出勤前、鏡に写る春子の顔には、猫のような長い髭が両頬からぴょんぴょんと、何本も伸びていた。 「……」 頭が追いつかぬまま、春子は歯を磨き続けた。 「おはよう」 そう言って現れたのは、一頭の虎。 「来週の両家の食事会だけど、まずいかな」 そう尋ねた虎が父であることを確信すると、春子は口に含んだ歯磨き粉を吹き出した。 春子と春子の父は会社に休む連絡をし、二人で病院に向かった。診察室では医者が二人の姿に何かを察し、ポケットからミントタブレットを取り出した。 「噛まずに飲
ーーバリィン! 窓ガラスの割れる音に目を覚ますと、男が傍らに立ちすくんでいた。体を起こそうとした刹那、頬を何かで叩かれた。 それは札束だった。札束で何度も体中を叩きこむと、男は部屋を出ていった。 「うう。間違えたなぁ...」 金持ち教習所ではなく金持ち強襲所に登録してしまった後悔に体が沈む。私は金持ち襲来に、眠れない日が続いていた。 やつから逃げるため、どれだけ人里離れた場所に身を隠しても金持ちは必ず嗅ぎつけ、夜な夜な強襲してきた。 私は金のない土地に移るため、イカ
男が山を散策していると、老夫婦が焚き火を囲んでいたので、声をかけた。 「笑(わら)を採りにきたんです」 わらとは、この辺りに群生している植物のことだ。その効能は特徴的だ。 「笑(わら)を食べると、必ず楽しいことが起きるでしょ? お互いの笑った顔が見たいの」 相手の幸福を願った顔に、男は胸を撫で下ろした。 男もわらを食べたことがあった。 出世レースの真っ只中。食べると、同期たちが事故や病気で次々と亡くなることがわかった。 男は彼らが苦しむ様を見て笑い狂った。 しかし、わらを
「あなたが犯人でしょ?」 ペンションの密室で起きた殺人事件。宿泊客を一室に集めた探偵は一人の男を指名した。 「なにを証拠に」 男は狼狽していた。 「ふむ。では服を脱ぎなさい」 探偵はざわつく周囲を他所に、男の背中に向け、ピックハンマーを振り下ろした! カーン、カーン。 名探偵が岩を削るように男の筋肉を仕上げていく。クッキリと線が濃い、逞しい広背筋が誕生すると、男は鏡に写る背中の鬼を見つめた。 「どうです? 話したくなった?」 「美しい......は!? いや
「課長、彼らが到着しました!」 乗ってきたセスナを降りる五匹のニャンコ。陽炎の中、悠然とこちらに向かい歩いてくる彼らの名はーー。 「警視庁が誇る特別潜入班。Gニャンだ」 愛くるしい顔と丸い体。ふわふわのしっぽを駆使し、犯人の懐にすっぽりと入り込む彼らに解決できない事件はない。 ボスは全身を黒で覆い、犯人の内面の闇に紛れ、瞳を光らせるクロキテツニャ。四匹の部下たちを指揮し、闇夜の現場に小さな足音を心地よく響かせる。その音色はさながら、ネコクインテットーー。 「課長、関にゃん
おばあさんは、桃太郎に大きな袋を渡しました。 「これは?」 「かませ犬ごはんで作ったおにぎりじゃ」 桃太郎はおばあさんの心遣いに感謝し、鬼退治に向かいました。道中、お腹を空かせたイヌ、サル、キジと出会いました。桃太郎が一緒におにぎりを平らげると、彼らはかませ犬になってしまいました。 おばあさんの真意はわからないまま、四匹のかませ犬が鬼ヶ島に到着すると、鬼達は彼らを歓迎しました。 「新しいかませ犬に乾杯!」 鬼たちは語りました。 「かませ犬は負けるための存在だ。悲しむことはない
「課長! エンジェルキスです!」 「またか!」 最近、巷を賑わしている連続殺人事件。被害者に共通するのは、A町のクラブ『エンジェルキス』の名刺を持っていることだった。 捜査を担当する二人は増えていく名刺の束を見下ろした。 「もう無視できん。聞き込みだ!」 「はい!」 二人がパトカーに乗り込むと、若手の署員が尋ねた。 「ところで、課長はやっぱりクラブってお詳しいんですか?」 「いや、さっぱりだ」 「え」 「一度もない。お前はこういう店、詳しいのだろ?」 「いや、私もさっぱり
「サングラスが欲しいな」 砂浜で眩しく光る、無数の宝石たちに目を細めた。 乗っていた船が嵐に飲まれ、海に放り出された俺はこの島に流れついた。 砂浜には宝石だけでなく、お揃いマグカップ、名前入りのブレスレットなど、恋が詰まった品々で溢れていた。どうやらこの島には、世界中の、恋に破れた男女が投げ捨てた思い出の品々が流れ着くらしい。 「いいなあ」 目の前に広がる、キラキラした失恋墓地を見て思った。今まで恋らしい恋をしたことがない。 「キラキラしたーい!」 海に叫ぶと、砂浜
