アーリィ・アーサー~碧のL~ #創作大賞2024#ファンタジー小説部門
<あらすじ>
最近頻繁にみる夢。身近に起こる不思議な出来事。
それはLのモニュメントをつけた鷹から不自然な季節の雪と蛍。
他人とは距離を置きたがる才色兼備の哀莉は同じクラスの緑川と距離を縮めていく。
緑川を知っていく内に哀莉は自分の真に気付いていく。それは決して抗えないこと。
不可解な自然現象と周囲の感情。
そして必然的にいざなわれ哀莉は緑川と共にRe:Earthという異世界へといざなわれ、そこでの冒険が待っていた。
そこで哀莉は自身の過ちの闇、緑川自身もそれと向き合う。
それらから得られるもの、自身の中の真。
さて、ここでこの物語を手に取ってくださった貴方にクエスチョンです。
語りべを是非探ってみてください。
答えは既に貴方の手中にあるはずですから……
<本編>
山の麓
夜空
零れ落ちる流星群
山中を野生のペルシャ猫が光る目を携え僅かな音の行方を追う
目はつぶらな大きさと扁平な鼻
けれど
地は昼の光に包まれる
そのハリネズミは知られないようにビル街の隙間を歩く渡り上手
疑問に思うことすらなく、それをそのものと捉える
見上げることも見下ろすことも出来るこの場所で
風 弧の独りは綿帽子なの 流る留まる その真には
男が目の前にいた
限りなく黒に近いローヴを纏うその男を、わたくしは隠者と命名した
本当に隠者なのかどうかは解らないけれど
雰囲気が限りなく、そう近い
何故わたくしが隠者という雰囲気を知っているのかなんて
とうに知らない
振りをする
わたくしがその隠者を知っていることなんて
疑問に思うことすらなく
隠者の拒みの意味をわたくしはまだ、知らない
ぬくもりが心地よくて哀莉はもう少し夢をみていようと試みたけれど、つまりはもう覚醒していることを意味していたのでそれは報われなかったの。
体内は約60パーセントが水で出来ているわ。その60パーセントが身体に及ぼす力なんてわたくしの知ったことではないの。ただその60パーセントは確実に先祖から受け継いだものであることを決して軽視などしてもらいたくない。
時計は6時1分を指していたわ。
夢を辿るとペルシャ猫が野生であることもビル街のハリネズミを肯定することも夢心地の成せる業だったと理解出来るの。
12分後に目覚まし時計のベルが鳴ったわ。
ベルを止め、目をこすりながら哀莉は隙間から入る光へと一瞥したの。
予感を抱きつつカーテンを開ける。
一羽の鷹と目が合ったわ。
「やっぱり…… 」
哀莉は31階建のマンションの29階に居住しているの。
朝、部屋のカーテンを開けるとこの鷹が必ず居ることが9日続いていたわ。
哀莉は考えるの。
この鷹が何故かこの部屋のベランダの衝立が気に入ったということだろうか?
そんなことがあるのか?
この鷹、というのにも理由があったのよね。
この鷹の首元に〈L〉と書かれたモニュメントの首飾りが結わえられえてあったの。
つまり同じ鷹であること、もしくは〈L〉の首飾りをしている鷹が何羽か存在していて、その何羽かが毎度9日も続けて此処に来ているか。それだったら、同じ鷹が此処に通い続けているといった方が確率が高そうな気がする、と哀莉は思考を巡らせていたわ。ガラス越しから哀莉は話しかけたの。
「鷹さん、君は此処が気に入ったのかい? 」
無論、聞こえるわけがないけれど。
はっ、として哀莉は鷹に見入ったわ。
鷹が微笑んだ。
瞬きをした瞬間、それはなかったの。
まさか、と思いつつ哀莉も微笑み返したわ。
「ゆっくりしていくといいわ。なにもないけれど此処が気に入ったなら居ることね」
そう言って哀莉は鷹に背を向けたの。
鷹は〈L〉のモニュメントを嘴でつついていたわ。
朝ごはんは夕べ解凍しておいた鮭の西京漬けを焼いて、味噌汁と副菜は昨日の残り物で済ませて、時短ね。高校は学食があるので昼ごはんの栄養は学校に任せられるから現在は負担が少なくていいわ。
高校に入学してから今日でちょうど一か月と9日が過ぎたのよね。
気が付いた時には此処で独りで過ごすことが不思議ではなくなったわ。
哀莉の家族の記憶は朧げにあったの。
確か、いた。
居た筈なのに、現在は此処に独りで住んでいる。
そのことに哀莉は疑問に思うことはなかったの。疑問に思わなくでもいい、と許可が下りたようなそんな感覚を哀莉は誰にも説明しなかった。説明することの必要性を感じなかったからよ。
リビングの円形ダイニングテーブルには3脚の椅子が設置されてある。ということは3人家族だったのか?
