新宿三丁目のノーサイド
私がラグビーと出合ったのは高等学校入学の時です。
先に在学していた三つ違いの姉に、どの部活を選んだら女の子にモテるのかをたずねたところ、当時、その高校で強かったラグビーかレスリングのどちらかを選ぶように勧められたからです。
入学前に両部を見学すると、ラグビーは醤油で煮詰めたような色の汚いボロボロのジャージを着てはいたものの、青空のもと走り回る姿は清々しく、印象に残りました。
一方レスリングは、狭い道場のマットの上で、男同士が”ネチャネチャ”と抱き合って汗臭く、既にその時点で、嗅覚がダメ出しをしていました。
まぁ、後々考えれば、ラグビーも汗臭さでは大差なく、その印象はお門違いあることは明白でした。
しかし、それも後の祭り。入部し、初めに教えられたのは、ラグビーが「紳士のスポーツ」であるということでした。だから、試合で自軍に得点が入っても、大げさに騒ぐことは相手に失礼にあたると言われ、その行為を厳に戒められました。
そして、「ノーサイド」という言葉です。「試合が終われば、敵も味方も無い」という教えでした。
ラグビーはイングランドの発祥ですが、その「ノーサイド」に日本的な『武士道』の精神を感じました。
とは言え、現役時代は、試合になると冷静さを失い、よく監督や先輩にたしなめられました。試合が終わっても、とても「ノーサイド」の気分になれない自分に腹立たしい思いを幾度もしました。
その精神の本当の素晴らしさに気づいたのは、社会に出て、東京で”草ラグビー”を始めた頃からでした。
私が24歳のころ所属した東京の草ラグビーチームのオーナーは、新宿に5店舗の居酒屋を経営する、新宿では知る人ぞ知る有名人です。
東京での”極貧生活”も4~5年目に入ると、文京区の広告代理店の駆け出し営業マンとして採用されたこともあり、少しづつ腹にたまるだけの食べ物をとれる余裕も出てきて、そうなると、なぜだか高校時代にいいかげんにやっていたラグビーのことが無性に思い出され、また、あの楕円球を何も考えずに追いかけたい欲求が膨らんできました。
そんなワケで、人伝えに、呑んべい達が新宿の花園神社を拠点にラグビーをしていて、部員を募集しているという話しが舞い込んできました。
なんで神社が拠点なんだろう?でも高校ラグビーの甲子園でもあるあの近鉄花園ラグビー場と同じネーミングの神社ならオッケーだ。などと、脈絡の無い、ワケのわからない納得感とともに、当時そのオーナーが雇われマスターをしていた神社の鳥居横のバーに足を運び、即座に入部しました。
初練習は調布にあった東京ジューキのグランドでした。
ただただラグビーがしたくて入ったクラブでしたが、”ランパス”(ランニング・パスの略称で、ラグビー・トレーニングの基本中の基本)が始まると、なんでまたこんな辛いことを始めてしまったんだろうという幾分かの後悔が頭をよぎりました。
高校を卒業してからの5~6年間は運動らしい運動は何もしていなかったワケですから、一回のランパス(ランニング&パス)で息が上がりました。
経験者というふれこみで入部していたので、初めて私の走りを見た部員たちからは、多少の落胆と、微妙な親近感が漂うのが感じられました。
その時の印象をある先輩は「バタバタ走りだった」と後々の飲み会で、一刀両断にしてくれたものです。
創部直後は、新宿の花園神社の境内が練習場所だったようですが、”幸いにも”私には経験がありません。しかし、草ラグビーチームの宿命で、調布・府中・飛田給などと中央線エリアのグランドを求めてジプシーチームは点々と練習場所を移動したものです。
練習後の楽しみは、なんといっても銭湯に入ることと、その後の飲み会でした。中には練習には参加せずに、飲み会にだけ参加するというふとどき者までいました。
銭湯までの道程を、カチャカチャとシューズのスパイクの音を響かせながら、汗まみれのジャージ姿で力無く歩く集団は、百歩譲っても、素敵なスポーツマンとはいえない「バッチイ」奴らでした。
とくに、雨の日の練習の後は、戦時中の日本陸軍の雨中行軍もさもありなんという姿で、「一番湯」を汚されるのを嫌った銭湯からは、「出入り禁止」を通告されるようなありさまでした。
ということで、我々のマナーは、銭湯に入店(入浴では無く)する前に、屋外にある水道でまず身体をキレイに洗って、身についた泥を落とすという「儀式」からでした。
そうして、ようやく奇麗になった我々が向かう先は、蟻が角砂糖に群がるように、新宿のオーナーの経営する店(前出のオーナーは間もなく自分のお店を出店し、文字通りオーナーとなった)と相場は決まっていました。
それから、今日の練習をあ~でもない、こ~でもないと振り返りつつ、新宿の夜がまさに明けんとするまで飲み明かすのでした。
集ったチームメートは、もともとラグビーがしたかったのか、それとも、ただただ練習の後のそんな楽しい飲み会に参加したかっただけなのか判別の難しい連中ばかりでしたが、程なく私もその中の一人に、自然に呑みこまれ、そんな東京でのラガーマン生活は7年近く続きました。
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あれから数十年、懐かしい当時のチームメイトたちの中には、物故するものもでてきました。
こうして時には、熱い青春時代を振り返るのも良しとしましょう。人生のこころ揺さぶられる激闘の後の「ノーサイド」は、誰の身にも否応なく訪れます。