
ウミのヒビ
『オオウミガラス、減少続く』
北半球に生息する鳥の一種、オオウミガラスの数が急激に減少していることが専門家の調査で明らかになった。
オオウミガラスはその名の通り、全身をガラスで覆い、姿はペンギンに似た飛べない鳥である。昔からガラスを目的とした狩猟が続いていたが、近年の保護活動によって乱獲は抑制された。しかし、その数は今なお減少を続けている。
専門家によるとオオウミガラスには身を隠すための特殊な習性があるらしく――
そこまで読むと、少年は路上に落ちていた新聞をゴミ箱に放り投げた。手袋の紐が緩んでいたので締め直すと、教会に向けて歩きだした。
教会の中では子供達が忙しそうに動き回っていた。石畳の床や椅子、窓を皆で掃除している。彼らも少年と同じく教会が世話をする孤児だった。
「おかえり、ウミ」
神父の穏やかな声が教会に響いた。
「ただいま帰りました」
ウミと呼ばれた少年は頼まれていた食料品の入った袋を神父に手渡した。
「ご苦労様」
孤児の中でも年上のウミは外出する仕事を任されることが多かった。
「これくらいなんでもないですよ」
「頼りになるよ。では……帰ったばかりで申し訳ないが、もう一つ頼まれてもらえないかな」
神父は申し訳なさそうな顔をしたが、ウミは笑みを浮かべ次の言葉を促した。
「北にある高台の家は知ってるかい?」
「お婆さんが一人で暮らしてますね」
「最近、ますます足を悪くされたらしくてね。教会に来られないから行事日程を伝えられないんだよ。帰ったばかりで悪いがこの日程表を届けてもらえないか? 明日でもいいが……」
「今から行きますよ」
「助かるよ。そういえば、そのお婆さんも君に届けて欲しいと言っていたが、知り合いかい?」
ウミは首をかしげた。直接話した記憶はない。
「君の名前が気にいったのかもね。お婆さんの名前は君と同じ『うみ』というらしいよ」
細い山道を登り一軒の家が見えてくると、ウミはほっと息をついた。高台の家の傍には畑があり、夕陽を受けて鮮やかに輝く野菜が畝に整然と並んでいた。
――コン、コン
玄関の扉をノックすると、足音が近づいてくる気配がした。
「あんたは……」
玄関を開けた老婆は目を見開いた。その様子に、ウミは少しだけ緊張が走った。
「神父様からのお知らせを届けにきました」
手紙を受け取った老婆は「ああ、そうか」と納得すると笑みを浮かべた。
「ご苦労様。ウミ、だったね。せっかく来たのだから中に入りな」
老婆は踵を返すと、家の奥に戻り始めた。ウミは戸惑いつつも背中を押されるように中に入った。
リビングに足を踏み入れた瞬間、ウミは窓ガラスに差し込む夕陽に目を細めた。窓から見える茜色に染まり始めた海の美しさに心を奪われた。
背後に立つ老婆も同じ方向を見ていたが、その視線はウミが見ているものとは違った。老婆の目の焦点はもっと近く、窓ガラスそのものを見つめていた。
「これはね。十年前に作られたオオウミガラスなんだよ」
その言葉で、ウミは老婆が見ているものが窓ガラスに映る自分の姿であることに気づいた。
オオウミガラスは命を落としたとき、その時間を体のガラスに閉じ込めている。そのため、十年前に作られたオオウミガラスの窓が映すのはそのときの姿、つまり十年前の老婆の姿だった。ガラスに映る老婆は今より皺は浅く、背筋も真っ直ぐ伸びていた。
「やっぱり、あんたはオオウミガラスなんだね」
窓ガラスには擬態を覚える以前――ペンギンの姿のウミが映っていた。
孤島で暮らしていたオオウミガラスは乱獲が続く中、天敵から身を守るために擬態の特性を身につけた。彼らは人の姿に擬態し、人間社会の中で息を潜めて暮らしていた。この島に流れ着いたウミもその一羽だった。
「この窓は亡くなった旦那が家を建てるときに知り合いからもらったガラスなんだよ」
「いつから気づいていたのです?」
「以前、教会でね。あんたの右の手袋の中を見たことがある」
ああ、なるほど。とウミは納得した。
「ぼくを捕まえるために呼んだのですか?」
「まあね。オオウミガラスの市場価値は高い。この町の人間なら、たとえここで逃げても血眼で探すだろうね」
「……」
「とはいえ、私も外に出るのは面倒だ。実は頼みたいことがあってね。それを聞いてくれれば悪いようにはしないよ」
「なんでしょう」
「あんたに、私の姿になって欲しいんだ」
ダンッ――……
島中に轟く一発の銃声にウミは体を震わした。すぐに夢だと気づいたものの、体は震え、仲間と共に海岸を目指していく。次々に海へ飛び込んでいく仲間に続こうとしたときだった。視線を感じて振り返ると一人の少年が父親に支えられながら銃を構えていた。初めて銃を持つのか手は震えていた。そして彼が引き金を引いた瞬間。
ウミはいつものように目を覚ますのだった。
朝日を浴びるために外に出たウミは、ぼんやりした頭で夢の続きを思い出した。
