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引きこもる、引きこもらない、どちらも許容されて欲しい

世界で1番好きな場所を聞かれたら、私は間違いなく自分の部屋だ。どこよりも落ち着けて、ずっと過ごしていられる場所。子供の頃から筋金入りのインドア派だ。

外出自粛が続く今、そろそろ髪の毛切りたいな、とか、買い物したいな、という気持ちにもなるけれど、それほど強い衝動は無い。むしろ堂々と家に引きこもっていられるので、自分の特性と世間との整合性がようやく取れたという感覚もある。

一方で、元々がアウトドア派だった人からは家にいるのが耐えられないという声を聞く。ずっと家に居ること、それを強いられることが苦痛でしょうがないと言う。確かに自ら望んで引きこもった訳ではないのだから、不自由さや窮屈さがあることは否めない。しかし私の想像をはるかに超える苦痛を感じているらしかった。

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昔、引きこもりがネガティブに捉えられることが悲しいよね、という話を友人としたことがある。その友人も例に漏れずインドア派だ。

引きこもること、数多くの人と会わないこと、活発な印象ではないこと。これらは否定されることはあっても、褒められた試しはなかった。

世間一般的に「良し」とされる基準から外れちゃったら否定されるのはなんでだろうね、なんでこんな基準なんだろうね、というような相談とも愚痴ともつかない話をしてその時は終わった。

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あれから10年経った今、急激に世の中が変わった。これまでとは真逆の基準が制定されたのだ。

世界中で多くの人が苦しい思いをしているなか、この自粛の動きに少し希望を持ってしまった、と言ったら不謹慎だろうか。

引きこもることが苦手な人がいるように、引きこもらないことが苦手な人だっているのだ。そして互いに共感しあうことは難しい。

今後ゆっくりと状況は落ち着いてくるだろう。その時には、ひとつの価値基準で万人を評価したり行動を強要するのではなく、各々の特性に合った行動を選ぶことが許容される世の中になってほしいなと思う。共感はできなくても、許容ならできそうな気がする。私自身も、多様性を受け入れられる心を持ちたいと思う。



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