僥倖~ぎょうこう【短編小説】
僥倖(ぎょうこう…思いがけない幸い。偶然に得る幸運。)
烈日が時折照りつける8月の午後。ジョン・クラウゼは遺品の詰まったボストンバッグを右手にぶらさげながら土手を歩いています。彼は兄妹からゆずってもらった大きな鞄を三つほど所有していましたが、その中から本日の門出にふさわしいものを選んできたつもりでした。それはオリーブ色に染められたなめし革のボストンバッグです。樽のタガのように、短冊状の革が二条巻きつけてあります。
彼は家を出たときから毛穴から汗がにじみ出るのをひしと自覚していましたが、ある刹那、重い身をわずかに浮上させる涼風が頬をなでるのに気がつきました。それは彼の左手の、丸みのある石つぶてで覆われた河床を、ひとりの男の蛮勇をあざけるでもなく泰然と流れる水が生みだしたものでした。彼はそのとき初めて顔を上げ、まわりにだれひとりいないにもかかわらずいままでひたぶるにうつむいていたことを知り、羞恥を感じました。浅瀬の面は瑕瑾ひとつもないガラスのように、奥の小石をあらわにしていました。その面がかがやいてもいないので、クラウゼは空を見上げました。昨日までの雨雲は姿を消していましたが、皓々たる厚紙のような雲、薄すぎず厚すぎない雲が青天井の半分を隠して足踏みしていました。彼の視界の右寄りの雲の裏に、光源はありました。いまにも邪魔な雲をどかしてその全容を見せつけ、セミの死体を運ぶアリどもや、いきれるカタバミや、土手沿いに並ぶ瓦屋根を焦がし焼きつくそうとしているようです。
クラウゼは周囲を見渡し、ちょうどいい場所がないか、心なしか緊張して探しました。歩みは止めません。止まれば、ここ数日そしらぬ顔をして見過ごしてきた絶望と憂鬱と孤独とがいっぺんに北見の身体を侵してきそうであったからです。
「わたしは幸福につつまれた最期を遂げたい」
これが彼の座右の銘でした。どんな死にざまであっても、彼の想像上、その身体を囲繞する環境はこうでなければなりませんでした。すなわち、やわらかな陽光につつまれ、郷愁をもよおす気持ちのよい微風の香りがし、とかく指さし好奇まる出しの顔で見てくる観客はおらず、どこかで流水とムクドリの鳴く音があいまじわり、自分が塵埃に帰したあとも当然のように生き続ける子どもたちの哄笑がかすかに聞こえてくる・・・・・・これはあくまで理想ですが、ともかく、彼が、昨日まで続いた台風が過ぎ去り陽のあらわれるのを翹望していたのはそういうわけです。できるだけ理想に近づくためにもっとも彼が必要としていたのはほどよい陽の光でした。いま、陽は雲に隠れていましたが、じきに姿を見せるでしょう。
クラウゼが歩き続けていると、はるか前方に石橋が見えてきました。河はいつのまにか深くなっており、水面はまばゆく、ついにあらわれた太陽を反射していました。河のそばですから、こころよい気温でした。ですが汗は多少流れていました。クラウゼは鞄から名が金糸で刺繍されている白いハンカチを出し、こめかみや首筋を拭いました。石橋の上のかげろうの中にいくつかの人影がありました。五、六歳の男子たちが五人暴れまわっています。インディアンごっこでもしているのでしょう。木の枝を振り回して、戦っています。よく目をこらすと、ひとりだけ動きの鈍い男児がいました。その男児はほかの男児よりふたまわりも痩躯で、分厚い黒縁眼鏡をかけ、一所懸命になってほかの子どもについてまわっています。白いワイシャツにガウチョパンツを穿いていました。クラウゼは日陰を求め、石橋の下に入りました。ドクダミの香りがかすかに鼻をつきました。
「ここならいい具合だな」
クラウゼは鞄を支柱のそばに置くと、息を吸いこみました。細かな水滴の混じった、冷たい空気が鼻孔を抜けました。
彼はボストンバッグを開け、中を確認しました。手垢のついて赤茶けた、革表紙の日記帳。これは彼がはたちになった際両親から贈られたもので、今日の今日までつけてきたものです。もちろん彼が職を強制的にやめさせられたことやなんかも事細かに記録してあるので、これを読んだ者は、クラウゼがいかにして苦杯を喫したか、そしていまからやろうとしていることのわけも察しがつくだろうと思われます。あと彼が少年だった頃、クリスマスにもらったカエルのオブジェ・・・彼はカエルがとても好きでしたから、ずっと大切にしてきたのです。あぐらをかいて、腿に両手を置き、姿勢をよくして正面を見つめているカエルです。あと、彼の気に入りのクラシック曲がすりこまれたレコード。特に好きなのは、ドビュッシーのアラベスク二番、そしてコレッリのバイオリンソナタのラ・フォリア。若い頃好んで聴いていたものを精選したのです。
彼は日記を読み返そうとしましたが、後々家族が読むことを思うと憂鬱でしたから、やめました。彼は橋の支柱のひとつに背をあずけて、座り込みました。なまあたたかい南風が土手のほうから吹いてきて、橋の下の河の清冽さと混ざり、クラウゼを眠りにいざないました。彼はぼうっとして、あれは鞄の大部分を占めていたのに、なぜ見えていなかったのかということには思い至らず、ただ、なにか忘れているような気がしているだけでした。その存在に気がつかせたのは、奇しくも、いま彼の頭上で騒いでいる子どもだったのです。