簡単過ぎる推理に笑ってしまうけどね。
洗面所で顔を洗っていたら、顔をあげて鏡をみると後ろで天井から光るなにかが落ちたの。
振り向いてその跡を追うわ。痕跡は、ない。
鏡を見直して左耳たぶを確認すると哀莉の左耳たぶには紫色の紫陽花模様の痣があるの。
これも気付いたときには当たり前のように、あった。これがあるから哀莉はピアスは決してしない、と心に決めているわ。せっかくの綺麗な痣に穴が空くなんて身の毛がよだつからね。
朝食を済ませ、セーラー服へと着替えてあの鷹は、もういないの。部屋には哀莉のお気に入りの本が棚に収納されているの。お気に入りの本は〈STAND UP WITH US〉という、熱い友情ストーリーだったわ。
コップ一杯の水を円卓の上に、哀莉は一脚の椅子に座りスマホを操作する。昨晩から明朝にかけてのニュースにざっと目を通す。情報を一通り脳内に入れ込むことは幼い頃がらの習慣だったのよね。もし自分になにかが振りかかったときの対応策として有効だから。世界情勢、金融情報、異常気象に人々の暮らし、心。
コップに入れられた水を横目で見る。この狭小の範囲が世界一つだとしたら事件は一つでは語れない。世界を覆うこの水は混乱を引き起こす。異常気象はきっとハリケーンかな、とそんなことを想いながらスマホをスライドしていく。脳内へのインプットを終えると時間を気にして登校の準備に取り掛かるの。
コップを手にしたその時、水が渦を作ったわ。
狭小の世界で、その世界を飲み込むような強い渦だったの。
哀莉はぎょっとしてしばらく見ていたけれど瞬きをした瞬間、それはなくなっていた。いいえ、なくしたの。そんなもの最初からない、と言わんばかりの水よ。そんな水を哀莉は飲み込んだ。
手のひらに転がる丸くかたどる水のネックレスを哀莉は頸にかけた。そうね、忘れてはならないわ。
家を出た哀莉は空を見上げるの。手の平に落ちる冷却温度。
「雪だ……、 5月なのに」
そして共に光る蛍が空を舞っている。この……、 目撃したのは家での現象の続きを垣間見ている、それだけのことと捉えるべきなのだろうと学校へと足を急いだわ。
空の遥か彼方では鷹が翼を広げ高々と飛び立っていた。鷹の羽根には斑模様の黒子が次々と出来ていた。空気を通じてわたくしは感じる。鷹は頭脳明晰だ。頭の中でなんでも考えて解決する癖がある。そんな鷹でもその解決策が見いだせずにいた。嘘よ、本当? 鷹はただ心の中で叫ぶ。
【急ぐべき時が来た… 】
〈L〉のモニュメントは風に揺れている。その風に乗ってたんぽぽの綿毛が鷹の背中にピタッとくっついた。鷹の瞳がマウントブラウンになると綿毛が鷹に話しかける。
(なんだよ、お前らもか……。 とんでもないことになったぞ。こんなことにならないように何年も前から我々は用心深くしてきたのに、未来は変えられないってことかよ? )
鷹が答える。
【いつなんときも備えは必要なんだ。わたしたちはこうもなりつつもこうやって風に乗るんだ。成長の為に巣立ち、旅立つのさ】
(その為に地上では孤独が残されるんだろ。そんなふうに美学ぶってもナンセンスじゃないのかい? )
【その者の〈孤独〉を他者である我々が〈孤独〉と決めつける方がナンセンスさ。その者にとって〈孤独〉かどうかはその者が決めることであって他者が決めることではない。そう囃し立てる我々の方が実は〈孤独〉を感じている、ということは俗説だと思うがね】
鷹は嘴を大きく開けて笑った。
(ああ、違いない! )
灰色の雲間から陽の光が差し込んだ。鷹はそれに向かい羽音を後目に残していったの。
哀莉が歩を進めている間にも雪は降り続いていたわ。蛍も舞っている。前を横切る野良の三毛猫が空を見上げていた。堕ちる雪は道端で消える。道端の隙間にたんぽぽの茎が独り、背を伸ばしている。
脳内に映る画―。
歩道には同じ山東呉高校の生徒が歩を連ねている。前を歩く2年A組大林君。その前の前を歩く3年C組椎名さん。後ろを歩く同じ1年B組の明智さん、友田さん。
哀莉はしゃがみ込み茎に残る最後の綿毛がその空へと旅立つ姿を見送ったの。たんぽぽの茎が本当に独り、だった。三毛猫が哀莉に近づき手の甲に頬ずりしてきたわ。
「もう学校に行くね」
猫の頭を撫で、じゃあね、と手を振って立ち上がったの。猫とたんぽぽは哀莉を見送ったわ。
猫は尾っぽでサークルを描いている。
65メートル先の角を曲がる。そこには、やはりいた。大林君に椎名さん。ふたりから4メートルほど距離をとっているとその先の電柱に設置された映る鏡を見上げたの。
「明智さん、おはよう」
「おはよう友田さん。今日の英単語のテスト、勉強してきた? 」
視線から鏡を外すと哀莉は肩を撫でおろしたわ。
〈― やっぱり、ね…… 〉
雪も蛍も哀莉が学校に着くまでずっと続いていた。無論、それ以降もよ。
「ねえ、5月に天気の異常なんて起こらない…… よね? 」
1年A組窓側前列2番目の月山有紀が友人の佐田に話しかけていた。
「なにそれ? 日本の5月なんて比較的落ち着いている天候だから天気に変なことなんてめったなことがない限り起きないでしょ? 」
「…… そうだよね。あはは、変なこと言ってごめんごめん」
廊下側後ろから3番目に着席している緑川、そして後列真ん中岸井。この2人も窓から空を見上げていたわ。哀莉にはそれが確認出来たの。
哀莉はスマートフォンを操作していた。哀莉が利用している小説投稿サイトでは新緑の季節に美しい雪が降り積もる詩や短編小説が次々とアップされていたわ。
どうやらこのみる人には視える雪は少なくとも日本国内で発生されているようね。日本国外からのそのような投稿はみられなかったんだもの。
机に座り哀莉は本を読み始めたの。その間クラスメイトからの視線を何度も感じたが、感じていない振りをしたのは、哀莉にとって日常だった。クラスメイトは友人と傍によっては話をしているわ。楽しい話と偽りと嫉妬。人間にとっての日常を哀莉は知っていた。知っていたから、本を読んでいたのよね。
教室のドアが開くと生徒たちは一斉に各々の席に着いたの。
「朝礼始めるぞー 」
