「徹底的」を習慣化して淡々とやる。
水戸での30年近くのほとんどをこのホテルでお世話になり、育ててもらいました。足を踏み入れる度、ご指導くださった今は亡き前社長の事が思い出されます。
そして、社長の革靴がいつもピカピカに磨かれていたことも。
「徹底的」を習慣化して淡々とやる。やる気のある人が特別なことをやらないのは、習慣化しているからです。
Twitterに投稿されていた中谷彰宏さんの言葉です。
私は現役時代、お会いする方に「革靴がピカピカですね」と言われたものです。もちろん手入れしていたからでしょうが、それは中谷さんが言うように、私にしてみれば習慣になっていて特別感はありませんでした。
ウォーキングも13年目になります。毎日欠かさず続けていたものが、二日置き三日置きになり、距離も始めの頃よりは短くなったりはしていますが、それなりに継続中です。
その現役中のウォーキングの仕上げにあったのが靴磨きでした。前日ビジネスで酷使した靴を、感謝の気持ちを込めてしっかりと磨く習慣でした。
昔の人は、「その人が裕福な人かどうか見分けるには、その人の靴を見ればわかる」と表現しました。それは何も真新しい靴を、とっかえひっかえ履くのが良いということではなく、その人が靴をキチンと手入れしているかどうか、その人が靴にまで気を配れている精神的余裕のある人かどうかという
ことなのです。
掲載していたのは、REGAL CLUB NEWSです。
「足元を見る」という言葉があります。身なりなどから判断して、商品の販売金額などを不当につり上げたりすることを表現した言葉です。もともと江戸時代に使われ始めたとされます。
当時「旅籠屋」や「船頭」などが旅人の足元を見て、足袋や草履が汚れている人は、疲労の度合いも激しいだろうから、多少値段を高くしても仕方なく利用するだろうと考え、通常より高い値段につり上げていた、というのが語源のようです。
サービス業にいた私には、この言葉の持つ機微が理解出来ます。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」のお辞儀の動作は頭を上下します。その視線の先にあるのは、相手の方の足元、つまり靴。サービスする側の私は、お客様の靴を見て、無粋とは思いながらも、その方の生活などを想像してしまっていたのは、仕方の無いことでした。
私がそうでしたので、私にお辞儀を返してくださっていた、お客様の視線の先にあった私の靴が、そして、その私の生活のイメージが値踏みされていたかも知れないと、勝手に想像して、いつも緊張していたものです。
ところで、元大リーガーの松井秀喜さんやイチロー選手は、自分の道具であるグラブやスパイクを大切にし、試合の後には自ら手入れすることを怠らなかったそうです。
これは日本人選手全般に共通する行動のようで、桑田真澄投手は、練習の終わったグランドをいつもの習慣で整備していて、外国人選手にグランドキーパーの仕事を盗るのかと非難されたそうです。
極めて日本人的なこの感性は、私が大ファンだった松井選手の次の言葉からも滲み出ています。
僕は昔から、すべてのものに魂が宿っていると信じています。だから、グラブやバットやシューズに対しても、思いやりをもって接する気持ちはどこにいっても大切なことだと思っていますよ。
世の中には、変わっていくものと変わらないものがあります。
私が主宰している異業種交流会は継続27年目。ある意味”「徹底的」を習慣化して淡々”とやって来た結果がこの継続を後押ししたと思っています。そして、そのことによって、多くの方々の心の中に、共感という”魂”が自然と醸成されました。
それは、ひとりひとりの素晴らしい参加者によって、何気ない習慣のように繰り返され、さらに楽しく、さらに温かく、いまもピカピカに磨かれ続けて行っています。