美しきもの心やさしく
短くも眩しい命のお話し
私の育った炭鉱町の”幼稚園”に、若く美しく、優しい先生がいた。
園児だった私が、園に自分のオモチャを持ち込んで遊んでいたのをとがめて取り上げたその先生が、ふとした弾みでそれを壊してしまった。先生はそのことを私に詫び、私の母に詫び、新しいオモチャで弁償した。
大好きだったその美しい先生が、まだ20代という若さで生涯を閉じたのを知ったのは、私が小学校高学年の頃だった。
小学生の頃、利発で美少年の同級生がいた。
彼を眩しいと思いつつも、疎ましく思う複雑な子供ごころがあった。彼の自慢は、自分の美しい歯だった。彼はよく磨き上げられて白いというよりも、水晶のような透明感のあるその歯を見せて笑った。
その彼がその後しばらくして亡くなったと知ったのは、私が中学に入学して直ぐのことだった。
私の自慢は3歳年上の姉だった。
姉はスラリとした色白の美人で、歌が上手く、よく笑う明るい女性だった。
東京の街を二人で歩いていると、必ず恋人同士に間違えられた。一緒に京都に旅行に出掛けたときに、五条の橋の袂で占いをしてもらった姉は、生命線が細いと言われたらしく、「美人薄命ね」と言って、小さく笑った。
その姉がふたりの子供を遺してこの世を去ったのは、97年12月6日の午前9時15分。享年46歳、短かい生涯だった。
当時、職場でその報告を長兄からの電話で受けた私は、絶句した。
最後の数ヶ月間を生まれ故郷の病院で過ごした姉は、自分の死期を悟り、誰にも知られずに死んでいく身の上を嘆き、幾度も幾度も泣いたそうだ。
私の前ではずっと勝ち気な姉だった。
私が東京に出た当初、姉のアパートに転がり込んで、姉が北陸に嫁ぐまでのしばらくの間、ご近所の方々に新婚に間違われるような生活を送った。その後離婚し、二人の子供を連れて故郷に戻って来た彼女は、身を粉にして働いた。もしかするとその心労が、彼女の免疫力を奪ったのかも知れない。
大好きな姉だったのに、私は自分の忙しさにかまけ、ろくにお見舞いにも行かなかった。が、しかしその実、段々弱っていく姉の姿を見るのが辛かったし、耐えられなかったし、怖かったのだ。
葬儀の日、姉の亡骸を前にして、私はその場で腰を抜かした。
変わり果てた姉の白い足に触れ、あまりの冷たさに、自分自身の深い深い罪を自覚し、人目も憚らずに声をあげて泣いた。だが、それは自分への慰めの涙であって、勿論、死んだ姉には伝える術も無かった。
姉を亡くしてからの数年間、私の体調は不良になり、明け方布団の中で気を失うようなことがあり、何度か救急車の厄介になった。その度、私は、姉の私をたしなめる声が耳元で聞こえるような気がしたものだ。
「どんな時でも心のやさしい人は美しい」と言っていたのは、写真家の故・秋山庄太郎 先生だった。
私の想い出の中の人たちは、短くも美しい人生を、遺された私たちの心の中にひととき咲かせて、そして散っていった。