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苦手意識が咲かす花

うまく茶筅の振れない茶碗があった。
それは、プロの陶芸家さんが作成した茶碗ではなく、茶碗の中に独特のくぼみと段差があるものだった。

気持ちよく振れない茶筅を、茶碗との相性のせいにした。

苦手だなと思う心は、相手を知ろうとする心も遠ざける。私は、この茶碗との交流を遠ざけた。そして、やみくもに茶筅を振り続けた。

季節が巡るごとに、茶碗も変わる。

真冬の1月には、筒茶碗という筒のように深いお茶碗が水屋の棚に並ぶ。あぁ冬だなぁ、年が明けたなぁと嬉しくなる。茶碗の扱い方も、お湯やお水のこぼし方も、いつもと少し違う。その違いが、楽しくて嬉しくてついつい、手が伸びる。(出ているお茶碗の中から、どれを選んでもよいお教室に通っているので)

筒茶碗は、ほっそりしているので、最初の頃はその狭い中で茶筅が触れずに悪戦苦闘したものだった。
何年かすると、ただやみくもに「振る」時期は過ぎ、茶筅に点ててもらえるように振ればいいという感覚に変わっていった。そうすると、茶筅の穂先がちゃんとお茶を点ててくれるようになるものなのだ。
その間に、茶筅の持ち方が進化したり、姿勢が整ったり、いろんなことの相乗効果も手伝ってのことだったろうと思う。

そんな時、またあの茶碗がやってきた。小さな苦手意識が蘇った。案の定、お点前の時には、なんだかぎこちない振りになった。

そんな時、師匠からは「お茶碗を傾けたときに、溜まりをうまく作ってあげるといい」と言われた。

その時、初めて、この子はどんな形をしているのだろうと、じっくり対峙することになった。最初は、頭であれやこれや考えているので、なんだか自分も茶筅も、茶碗も、点て終わったお茶も、なんとなく氣持ちがよくない時期が続いた。
ある時、ここだというポイントに辿り着く。茶碗のくぼみを使った溜まりと茶筅の動かしやすさが、ピタッと来るような心地よさが訪れた。

知ろうとしたから、茶碗の方からもここだよというポイントを教えてくれたのではないか・・・と思えるくらい、しっくりとくる感覚。

ある時は、苦手な茶入れ。
ある時は、苦手な茶杓。
苦手だと思ったお道具たちは、いつも新しい自分に出逢わせてくれる。

自分のスキル不足ということももちろんあった。

親指と人差し指の指先だけでものを持てるようになったら、大きな茶入れが嘘のように、すんなり扱えるようになった。
手の小ささは決してハンデにはならなかった。

苦手な茶杓は、どうしても茶杓の節に、帛紗が引っかかってしまう。
それが嫌で、こっそり、節無しの茶杓を選んでいたこともあった。それも帛紗と一体感が持てるようになったら解消された。

その苦手だったお茶碗は、そのものと対峙する真っすぐな氣持ちを思い出させてくれた。

それは、家族や友達も然りだった。

知ろうとしなかっただけで、距離を置いていた部分がほどけていくことが度々出てくるようになった。
親というだけで、友達というだけで、ちゃんとその人に出逢えていなかったことがたくさんあった。
付き合いを変えたのではなく、その人を知ろうとしたら、自然に起こっていった。

ただ、知ろうとすること自体が、その時の自分には過負荷な時もある。今の自分には無理だと思うなら、適切な距離を取って眺めていたっていいのだと思った。
それは苦手意識とはちょっと違うのだと思う。

いつか自分の準備が整い、大丈夫な時が来たら、自分できっとわかる。
茶の湯で深まった確信と安心感がある。

きっと大丈夫。

今日も読んでくださってありがとう。

明日美







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