1年A組担任大林桃李先生は数学の男性教師よ。出席をとって、日常の異常が無いことを確認したあとで黒板に書き始めたわ。
「課外教室での候補をクラスで決めることになったからな。クラス委員で指揮をとって決めてもらうぞ。委員長の鈴木、頼んだぞ」
哀莉の隣の席の鈴木が席を立ち書類を持って壇上に向かったの。書類の多さから一部落ちたそれを哀莉は拾い鈴木に渡したわ。
「ありがとう」
壇上に上がった鈴木と副委員長の尾木は以前クラスでとったアンケートをもとに候補の多かった順に黒板へと書き写し、挙手性の多数決をとっていったの。
清涼飲料水の有名企業の見学、玩具の会社の開発現場の見学、有名出版社の仕事見学……。順当に生徒数を割り当て、決めごとは順調だったわ。
大林先生が重い腰を上げたの。
「よし、これでいいな。鈴木、尾木。よくやった」
ふたりは笑顔で応えると朝礼兼ホームルームは終わったわ。
空はいまも雪模様と蛍模様。そのまま一限目が始まっていくの。大林先生はそのままテキストを開いて今日の設問課題を黒板に書いていったわ。哀莉は授業中ノートは書かないの。脳内とシャープペンシルを持った右手を動かすことだけしている。哀莉の消しゴムが鈴木の足元へと転がっていったわ。鈴木は足元の消しゴムを一回みて、そのまま授業を受け続けた。哀莉は席を立ち自分で消しゴムを拾いに行ったの。
昼休みが終わりに近づき次の授業は理科の移動教室だったので、哀莉は実験室へと向かっていたの。階段を下り、踊り広場にある大きな窓ガラスから外を眺めると屈んだ男子生徒の制服が見えた。
〈あれは、緑川くん?〉
校舎裏の狭い隙間路に緑川はしゃがんでいた。
「緑川くん? なにしているの? 」
緑川は慌てて後ろになにかを隠すわ。
「いや、なんでもないよ。亜采さん。次実験室だよね。僕もう行くからさ。亜采さん先行ってていいよ。なんでもないんだ」
哀莉は緑川をじっと視たの。
「なに隠しているの? 」
「なんでもないってば」
にゃ~お
緑川が後ろをみたわ。
「猫? わたしにもみせて」
観念した緑川がみちを譲ってくれたの。
「昨日たまたまここでみつけてさ。お腹空いてるようだったから…… 」
容器に入ったミルクを猫は美味しそうにしていたわ。
「あれ、この猫…… 」
ペルシャ猫だった。しかもこの瞳に哀莉は見覚えがあったの。山中の、野生? という問いが哀莉の頭に浮かんだわ。
緑川が哀莉の後ろで話したの。
「立派な猫だろう? こんな猫が野良のわけないよね」
「いや、たぶん……、 」
「もう実験室行かなきゃだよ、亜采さん。行こう」
哀莉と緑川は猫の頭と顎の下を撫で、校舎裏を離れたの。
ペルシャ猫はそんな二人をじっとみていたわ。
二人が校舎内を歩いていると緑川が話しにくそうに口を開いたの。
「こんな風に亜采さんと話するの初めてだよね」
「… わたし、あんまり他人と話するの好まないのよ。誰にでも苦手分野はあるものよ」
「わかる気がするな。僕も苦手なんだよ。でも亜采さんて頭すごくいいじゃないか! この前のテストだってクラス一位で学年一位。高校上がる前だって勉強出来て秀才だって入学した当時から噂になってたよ。それにさ… 」
とんでもない美人、そんなこと本人目の前にして言っていいものではないだろうと緑川は一瞬頭によぎったの。つやつやの肌、真っすぐと筋の通った鼻、上下のまつ毛がくっきりとある。それを脇役にするほどの大きな光る黒い瞳。誰もが息を飲む程の美貌を哀莉は持ち合わせていることをひとは知っていた、と心の中で緑川は思ったわ。
「それに…、 だからさ。クラス委員だって亜采さんがやると華があるだろうなって…、 思ってさ」
「そんなことないよ」
緑川はなにかまずいことを言ってしまったような気がして話をずらしたの。
「… ペルシャ猫って気品あるし人間でいったら僕みたいな人間とは世界が違う生き物なんだろうな」
哀莉は少し黙ってから重い口を開いたわ。
「気品溢れるからといってすべてが恵まれているとは限らないわ。歴史上で語り継がれている〈魔女狩り〉とは周囲から外れた者が周囲の心の不安定の代償となって犠牲として命が奪われ処刑されているという歴史がある。そしてそれは現代でも起こりうること。実際そのような目にあっているひとはいるわ。他人から外れる、ということはそのようなリスクが孕んでいることを忘れてはいけないわ」
「妬みとか辛みってことだよね。ということは人間からそれらを排除したらみんなが真っすぐな心を持って共に生きていけるってことだよね」
哀莉は緑川の瞳をみたの。なににも染まることない色の瞳を暫くみていたの。緑川は居心地が悪かったのよね。哀莉のような美しいひとにみられたとなったら、萎縮するしかないものね。
「僕、なにか変なこと言ったかい? 」
哀莉は笑った。
「君だったのね」
「? なにがだい? 」
哀莉はとにかく可笑しかったの。けらけら笑うそのさまに緑川は困り果ててしまって、ついには自身も共に笑ってしまったわ。
「亜采さんてどんな映画好き? いま話題になっている刑事物語の新作映画、僕気になってるんだ」
「刑事ものは好きよ、探偵ものもね。ちなみに私は映画はひとりで観るタイプなんだけど、緑川くんは? 」
「僕もさ。集中して観れるからね」
渡り廊下からみえるグラウンドはこれから3年生がハードル走を行う準備をしていたの。窓にはカーテンが取り付けられてあるわ。端によせられたカーテンと渡り廊下を通り実験室へと向かう哀莉と緑川。二人が過ぎ去ったあとの廊下のカーテンが風に揺れたの。無論、窓は開いてなどいなかった。
職員室に点け放題のテレビでは昼のワイドショーを司会者が現場を盛り上げている。年配の女性教師同士が話に華を咲かせている今がここぞというチャンス、といわんばかりに大林先生は隠れて音量を少しずつ小さくしていたわ。
テレビのなかでは天気予報のコーナーへと入るところだ。コメンテーターの日系米国人チャーリー厚木氏が気象予報士に質問をするの。
「日本語の〈空気を読む〉ってことはこういうことなのかい? ポジティブに言えば平和を壊さない、ネガティブに言えば壊させてたまるか、ということかい。わたしは日系人だからね。暫くは様子をみさせてもらうよ。冬に海に入ろうが夏に雪が降ろうが、ね」