故郷を離れてこの島に流れ着いたとき、ウミはあのときの少年にその身を変えていた。その後、教会の周辺をうろうろしているところを神父が声をかけてくれたのだった。
朝日に目を細めたウミが桶を覗くと、溜まった雨水が映すのは少年の頃には無かった頬の皺と、頭の白髪が目立つ老婆の姿だった。
ウミが老婆に擬態し、この家で暮らし始めて一週間になる。
医者に余命半年と宣告された老婆は、自分がこの世を去った後もこの家で暮らしてほしいと言った。
「嫌がらせだよ。最近、この辺りの山を買い取ってる輩が私の土地を売って欲しいと訪ねてきてね」
「はあ」
「誰が売ってやるもんか。ここは旦那と一生懸命働いて建てた家なんだ。他人がのこのこやってきてどいてくれ、なんて話ないだろ? 私は自分が死んだって、誰にもこの場所を譲る気は無いね」
どの口が言うのだろう、と人間のせいで故郷を追われたウミは呆れ返っていた。
しかし、自分の正体を知られた以上言うことを聞くしかない。
老婆と暮らす決心をしたウミは、「いい人が面倒みてくれることになった」、と教会宛の手紙に書いた。
同居を始めると、老婆は「自分が動けるうちに」とウミに家事を教えようとした。しかし、孤児院でも一通りの家事を仕込まれていたウミが何でもそつなくこなすため、老婆は物足りなさそうな顔をした。
次に、老婆はこれまでの人生を語りはじめた。駆け落ち同然で故郷を離れた老婆と夫は、縁もゆかりもないこの土地に移り住み、周りの助けを借りながらここで家を建て、畑を耕したのだという。
――コン、コン
「うみさん、お久しぶり」
ウミが老婆の姿で玄関を開けると、大きな木箱を抱える男が立っていた。箱の中には新鮮な野菜や果物が入っている。
時折こうして、老婆の友人が採れた作物を届けてくれることがある。彼らとは夫が存命の頃から何かあると助け合う間柄らしい。ウミはこうした友人との絆も老婆が家と共に無くしたくない代えがたいものなのだろうと思った。
「その手、どうしたの?」
箱を渡そうとした男はウミの右の手袋を見て不思議に思った。
「ああ……。火傷をしてね。見苦しいから隠してるだけさ。頂くよ」
ウミが木箱を受け取った瞬間だった。
――ピシッ
ヒビ割れの音がした。ウミは何食わぬ顔で木箱を慎重に足下に置くと、今朝採れた野菜をお返しとして手渡しながら、礼を告げた。
男が帰った後、ウミはベッドで休んでいる老婆に来客があったことを伝えた。
「そうかい。ありがとうね」
老婆は友人の来訪に嬉しそうに微笑んだ。しかし、すぐに怪訝な顔をウミに向けた。
「あんた。右手は大丈夫かい?」
ウミが手袋を外すと、青く透き通るガラスの掌が現れた。その中心には蜘蛛の巣状のヒビが広がっていた。
ヒビが走ったガラスは擬態することができない。そのため、ウミは少年に擬態していた頃から傷を隠してきたが、手袋が緩んで外れたところを教会で老婆に見られたのだった。
「島から逃げるときにできた傷ですが、今まで通り隠せば大丈夫ですよ」
そう言うと、ウミは外した手袋を再びはめた。
半年が過ぎた。老婆の病状はベッドから起き上がるのも難しくなるほどに進行していた。ウミは看病の効率を考え、寝室からリビングに老婆のベッドを移した。
「うみさん、畑に出てくるよ」
外に出て行くウミに、老婆は静かに微笑み返した。
夜露を含んだ草がウミの靴に触れた。畑には収穫を迎えたほうれん草が柔らかな光をうけて輝いていた。
「今日はポタージュをつくろうかな」
ウミはしゃがみ込み、指先で葉を確認した。そして根元を両手で掴んで力を加えた。そのときだった。
――ビシッ
「……あ」
亀裂の音が耳に届くと、ヒビ割れはガラスの右の掌から肩にまで一気に走り、ウミの右腕を裂いた。割れた所からはガラスの破片がポロポロと地面に落ちたので、ウミは左手でそれらを拾いあげた。
「……洗わないと」
ほうれん草にも細かなガラス片が付いてしまった。
洗い流すために家の中に戻ると、リビングで寝ていた老婆はウミの右腕を見て目を見開いた。
ウミが「大丈夫だよ」と言った瞬間、再び大きなガラス片が右腕から落ちた。
微笑みをつくるウミと対照的に心配な表情を浮かべる老婆。ウミはどう言葉を発せばよいか分からなかった。
困ったウミが苦笑いを浮かべていると、傍で何者かが動いた。
「……?」
気配の方向に振り向くと、窓ガラスに映る老婆がベッドから体をゆっくりと起こし、背筋を伸ばして歩き始めた。一方、真正面の老婆はベッドの上から視線だけをこちらに向けて一歩も動いていない。
十年前の老婆だけがガラスの中でウミに近づいていた。
ガラスに映るウミは小さなペンギンの姿のまま、身動きがとれずにいた。ガラスの中の老婆はしゃがみ込むと、床に落ちたガラス片を拾い上げた。
「素手はあぶないよ」
つい、ウミは真横にいるガラスの中の老婆に語りかけた。老婆が右の翼にカケラをはめると、翼には老婆の血が付いていた。
それらはすべて、ガラスの中の出来事だった。しかし、ウミの腕には確かに老婆の体温が伝わっていた。