「いやじゃないわ」
清子はにやりと満面に笑みをたたえてみせた。
ふたりは屋上に出、三つあるベンチの端の一つに少し間を空けて座っていた。空にはまばらに雲が浮かんでいた。柔らかな風がふたりの頬をくすぐる。
「左の方をいつも舌でいじくる癖があってね」
清子が言うと、蒼は一度彼女の顔に目線をやった。
「べつに気にならないけどね」
「でも、私はこの歯並びのせいでまったく笑えないのよ、特に、カメラの前ではね」
彼女はそう言って歯を見せる。
「歯並びの問題じゃない、ただ下の歯が前にせりだしてるだけだよ」
「なにか違うの、それ?」
「ぼくも小さい頃矯正したけど、きみのような感じだと、顎の矯正だけで済むから、歯に金属の器具をつける必要がなくなって、だいぶコストも減る」
「あ、そう。それならよかった」
「ぼくは歯科医じゃないから、たぶんそうだとしか言えないけど」
「賭けね」
清子は蒼の胸ポケットから刃先が突き出しているカッターを取った。そして室外機の上に置いた。ふたりはそこに向かい合う。
「ファイブフィンガーフィレット、だね?」
「あなたが勝ったらその、矯正器具とやらをつけない、私が勝ったらつける」
「わかった……」
清子は「お互い15ターンずつね」と言って、手を換気扇の上に置いて指を広げた。
「いくわよ」
彼女はたたたたたっと音を響かせ指の隙々にカッターを突き立てていく。1,2,5,10,15!見事な刃物さばきだった。蒼は鷹揚に拍手した。
「お見事」
「ふふ、子供の頃ひとりで練習してたのよ、なんてね。ただのセンスだと思う」
「ぼくにはセンスがあるかな?」
「では、お手並み拝見」
彼女は蒼にカッターを渡す。校庭を隔てた向こうのプールからざわめきが届いた。清子はふとそちらの方を見た。左から金属を突く鋭い音がしたので、視線を蒼に戻すと、彼はカッターで空気を薙いで、ふうと息をついたところだった。
「見てなかった」
「ちゃんとやりましたよ、ほら」
彼は眼の前の室外機の上面を指す。一定の間隔を空け、深い切り傷がついていた。
「くやしいけど、速さと質からしてあなたの勝ちね。つまり、矯正器具はつけない。ところで……」
「よし!もう一回戦やろ」
「……ええ、受けて立つわ」
しばらくふたりは換気扇の上のカッターバトルに興じた。5回戦目ののち、蒼は無言で立ち上がり、ベンチに腰掛けた。清子は先程のように少し間を空けて座る。
「最近、見るんだ」蒼が恍惚とした声で言う。
「ん?」
「あれをね」
「あたしは、子供の頃見たことあるらしい……って、なんのこと?」
「ゾロ目だよ。スマホのデジタル時計の」
「ああ、幽霊じゃないの」
「見たことあんの?」
「私にはその頃の記憶はないんだけど、母さんから聞いたんだ。母さんがトイレに行ってるとき、私廊下で待ってたの。母さんがトイレから出たら、幼い私が、そこに女の子がいたって言うのよ。サンリオのキャラの服を着て、赤いスカートをはいてたって。こちらを見て立っていたって。お母さんは、一度流産したんだけど、水子の霊なんじゃないかって」
「きみは、どうなんだ?お母さんのお腹の中で死んだとはいえ自分の妹に、哀愁を覚えたりとか」
「それが、ぜんぜん。おかしいかな?」
「そんなことないさ。会う会わないっていうのは大きいよ。でも、やっぱり、そういうのって、あるんだね」
「ええ」
「信じられないことが、しばしば起こりうるんだ。ぼくが言おうとしてたゾロ目もそうだけど、こうして、ぼくたちがここに座って、話をしてることだって、そういうことのひとつだったりしてね」
「長谷川くんってロマンチストね」
「そんなことないよ。ちょっと出過ぎたかな」彼は弁解する。「ただ、ぼくは……事実を」
清子はふふと笑う。
「わかってる。不思議だよね、ほんと」
「でもさ、ぼくは、そう思うと、気が楽になるんだ」
「なんかわかるよ」
スズメが二匹、ゆったり通り過ぎてゆく。
「見てよ、スズメのつがいだよ」
「本当だ、かわいいね」
ふたりは清々しくスズメのカップルを目で追った。蒼がつぶやいた。
「二匹は違う模様だったよ。一匹は白いぶちがついてた」
「目がいいのね」
清子はそれからしばらく黙った。
「ねえ、たとえば今、神さまからお金か時間、追加でもらえるとしたらどっちがほしい?」
「ううん」蒼は考えた。「永劫的に考えて時間かな。お金があっても追加の時間が得られる可能性はない。でも、時間さえあれば、もしかしたら未来にお金を稼げるかもしれないじゃん」
「現実的だね。あたしは死ぬのが怖いから、時間を選ぶわ」
「じゃあ結局時間の勝利ってことで」
「で、ほんとの話」清子は蒼に身体を向け、彼の瞳をさらりと流し目で見る。「なんでカッターを持ち歩いてるわけ?」
「ぼく?」彼は腕を忌憚なく、いや、あるいはそう見せていたのかもしれないが、まくってみせた。彼が上に向けた手首の内側には赤黒い線が何条も通っていた。
清子は彼の手をそっと押し戻した。
「きみには、勇気がないんだね。これが仮に、まったくの抵抗感なく、息を吸うようにつけられた傷だとしても」
「だからこそよ。……これを知っているのは、私だけ?」
蒼が首を動かす前にチャイムが白々しく鳴った。清子はにわかに立ち上がると、扉のほうへ駆けていった。
ちなみに、後々、清子は歯医者で、矯正器具をつけることになったのであった。