チャーリー厚木氏はウィンクをして黙ったわ。隠した両手の平が小刻みに震えていることには誰も気付かないの。
司会者も気象予報士も他のコメンテーターもチャーリー厚木氏の発言の意図を汲み取れていないことはそれぞれの顔をみれば一目瞭然だったわ。気象予報士は放送事故にならないよう最善を尽くしていたの。
「…えー、さて、それでは天気予報に入りますね。関東では相変わらず新緑の気持ち良い天気が続いていますね。皇居周辺をテレビカメラで見てみましょう。みてください! この晴れ晴れとした青空! 」
***
暗唱番号と電話番号を入力して哀莉は発券したの。それらの数字的認識機能を用いて紙は印刷され、それによって入場できることに哀莉はなんの疑問も抱かなかったわ。それは抱く必要性がない時代を哀莉は生きているということなのよね。映画館への入館は10分前だからあと3分後だった。その3分をどう有効活用しようかと考えてとりあえず哀莉はグッズ売り場へと向かうの。5センチヒールの赤い靴を鳴らして、マグカップにノート、下敷きキーホルダー。様々なものを手に取って味見を噛みしめ、元に戻したわ。
『14時15分より上映の《刑事オルビス最後の事件簿 前編》会場入り開始となります。上映は3番上映会場となります』
連なる人々の列に哀莉も並ぶの。
発券機に暗唱番号と数字を入力する碧色の靴紐を結んだ白いスニーカーが人の跡に3番上映会場へと歩を進めたわ。
哀莉の席は前列2番目C-11番だったの。幕間の時間に今後の映画上映スケジュールの情報を取得するのは上映者にとっても観覧者にとってもWIN-WINだったわ。その間、白いスニーカーは後方7番目I-8番に座ったの。
哀莉は会場内を軽く見渡し、ひとの認識を軽く行ったわ。同列左側男性一人と左後方に女性二人組、後方ふたつに男女の連れ、その向こう奥には男性らしきひとと右側前列1番目に男性3人組。ポップコーンを持っているひと、飲み物持ってるひと、どちらにも該当しないひと、それぞれが薄くあるの。
辺りは暗くなり非常灯の緑の人型も薄っすら存在を消していったわ。
次の小説の題材、なんにしよう…、そう思いながら暗闇の中に燈が灯るの。
事務仕事をしているとシャツの裾が汚れやすい。オルビス刑事は同僚のジェーン刑事のそれが気になってつい口を出してしまった。
「おいジェーン、裾の汚れなんてちゃんとランドリーで綺麗にして来いよ。気になってしょうがないさ」
「オルビスは潔癖なんだよ。懸命に職務に励んでいる証拠じゃないか。ぜひ讃えてほしいものだね」
庁舎内で缶コーヒーを片手にふたりのこの会話は互いの信頼があってこそ成り立つものだ。
「俺たちもいい歳だ。良い女性がいたって不思議じゃないのにそんな浮いた話どこにもありゃしないぞ。おいジェーン、最近ロマンスのひとつでもあったか? 」
ジェーンは溜息をついた。
「あるわけないだろう? 毎日仕事に追われてそれどころじゃあないさ。俺たちにとって良い女性探しも仕事の内と思わないと難しいんじゃないか? 」
「はは、困ったものだ」
ふたりは残り少ないコーヒーを一気飲みをして缶をごみ箱へ放った。
「さて、残りの事務仕事を済ませるとするか。おい、襟元も汚れが残ってるぞ」
「オルビス、勘弁してくれ」
その3時間後、庁舎から6km離れたあるアパートメントの一室が炎に包まれた。そこから一体の死者が煤にまみれて現れたことに事は起こった。
手を合わせ一礼し、オルビスはご遺体と対面した。―こりゃ酷い、オルビスの第一声は心中で往き来した。
ジェーンがオルビスの隣に立ち、口にくわえたグローヴを手にはめながら眉間に皺を寄せている。
「両手は後ろ、足も縛られたままで焼死。どれだけ苦痛を与えた殺し方なんだ。オルビス、怨恨の線が強いか?」
「可能性としては高いな。身辺でなにかトラブルがなかったかどうか洗った方がいいな」
消火が済んだいまでも鼻が嫌にただれる。オルビスは黒こげの室内を一辺した。テレビも焼け、寝室にあるドレッサーも憐れな姿になっている。美しく魅せるための化粧道具も見るも無惨だ。その時、オルビスは遺体の胴体と曲げ切った両足の間にあるそれ、に気付いた。
「これは… ルージュ? 」
辺りを観察するオルビスは次に焼けたダイニングテーブルの下に落ちているなにか、を手に取った。
ジェーンが横から話しかけた。
「なんだそれは? ビニールの切れ端か? なんだってそんなもんが落ちているんだ。ゴミ箱に入り損なったやつだな。それかゴミ箱に入ったゴミが燃えた衝撃で辺りに散らばった、そんなところだろう。俺も家でよくあるんだ。入れた筈のゴミの切れ端が辺りに落ちてるってことがね」
「ジェーン、ここの家のゴミ箱は蓋付きだぞ。見てみろよ」
オルビスが指でキッチンの横を指した。焼けてはいるが蓋の痕跡ははっきりとある。
「それからこれだ。グラスに入った腕時計。やけに焼け跡が激しい。腕時計かどうかも分らんくらいだ。ここだけグラスの中に油でも入れてたようだ」
キッチン横のダイニングテーブルの上に置かれたそのグラスが悲惨さを物語っていた。
「ということはだな、オルビス。この腕時計になにか特別な思い入れがあったとでもいうことか? 犯人はやけにご丁寧だな。そんなことを我々に教えてくれた、ということか」
「それほどの想いが強いということだろうな、ジェーン。ところでほとけさんの身元はもうわかっているのか? 」
「おそらくここの住人のヨーク・ロペ。21歳女性。照合してみないとわからんがな。いま被害者の家族に連絡してこっちに向かってもらっている」
オルビスとジェーンは黒こげの死者に一瞥し溜息をついた。
野次馬は少なくなった。もうすぐ夜明けという時間帯に自身の休息の重要性が身体に響いてきたのだろう。
タクシーが一台停まった。降りてきたのは20代半ばだろう。ひとりの女性だった。警官に口を合わせオルビスとジェーンのところへとやって来た。
「オルビス刑事、ジェーン刑事。被害者と思われる方のご家族です」