彼は背にした橋脚の向こうで激しくとどろいた水しぶきの音に起こされました。上のほうであわてふためいた子どもらの声がしています。クラウゼは肩ごしに音のほうを振り返りました。あの眼鏡をした小さな子どもが水面を猛烈に波立たせながら、四肢をあられもなく振りかざしています。脚もしくは手が水面を打つと水は白く泡立ち、そこから大きな波紋が広がり、流水の形に溶けこんでいきました。少年はなにやら叫ぼうとしていましたが、喉からはガボガボという悲惨な苦悶の音が漏れるだけで、明瞭な声にはなりません。眼鏡が外れ、空を裂いて一メートルほど飛ぶと、小岩にぶつかって破壊し、少年が暴れたことで発生した濁流にのまれて消失してしまいました。
「おじさん!助けて!」
石橋の縁から三人の少年が顔を出し、クラウゼに哀願していました。クラウゼは急いで鞄を開けました。そして太めのロープを取り出しました・・・・・・もともと避難梯子だったものを改変したものでした。クラウゼはそれを溺れそうになっている少年に向かって投げました。
「つかまれ!」
クラウゼは叫びました。渾身の力をこめて。
少年はすぐにひもにとりすがりました。ですが彼は恐怖におののいていて、身体がいうことをきかないようでした。クラウゼはロープを引き寄せていきましたが、少年の震える手はロープから離れてしまいました。少年はもがく力すら失っていました。
クラウゼはロープを岸に投げ捨てると、水に足を踏み入れ、少年のほうにかき進んでいきました。最初からそうすればよかったのに。ですが人はあまりの緊急時には正常な判断ができないものです。それにクラウゼが覚醒した時点では、彼と少年の距離的に、ロープを投げるのが最短でしたから。
クラウゼは少年を片腕に抱き、片手で水を掻いて岸辺に向かいました。石橋では、子どもたちのほかに、騒ぎを聞きつけてやってきた大人が群がっていました。クラウゼが岸にあがると、蝟集した者がみな土手からおりてきて、彼らを取り囲みました。クラウゼは子どもを草の上におろしました。子どもは勢いよく喉から水を吐き出し、幸い怪我などはなさそうでした。
「アビー、アビー。平気か」
子どものひとりが咳きこむ少年の背中を叩いてやりながら言いました。
「アビー・・・・・・」
クラウゼが、どこかで聞いたことのある名をつぶやくと、頭に布を巻いたパン屋らしき女が言いました。
「アビー・へリングですよ。ほらあの税務署の、名うての公務員の息子。まったく、身体が弱いのに橋の上で暴れまわって、あげくのはてに河に落ちたなんて知ったら、へリングさんはどう思うでしょうね。そもそもしつけがなってないわ!」
その女は嫉妬心まる出しで怒鳴っていましたが、クラウゼに注目してほほえみました。
「あんたは勇敢ね」
「いえ、そんなことは・・・ロープも役には立ちませんでしたし、わたしはのろまなんです」
クラウゼのその声をかき消すように、大人たちが尊敬のまなざしで拍手しました。クラウゼは紅潮して、頭を掻きました。
「で、なんでロープなど持ち歩いていたんです?」
「ああ、知人の家にロープ製の避難梯子を届けてやろうと思っていたんです。それだけですよ。ほんとうになんというか、僥倖ってこういうことですねえ」
次の日、新聞には大々的にジョン・クラウゼの果敢な行為が発表されました。ジョン・クラウゼは神父になるため、聖書を細かくひもといて勉強をしていました。
「わたしは神父になろうと思います。窮状に苦しむ人々を救ってやりたいのです。わたしにもそれができると気づいたのです。どうせ死ぬなら、功徳を積んでから逝きたいではないですか」
突然の告白に家族は驚きましたが、ジョン・クラウゼはもともと色即是空な情感の持ち主であり、彼が気ままなことはみな知悉していましたから、あきるまでやってみればいいと言うだけでした。しかし彼はあきることもなく、他国に遊学し、その国で長じて神父になりました。
クラウゼはその頃から両目の視力がいちじるしく低下して、目に濁りが出るようになりました。白内障だろうと医師は言いました。ですから街の掲示板に貼られた記事の切り抜きも読めなかったわけです。193X年のある日、クラウゼは教会から満ち足りた表情で出、市役所の前にある掲示板を通ると、大して見えないにも関わらずしばらくそれを眺めていました。それはいつもの癖でした。クラウゼが見た記事のうち、かろうじて読めた箇所だけ抜き出すと、
「A.H氏は・・・・・・という国是のもと・・・人または共産主義者を・・・・・・し、最終的解決をはかった」
クラウゼは顎髭を指でもてあそびながらその箇所を一瞥しました・・・そしていつか助けたひよわな色白の少年の名を思い出しました。
「ふむ、もしや某氏は・・・ああそうか、きっとわたしは大きな貢献をしたのだな。彼は偉大な政治家になったのだろう。しかし彼もわたしに大きな貢献をしてくれた。わたしはあの出来事のおかげでこうして生きている・・・神の配剤だな」
彼は安らかにほほえむと、掲示板をあとにしました。彼は賢くも視力がよくもありませんでした。クラウゼはいまから妻や娘のいる、あたたかな家へ夕食をとりに行くのです。
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