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【聴講】オブジェクト指向インターフェースデザイン講義【1/5】

講義内容から考えたこと

この記事は、武蔵野美術大学造形構想学部 CI 学科の科目のひとつ、上野学先生による OOUI の講義についての超偏った個人的なメモだ。私自身は大学院に籍を置いているので長谷川先生に許諾をもらって「聴講」という形で参加している。もともと学部の頃から試験や評価と何の関係もない履修科目外の授業を聴講するのがたのしみだった。ただ、本来は存在するはずのない聴講生でもあるし、当初は教室の隅っこのほうにひっそりと存在を無にしているつもりで特に何かを書く予定でもなかったのだが、社会人となってからはあまりこうした講義を聴くこともなく、せっかくなのでその場で考えたことのメモを残しておこうと考えた。つまりこの記事は当該講義の要約ではなく、90%くらいは私の勝手な妄想で占められていることをあらかじめご了承いただきたい。もちろん、間違った捉え方をしていたとすれば、すべて私の責任に帰するものだ。ちなみに、講義は全5回、演習は全3回が予定されているが、すべてについて記事を投稿するとは限らないので要注意だ。

講義としては、GUI の歴史の話を聴き、インターフェースがいかなるものとして捉えられてきたかを学んだ。このあたりは私自身の知見が薄いところだったため、ありがたいものであった。自分でも、ご紹介いただいたケースについて、それぞれ辿ってみようと思った。

個人的には、「ヒト-I-モノ」という図式で、インターフェースが人の形をしている点に関心を持ち、これが「ヒト-I-ヒト」でも成立しないかと考えたところである。この場合は、やはり「ヒト-I-モノ-I-ヒト」ということになるのだろうか。もちろん、想定は「ヒト-法-ヒト」の図式に引き直すことである。法は人と人との間の利害調整界域であり、そういう種類のひとつのインターフェースとしての見方ができないだろうか。人と人との関係性について踏み込むという点では、通常はコミュニケーションデザインの話から切り込むのがスジではあろうが、私はインターフェースの枠組みから法制度や裁判制度を捉えた場合はどうなるのか知りたかった。

現在の裁判実務の実態を説明しておくと「ヒト-弁護士-裁判所-弁護士-ヒト」という構造になっており、要するに間に挟まっている「弁護士-裁判所-弁護士」という部分が余計であって、その全部又は一部についてコンピュータへの置換を試みられないだろうか。そのために前提として「ヒト-I-ヒト」が成立している必要がある。ヒトをモノとしてみれば成立するだろうか。他のサービスと同様に、素朴に「ヒト-I-モノ」の連続で捉えていくべきなのだろうか。あるいは根本的に捉え方を間違えているのだろうか。ここは授業の最後に残って質問してみようと逡巡していたが帰ってきてしまった。とはいえ、アイデアとしてまだ粗雑であるため、もう少し自分で詰めたほうがいいような気もする。あとはリーガルサービスにおけるオブジェクトってなんだろうなぁ…

最後の質疑応答が本編なのかもしれない

授業の最後に学生からフッサールの現象学について質問があった。出来事としては些末なことのように見えるが、よく考えると授業のテーマのかなり深いところに関わる深刻な問題だと思われるため、私のほうで考察してみたい。こうしたことを書くのは色々な意味で余計なことであるが、疑問を持ってしまったのだから仕方がない。ここで書かせてほしい。

質問の要旨としては授業で用いられた「現象学」という用語の意味内容は何かということであり、それが「フッサールの現象学」を指すのであれば前期・中期・後期のいずれであるのかという OOUI の講義で出る質問としてはかなりマニアックな問いである。これに対して、上野先生は誠実かつ謙虚であるため、質問に対して正面から「わからない」ないし「そこまで厳密に考えていない」旨をご回答されていた。こうしたやりとり自体はそれほど珍しいものではなく、学生からすれば素朴に自分の知っていることを確認したかったというだけの話である。しかし、上野先生の本音のところを勝手に推測して言えば、彼は実際には続きの回答を持っていたはずである。

私が上野先生のご見解を見ている限りでは、彼は少なくとも重要な部分において用語を厳密に定義してそれを足場として体系を展開するという発想を絶対にとらない。前期フッサールの定義からはこう、中期フッサールの定義からはこう、後期フッサールの定義からはこう、と言うはずがない。それは彼の思考がいわば哲学者ではなく臨床家=デザイナーだからであり、その足場としているものが意味内容としての概念ではなく言葉以前の〈現実的なもの〉だからだ。この場合、彼にとっては、およそ概念とはすべて臨床=デザインを説明するために借用されるものであり、最初から不完全性と変遷が予定されている。それらはせいぜい〈対象〉の痕跡に過ぎない。完全な体系性ないし全体記述を構想する哲学者とはそもそも問題関心が異なるといってもよいだろう。それゆえ、哲学的な関心をもった問いに対しては「わからない」という回答をする以外にはなく、それが誠実な回答であったのだ。しかし、本来、我々学生は次の意図を読み取らねばならなかったと思う。

間違っているかもしれないがともかくも勝手にパラフレーズすると、ここでいう「オブジェクトの記号」というのはイメージとしては文字で名称が記載されたテプラのようなラベルのことである。そして、このようなラベルは客観的な実体に貼られている「わけではない」。彼があえて〈なにものか〉と表現しているように、実体に見えるものはラベルが生み出す想像的な効果、つまり到達不可能な実在的空無としての〈なにものか〉の代理物である。臨床現場から離れた思考からは論理実証主義に象徴されるようにラベルと実体とが一対一対応して相互に重複がないことが理想的であって、その前提として想像的実体そのものを実在として疑わない傾向があるが、臨床家においてはまず形が先行し、想像的イメージや意味内容はあとから遡及的に縫合されて時間軸と逆方向に投影されるものにすぎない。言い換えれば、質問者にとってはフッサールには前期と中期と後期でそれぞれ異なる現実があり、それがごちゃまぜにされることはありえないという発想であろうが、臨床家=デザイナーにとってはそのような「現実」は幻想にすぎず、そこに厳密なフレームを立てる意義は乏しいどころかミスリーディングでさえある。そうした現実のように見える幻想的実体を投影する原因こそ〈なにものか〉なのであり、そういう意味では講義内容中の表現は質問者の問いに対して向いている方角が真逆であったということなのだ。

そういうわけで、質問者の質問は意味内容の問題として問うている時点で上野先生の語りと根本的な「ずれ」が認められるのである。ただ、こうした状況を説明するのは非常に手間であり、質問者の強い関心に正面から応えるようなものにもならないので、上野先生はとっさの判断でそれを説明せず、正面から回答を行うことにしたのだろうと思う。スライドで主観/客観のパラダイムを維持しているかのように見せているのも、純粋に聞き手にとってのわかりやすさのためだろう。〈真実〉は闇の中だが。

(執筆:平塚翔太)

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