その女性は髪をひとつに束ね頬に無数のそばかすを散らばしていた。鼻は両親どちらかの遺伝だろう。扁平にかたどられてはいるが瞳が愛らしくまん丸なので全体的に他人に嫌な印象は与えない。しかしそれでも事態が事態なだけにその愛らしさは恐怖と緊張にまみれた顔をしていた。
「私はヨークの姉です。ヨークに会わせてください。あのこがそんな、そんなことになるなんて信じられない。神は私たち家族に意地の悪いジョークをいっているんだわ。きっとそうよ。きっと、きっと」
ジェーンが黒い死者のところへと案内した。被せてあった布を捲った、その瞬間にヨークの姉と名乗るその女性は泣き崩れた。
オルビスが口を開く。
「お姉さん、この方がヨークさんという証明がほしいのですがヨークさんが歯医者に行っていたという話は訊いたことはありますか? 歯型の照合で身元の判明が明らかになるのですよ」
泣きじゃくる姉と名乗るその女性をなだめながらオルビスは捜査を前へ進めたかった。
「兄のジェームズが歯科医師をしています。ヨークはそこで治療を受けていました。でもこの黒く染まった、いいえ。染まされたこの可愛い女は私の妹ヨークで間違いないわ。だって、炎に包まれるこの運命は私たちロペ家についてまわる、決して離れることのないこと」
オルビスとジェーンは姉と名乗るその女性に心中語りかけた。
〈炎に包まれる… 運命? 〉
「レベッカ‼ ヨークが火事に巻き込まれたってどういうことなんだ⁉ 」
「兄さん… 」
ジェームズと名乗る兄とレベッカと呼ばれる姉というヨーク・ロペの家族はその後も散り散りに到着した。
その頃もう朝日は昇っている。朝焼けはとうに過ぎていた。
時がランダムに過ぎ、オルビスとジェーンはジェームズのマンションに居た。
そこにはヨークの5つ上の長女レベッカ、そして1つ上の次女エリー、そして6つ下の妹ティーンエイジャーのジェニファーがソファに座っている。
部屋には埃ひとつ無い。掃除が行き届いている。オルビスはこのような綺麗な空間に居ることが気持ちが良かった。無論それはオルビスだけではない。
キッチンではティーポットに火をかけている。
ジェームズはオルビスに渡したヨークの歯の治療に際しての診療録を見直し、口を重たく開いた。
「ではやはり、あの焼死体はヨーク… なのですね」
「ええ、残念ながら」
オルビスのその回答にジェニファーがレベッカに泣きつく。レベッカは涙をこらえている様子だ。エリーはただ7階建のマンションからの景色を、毅然と眺望していた。
オルビスは続けた。
「言いにくいことなんですがね、あの焼死体… ヨークさんは手足を縛られていました。つまり、焼き殺されたというわけなんです」
その一室に居た残されたロペ家兄姉妹が固唾をのんだ。
ジェームズがオルビスを問いただした。
「犯人は… 捕まったのですか」
オルビスが言葉を選んでいるその間に、ジェーンが口を開いた。
「我々はあなた方の中に犯人がいると思っています。火元はキッチン。そして焼きただれたアパートの玄関の鍵は施錠の痕跡があった。つまり、ヨークさんの部屋の合鍵を持っているあなた方ご家族の中に犯人がいるというわけですよ」
オルビスは咄嗟にジェーンの肩をつついた。
「ジェーン、物事には順序ってもんがあるんだ。いきなりそんなことを突きつけられるご家族の身にもなってみろ」
ジェームズが手に持っていた診療録を床に投げつけた。
「唐突になんだと言うんだ! 我々は最愛のきょうだいを失って途方に暮れているというのに私たちの中に犯人がいるだなんて馬鹿げている‼ 大体ヨークが料理中に火の後始末が悪かったせいで火事になったという可能性だってあるじゃないか‼ 」
オルビスが間に入る。
「いえ、ジェームズさん。それでは手足を縛られていたということに説明がつきませんよ」
ティーポットの鳴き声が部屋中に響いた。
レベッカが急いで火を止めに行く。
咳払いをしたオルビスが続けた。
「あなた方の事を少し調べさせてもらったんですがね、なんでも幼少期の頃に家族で出掛けている最中に交通事故にあってご両親がその時亡くなられてるんですよね? 」
キッチンでコーヒーを淹れたレベッカが全員分をテーブルに置きながら重い口を開いた。
「あれは不幸な事故です。運転手の父が少しよそ見をした、それが運の分かれ目。勿論よそ見をした父に否があります。しかし運転手がよそ見をして事故が起きない確率・起きる確率。私たちが乗った車はその起きる確率を背負った運命を乗せて走行していたんです」
そしてジェーンがそっと呟いた。
「事故を起こした車は大破・炎上。だから炎に包まれる運命ってわけか… 」
レベッカはそれを聞き逃さなかった。
「そうです。そしてヨークまでもが燃えて亡くなってしまった」
コーヒーカップを手に持ったレベッカにオルビスは気が付いた。
「レベッカさん、その手に書いてあるのはなんですか? 」
「これですか? 私看護師してるもので患者のバイタルとかちょっとしたメモ書きをマジックで手の甲に書いちゃう癖があるんですよ。今じゃ個人情報に注意しなきゃいけないのに、上司にも見つかるとこっぴどく怒られちゃうんです。気をつけなきゃいけませんね」
ジェーンがリビングにある飾り棚に置かれたオブジェを手に取ってジェームズに話しかけた。
「これルービックキューブですね。懐かしいなあ」
ジェーンは揃えられたルービックキューブを崩し始めた。六面の色、赤・青・オレンジ・緑・黄色・白にトライする。
しかしジェーンには厳しすぎたようだ。
オルビスが苦戦するジェーンからルービックキューブを手に持った。
「私の方が得意分野だよ。貸してみろ」
順当に六色を揃えていくオルビス。ルービックキューブを回しているとき、駒の間のブラックに汚れが付いていた。
ジェームズが手に取り、軽やかにルービックキューブの六面を揃えた。それはオルビスに引けを取らない素早さと優雅さが醸し出すキューブ捌きだった。
オルビスは声を掛けずにはいられなかった。
「素晴らしい! なにかキューブの大会でも出られたことでもあるのですか? 」
