「アンプレアブル」姉が逝った日。
夢を見ました。
田舎の瀟洒なレストランで、客席から不意に私の兄が顔を出しました。
私は、その突然さに驚いて、兄の名を呼ぶと、兄は、随分前に亡くなった私の姉もいるよ!!と微笑んで、居場所を示しました。そこには、生前の姿そのままの姉が、私を優しく見つめて立っていました。
私は感動のあまり、両の腕を広げて抱きしめようとしましたが、何故かその時、自分が汗だらけなのに気づき、一瞬、着替えなければと思い直すと、そこで、スッと目が覚めました。
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'97年12月6日の午前9時15分
'97年12月6日の午前9時15分、3歳年上の姉は還らぬ人となりました。享年46歳、短かい生涯でした。
当時、その連絡を職場の電話で受けた私は、しばし絶句して動けないでいました。涙は出ませんでした。
乳ガンで、最後の数ヶ月を生まれ故郷の病院で過ごした姉は、自分の死期を悟り、誰にも知られずに死んでいく自分の身の上を嘆き、何度も何度も泣いたそうです。
私にはずっと勝ち気な姉でした。美人で友達に自慢の姉でした。私が東京に出た当初、姉のアパートに転がり込んで、姉が北陸に嫁ぐまでのしばらくの間、ご近所の方々に新婚に間違われるような生活を送りました。
その後離婚し、二人の子供を連れて故郷に戻って来た姉は、子供たちのために、身を粉にして働きました。心労が彼女の免疫力を奪ったのかも知れません。
大好きな姉だったのに、私は自分の忙しさにかまけ、病院にろくにお見舞いにも行きませんでした。しかしその実、段々弱っていく姉を見るのが辛かったし耐えられなかったし、怖かったのです。
葬儀の日、姉の亡骸を前に、私はその場に腰を抜かしました。変わり果てた姉の白い足に触れ、あまりの冷たさに自分の深い罪を自覚し、声をあげて泣きました。でもそれは自分へのなぐさめの涙であって、姉には伝える術もありませんでした。
東京で一緒に住んでいた1年あまりの間に、ふたりで京都と北陸へ旅する機会がありました。
京の五条の橋のたもとにいた占い師に手相を見てもらった姉は、”早死にする”と言われたらしく、「美人薄命ね!」と言って、小さく笑いました。
姉を亡くしてからの数年間、私の体調は不良になり、救急車の厄介になることもありました。その度、私は、姉の私をたしなめる声が耳元で聞こえるような気がしたものです。
あれから二十数年目の冬がまた巡ってきます。
私はいま、姉が私を最初に導いてくれた土地の直ぐそばに、古い終の棲み家を手入れして、穏やかな日々を刻もうとしています。