「俺たち、煮込まれてない?」 「煮込まれてるな」 ぐつぐつと煮えたぎる、デミグラスソースの中で、私と同僚は考えた。 どうしてこうなった? 私の送別会の後、私と同僚は、二次会の場所を探して山奥を散策した。すると一軒のレストランを見つけた。 店内に店員の姿はなかった。全裸になれ、全身に胡椒をかけろ、とおかしな注文が書かれた紙がいくつも貼られていた。注文に従って進むと、美味しそうな匂いを漂わせる大きな鍋があった。そして今に至る。 「がんばれよ」 のぼせてきたので鍋の縁に腕
「当たってる」 あの日、サンタ服のおじいさんから買った宝くじは下二桁は33だった。スマホに表示されている番号と一致していた。 「魔法学校合格書?」 せっかくだから、と発送手続きを済ませると1週間後、トナカイが窓を叩き割って入ってきた。 「どうぞ」 トナカイのソリで空を飛んでいると、周りには俺の他にも無数のトナカイが見えた。着いた場所はグリーンランドだった。 「あ〜はいはい」 魔法学校とは、サンタを育てる学校だった。宝くじが当たった俺たちは、サンタ養成学校に入学した。そして30
「おめでとうございます。今日は当院からささやかな食事を用意しました」 出産という大きな仕事を終え、ベッドに座る私に看護師さんは優しい声で言った。 用意された食事は美味しそうな和牛のステーキ。綺麗な赤ワインソースがかかっていて、久しぶりに食欲がわいた。 「ふふ。食事はみんなで食べたいですよね」 そう言うと看護師さんは、持ってきたパソコンを個室のテレビと繋いだ。なにが始まるのだろう。 テレビには私の家族が映っていた。お母さん、お父さん、弟、旦那さんから、おめでとう、お疲れ様
小学校の帰り。バスは今日も土の匂いがした。 「あら、トマト持っていって」 「うちのとこでとれた、レタスだ!」 近所のおじさんたちが自慢の野菜を僕にくれた。 野菜は苦手なんだけどな...... ーーポリポリ 音の方を見ると、サラダおじさんは、足場が丸っこい窮屈そうな場所できゅうりを食べていた。なぜサラダおじさんかと言うと、頭に真っ白なお皿をのっけてるからだ。おじさんは僕が野菜が嫌いなことを知ってて、ニヤニヤ見ている。 「よかったなあ、ぼうず。きゅうりはやらんぞ」 「
「ありあとござっしたー」 王様が受け取ったレシートは、お茶一本にしては長かった。レシートの端には、 『王妃が隊長とスクランブル交差点を歩いていた』 と、書かれていた。 〜お買い物中の皆さん! カミングアウトレシートはご覧になりましたか。誰にも言えないけど、誰かに言いたい貴方の秘密を全国のレシートでお届けします! 放送を聞いた王様は激昂した。しかし、もう少し情報を集めようと、王様は今後、お昼をコンビニ弁当で済ますことにした。 のり弁『王妃が隊長とスーパーでお買い物。
「父さん、この鉛筆なにも描けない」 父さんのアトリエで、どんなに描いても何も写らない不思議な鉛筆を見つけた。 「ああ。それは使い方があるんだ」 父さんはスケッチブックを取り出すと、一枚の絵を開いた。女の人が椅子に座っている絵だ。優しそうな顔でこちらを見つめている綺麗なお姉さんを、僕はすぐに好きになった。 「貸してごらん」 そういうと、父さんは画用紙いっぱいに鉛筆をなぞり始めた。すると、不思議なことに、紙は透明な水で滲みはじめ、女の人の膝に僕が写った。僕はこちょこちょ
小雨が降る商店街を歩いていると、少年が傘を傍に置いて、しゃがみ込んでいた。 「キミ、風邪ひくよ」 濡れないよう頭上に傘をさすと、少年は振り向き、足元を指差した。なんだろうと覗いてみると、レンガ敷の歩道にできた小さな水たまりには文字が連なり、ショートショートが浮かんでいた。 ーー東の山を超えてくる雲は、ショートショートの王様の空想なんだ。山の向こうには海。その向こうで暮らす王様は、毎日ハンモックで寝っ転がりながら、モクモクと空想してるんだ。 そんな、祖父の言葉を思い出し
人けのない美術館で、怪盗はある名画を狙っていた。 『ボーナスの誕生』 かの有名なビーナスの弟を描いたその絵は、知名度は劣るものの世界的価値は高い。 「これ...か?」 額縁には蓋をしたホタテ貝が一つ描かれていた。裸の男性のはずだが。 「まあいい」 怪盗は作業に入った。しかし、額縁はびくともしなかった。 「むだだ」 突然、ホタテ貝から声がした。 「外には出ない」 「なぜだ」 「俺には価値がないんだ。ビーナス姉さんの貝となって浜辺までタクシーした俺のこ