「こんなこと趣味の範囲でしかありませんよ。極めるところまで極める、これが私の流儀なんでね。先ほどはすみませんでした。私は熱くなり過ぎだ。こんな時こそ長男の私がしっかりと冷静にいなければならないのに。レベッカの淹れてくれた美味しいコーヒーが共に私の熱も飲み込んでくれましたよ」
「こちらこそ不躾に申し訳なかったですよ。いや本当にレベッカさんの淹れたコーヒーは美味しいですな」
オルビスはコーヒーを口に含ませながらキューブの汚れのことは言わなかった。部屋をこんなにも綺麗に保つ術を知っているこの長男に汚れのことなど言ったら彼のプライドを傷つけかねない。それこそ不躾にあたるものだ、そうオルビスはコーヒーの苦味を飲み込んだ。
ジェーンがコーヒーカップを置いた。
「事件発生当時のあなた方はどこにいらっしゃいましたか? 」
ジェームズがジェーンに向き直ってカップをソーサ―に置く。
「私は職場にいました。私が経営する歯科医院で事務作業をしていましたよ。勿論、夜遅かったので他のスタッフは帰宅していましたから誰も証明してくれる人はいませんがね」
「事務作業とはどのようなことをしていたんでしょう? 」
「患者の紹介状を書いていたんですよ。私のところは個人医院ですからね。大きな病院での総合的な治療が必要と判断した患者に対しては紹介状を渡して行くように薦めるんですよ。ああそうだ。パソコンで作成していたからその作成時間がパソコンに記録されていると思いますよ」
カップの中のコーヒーが言葉の振動を感じ円を描くことにジェーンは気付きながらその言葉に続けた。
「ではそのパソコンを確認させてもらいましょう」
レベッカのカップのソーサ―には立てた筈の使ったコーヒーフレッシュの殻が傾いている。垂れたミルクにレベッカは構わない。
「私はその日、日勤だったのでその時間には家に居ました。家で料理して晩酌してお風呂に入って寝ました。家にひとりでいたので証明できるひとなんていませんわ」
レベッカに続きエリーが窓際から視線を落としてジェーンに話しかけた。
「私はその日の夕方から夜にかけてスタジオでダンスのレッスンに励んでいたわ。ダンサーとしての腕がまだまだと自負しているから遅くまで自主レッスンしていたのよ。夜の7時までは仲間と一緒にしてたけどそれから仲間が帰っちゃったからひとりで練習していたのよ」
ソーサ―に置かれた使わないコーヒーフレッシュを手に持ちながらジェーンは問を浮かべ言葉にした。
「エリーさんはなにかこう、プロのダンサーさんとかなんでしょうか? 」
エリーの右眉が吊り上がった。
「腕がまだまだと言ったでしょう。プロを目指して励んでいるのよ。言いたいことは分るわ。同じ歳の子は大学なり就職なりして地に足をつけた人生を歩んでいるわ。比べるのは人間の性というわけね」
オルビスが間に入った。
「一応私たちも仕事なんですよ。皆さんのお立場も確認しなきゃならなくてですね。お気を悪くさせてしまったのでしたら申し訳ありませんな」
エリーが眉間に皺を寄せている隙間からジェニファーが口を挟んだ。
「私はバレエ専攻のハイスクールに通っています。その日は学校が終わってからレッスンをしていました。もうすぐ発表会があるのでいまはそれの追い込み時期なんです。夜の8時近くまでは他の練習生もいたけどそれからは残って10時半くらいまでひとりで練習してました。そのあと学校の寮に戻ってシャワーを浴びてくたくたで寝てました」
ジェーンがすかさず疑問を呈す。
「ハイスクール生がそんな時間まで残って練習なんてするのですかね? 」
傾いたコーヒーフレッシュの殻を立て直したレベッカが横から話に入ってきた。
「ジェニファーは今度の発表会で主役をするんです。それだけ練習量も他の練習生よりも多くなるのは必然ですわ。期待されているのよ、ジェニファーはね」
ウィンクと共に家族としての誇らしさをレベッカはジェニファーに対して向けていた。
ジェニファーもそれに続ける。
「今回の演目は“眠れる森の美女”なんです。主役は初めてなんですけど、やっぱり結果は残したいなと思ってるんです」
誰かの右眉が吊り上がる気配をジェーンは感じた。
ジェニファーが屈託のない笑顔で話を続ける。
「ヴァリエーションが特に緊張するわ。でも私が練習に一生懸命になっている間にヨーク姉さんがあんな事になっていたなんて…。 ヨーク姉さん、可哀そう」
ジェーンは周囲が気になりながらもジェニファーの言葉の背景にあった現実をつい口ずさんでしまった。
「お嬢さんがバレエに勤しんでいるその最中にヨークさんは炎の中で苦しみながら… 」
ジェーンがその光景を脳裏に浮かべている間にジェニファーが泣き出した。
オルビスがジェーンの腕をつついた。
「おい、またお前… 」
ジェーンがしまった、という顔をした時にはもうすでに遅かった。
ジェームズもレベッカもジェニファーの傍によってはなぐさめていた。
気にするんじゃない、ジェニファーが抱えることではないんだ
そうよ、ヨークは父さんと母さんのもとへと導かれただけよ。ただ、
示されただけ。
それだけのことよ
エリーは傍にはよらず、相変わらず窓の外を眺めている。
ジェニファーはそれでも泣き続けた。するとジェニファーが涙を伝わせながらぶつぶつと言葉を発し始めた。
「時は総じてアラベスクで腕と脚を伸ばしたら手の先を視る私の目は希望に満ち溢れた未来をみるの。アテテュードで生き方の姿勢を演じるわ。世間を知らずに愛されるだけ愛されている姫、そして永い眠りと真実の愛を知っていくさま。マネージュの円は回転すればするほど人生とは可能性と奇跡を秘めたるものだと教えてくれる。そう、そうよ。そう… 」
時と共に炎が拡がる。
手も脚も縛られている。これでは逃げることなんて出来ない。火の粉が舞って肌に焼きつく。
― 十字架に背負ったこの運命。散乱とした木々たちに炎をともすその人間の顔に映る
笑顔と恐怖と見えない圧に高揚感を覚えたわ
これからを生きる筈だった。私はここで終わってしまうの? 嫌だよ‼ 煙がどんどん下へと迫ってくる。息をしないようにしなきゃ。私、生きてるのにもっと生きたいのに、息しちゃ駄目なの? そう、私はヨーク・ロペ。私の往く先は、本当にこの道筋なの?
― これが人間。目の前に拡がる厚い雲と煉瓦造りの家々。古い石橋もいまにも落ちるんじゃないかっていうくらいの劣化。そして人間はみない振りをする。それを直すのには莫大な資金とひとが要る。当事者になるくらいなら、見ないふりの選択肢をとること懸命。燃やされるわたくしをみない選択肢をとる、あの人もその人も、かつて私と仲を築いた人間
炎が近い。私と一体になるのね。私はどうしてこのような形で命を失わなければならなかったのかしら。ああ、朦朧としてきた… 目の前に拡がるのは、なに?
― わたくしが今まで築き上げてきたものはなんだったのかしら。守ること、自身との戦いは多くを学ばせてくれた。そして最愛のあの男性と最愛の我が娘。わたくしが燃え尽きても連鎖は途切れることはない。十字架に縛られた、自由を失った。脚も腕ももう焼け焦げて痛みも熱さも辛さも身体の水へと移した。誰? 誰かが炎の中に飛び込んできた。遠くで声が聴こえる。 〈死ぬな‼ 〉 最愛の男性は、生きなきゃ駄目よ。どうか子孫を守って。わたくしも傍で守るわ。わたくしは最後の能力を使った。男性は風に吹き飛ばされて尻もちをつく。遠くでわたくしの名前を呼ぶ声が聴こえる。そう、わたくしの名は…
ヨークの残像がみた、目の前に拡がるもの。オルビスとジェーンはジェームズの家に拡がるこの空気感に我を取り戻した。
オルビスが頭を抱えながらジェーンに声を掛けた。
「私がみたものは一体… 」
「オルビスもみたのか? 俺も不思議な光景をみた。まるで犯行当時のヨークさんが苦しんでいるその場面をみたような… 」
レベッカがジェニファーを支えながらこの感覚に居心地の悪さを覚えているふたりに話す。
「ジェニファーのせいですわ。ジェニファーはとにかく役に入りきることで観客にまるでその場にいるような感覚にさせる天性をもっているのです。だからこのような表現するということはジェニファーにとっては才能を与えられたことなのです」
ジェニファーは大分落ち着きを取り戻していた。泣きじゃくったときに暴れた手が衝動的に立て直した筈のレベッカのコーヒーフレッシュに当たり、床に垂れていた。
そんなことレベッカもジェームズもお構いなしにいまはジェニファーに付きっ切りである。
「最後に聞かせていただきたいのですが、あなた方とヨークさんとの間にトラブルなんてありませんでしたか? 」
レベッカが重い口を開いた。
「トラブルなんてしょっちゅうですわ。ヨーク、あのこは21にもなって決まった学校にも行かずにふらふらしてバイトをしたと思ったらすぐに辞めて。その繰り返しでしたのよ。だから生活費も成人してもなかなか稼げなくて私たちにすぐ頼ってきてました。そんな生活しているきょうだいとでトラブルがないなんてこと考えられませんわ。口論なんて専らでしたのよ」
垂れたコーヒーフレッシュをもとに戻し床を拭きながらジェームズはそれに加えた。
「しかしそれは私たちがヨークの事を想ってのことなんです。ふらふらしているきょうだいを放っておくきょうだいなんているでしょうか? 」
オルビスが眉間に指をあてながら、笑みを浮かべながら呟いた。
「ごもっともですな」
隣にいたジェーンがオルビスのなにかに気付いた。
「オルビス? 」
「ではジェームズさん、日を改めさせて仕事場のパソコンを確認をしに伺いますので」
一礼をしてオルビスとジェーンはその場をあとにした。
ジェームズとレベッカはオルビスとジェーンの礼に会釈を返した。エリーは振り返る事無く窓の外を眺めている。ジェニファーは役の名残がふたりを見送ってくれた。
「オルビス、急にどうしたんだ? まだ調べてもいいことあっただろうに」
オルビスは両袖のボタンが確かにしまっていることを確認しながら笑う。
「さあ、今以上に忙しくなるぞ。調べることは山ほどある。しかしあのきょうだいが山にいくつかの若木を植えてくれた。そうとなっては我々で水を与えようではないか! 」
ジェーンはぼさぼさの髪の毛を掻いて呆れていた。
「やれやれ、またオルビスのいつもの、が出たよ。一体誰が、何がオルビスにそのキーを与えたんだ? いつものことさ、付き合うよ」
溜息交じりにそう言うジェーンの口元にも笑みがこぼれていた。
ふたりが向かうその先には夕日。そしてうつる影。
風に煽られたカラスが美しくも鳴いていた。
辺りが段々と明るくなっていくわ。
映画が終わりを告げ、席を立つ人々が列を作るの。同列左後方の女性二人組が話し合っているわ。
「後編、1か月後に公開だったわよね。楽しみね」
次々と人々が出ていくの。ひとがでたことで最後を確認し、哀莉もようやく席を立った。
哀莉は劇場を後にしながらずっと考えていたわ。
映画の途中に哀莉の脳裏に現れたあの場面とひとの言葉、なんだったのだろうと。
途中で立ち止まり哀莉は媒体を広げたの。
〈魔女狩り:魔女とされた被疑者に対する訴追や死刑を含む刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の迫害を指す。魔術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えたりすることは古代から行われていた。(一部略) 引用文献:ウィキペディア〉
「魔女狩り…、 やっぱり」
溜息とともに歩を進めたわ。
言葉の意味を物心ついた時から哀莉はよく考えていたの。深いと思ったら浅い。浅いと思ったら深い。太陽かと思えば月もいて、月かと思えば木星だったりもする。火星の時もあれば冥王星の時もある、と、ね。
映画館のフロアを抜けると哀莉はぎくっとしたわ。
目の前に碧い牛がいる。それも大きいなんてものではなかったわ。象の3頭分はある大きさ。その碧い牛は哀莉をじっとみていたの。ただその場に足をおろし、腰を落ち着かせながら、周囲の人間は誰もそのことを知らないの。
牛は哀莉に話しかけてきたわ。
「久しぶりだな。やっと、か」
哀莉はなにも返せないの。ただ牛の優しい微笑みが何故か懐かしく感じたわ。牛は立ち上がり、哀莉に近づく。
「歳をとったよ。君は相変わらずあの頃のままさ。しかし心の神秘さと尊いさはいまも変わらない」
― 「… よく言うこと」
哀莉は恐る恐る話しかけたの。
「あの頃って? 」
牛はまた笑った。そして哀莉の胸元にそっと口づけをした。
「怖がらせてごめんよ、お嬢さん。さあ、目を閉じて」
抵抗の術もみつからないまま哀莉は目を閉じたわ。
「時がきたらまた来るよ。それまで、また」
牛は哀莉の頬に口づけをした。
哀莉がそっと目を開けるとそこに牛はいなかったの。人々が行き交うだけだった。
映画館内の、後ろから追い風が一瞬吹いたことに、哀莉は気が付いたわ。
帰路につく頃、鮮やかに輝く赤い鉄塔が艶を示していた。
なんとも魅力的な、艶だったの。
***
「それでね、刑事オルビスの映画すっごく面白かったんだよ。聞いてる? 緑川くん」
緑川は教室内を居心地悪そうにしているわ。
「そんなことより亜采さん、僕たち目立ってないかい? 」
クラスメイトたちは揃って哀莉と緑川をみていたの。普段誰とも会話をしようとしない哀莉が物珍しいのよね。
哀莉は少し不機嫌な顔をして緑川に訊くわ。
「私たちが話していることを誰かに許可を取る必要性があるの? 」
「そうゆうわけじゃないんだけどさ」
「だったらいいじゃない。他の人たちだって友達同士で話しているでしょう? でね、刑事オルビスなんだけど… これ以上は言っちゃだめだよね。ごめん」
「いや、僕も観たから大丈夫だよ。それに、亜采さんだって… 」
「なに? 」
「いや、なんでもないよ。しかし刑事オルビスが面白かったからと言ってこんなに興奮状態になるものなのかい? 亜采さんも人間らしいところがあるもんだね」
「どうゆう意味? 私のことなんだと思っているのかしら? 」
「変な意味じゃないんだよ」
哀莉は映画鑑賞後に出会った大きな碧い牛のことを緑川に言いたかったの。しかしこんな事を言ったら指さされることは誰でも想像がつくわ。それが躊躇いというものを生じさせるの。
緑川だったら、と思うもののその人間の安易な行動を払拭することは100パーセント出来なかったわ。
「亜采さん? どうしたの? 」
「ううん、なんでもないよ」
クラスメイトたちの視線はいまもふたりに注目していたの。
教室のドアが開いたわ。大林先生だったの。大林先生は辺りを見回したわ。
「亜采、頼みたいことがあるんだがちょっといいか? 」
「はい、なんでしょう? 」
「この資料のホチキス止めを頼みたいんだが今いいか? 部数が結構あってな。ちょうどいい。緑川も一緒にお願いしてもいいか? クラスでお前らが手先器用なの知ってるぞ。視聴覚室に材料あるから、頼んだぞ」
去り際に手をひらひらさせて大林先生は行ってしまったの。
「行こうか、緑川くん」
「あ、うん」
クラスメイトの視線を集めながら二人は教室を出て行こうとしたわ。机と椅子の間を進んで行くと鈴木と尾木が机と椅子に座りながら二人をみているの。椅子に座っている鈴木が前を行こうとする哀莉の前に脚をすっと出したわ。
哀莉は瞬間的にかわしたの。そして後ろを歩く緑川に言ったわ。
「気を付けて、緑川くん。脚の長い人がいるみたいだから」
緑川は鈴木の行動を知っていたの。
二人が教室を出ていく時に聞こえた、誰かの舌打ちの犯人を当然のことながら二人は勘付いていたわ。
視聴覚室で資料作りも終盤にさしかかった時に大林先生が入ってきたの。
「どうだ? そろそろ終わりそうか? 」
「緑川くんが作っているもので最後です」
「出来たもの、二人で科学室に運んでおいてくれないか。助かったぞ、ご苦労さん」
大林先生はまた手をひらひらさせながら行ってしまったわ。
「出来た? 緑川くん」
「ああ」
「じゃあ行こうか」
よいしょ、とたくさんの資料を持って視聴覚室を出ようとした哀莉に緑川がその資料を数十部自分のところに重ねたの。
「重いだろ。僕の方にたくさん重ねなよ」
「… うん、ありがとう」
哀莉は緑川の人間性に触れたような気がしたけれど、そうね。気付かない振りをしたのよね。
そうだよね、人間ってこういうところも持ち合わせていて人間なんだ、と内に秘めようと心に決めたわ。
科学室へ向かう途中の廊下で哀莉は気にかかっていたことを緑川に訊いたの。
「あのペルシャ猫、どうしたの? 」
「今日の放課後、また見に行こうと思っているよ。朝、見に行ったらいなかったんだけど、もしかしたら戻ってきているかもしれないからね」
「わたしもいくわ‼ 」
「了解です」
二人は笑いながら、科学室に着いたわ。
哀莉の胸元の第二ボタンが少し外れそうになっていたのに緑川は気付いていたけれど、指摘してよいものかどうか迷っていたの。哀莉にもこのように人間らしいところがあることに親近感を湧いけれど、性別の違いで言えないことがあることをもう知っている年齢であったからね。
緑川は言わずに見守るという選択肢をとった。
大林先生が授業を終え、生徒たちに声を掛けながら出ていったわ。
「気をつけて帰れよー 」
生徒たちが帰り支度をしている教室内がざわざわしていたの。
哀莉は緑川のところに行き、耳打ちをしたわ。
「先に行っててくれる? わたし寄っていくところあるから。終わったらすぐ行くね」
緑川が耳をおさえた。
「どうしたの? 」
「… いや、なんでもない。それよりも見られているからさ」
気付くとクラスメイトたちが哀莉たちをみていたわ。
哀莉は鞄を持って出ていくの。
「じゃああとでね、緑川くん」
耳をおさえたままの緑川のところに男子生徒たちが集まってきた。
「緑川、いつの間に亜采さんと仲良くなったんだよ? 」
「おれたちにも紹介してくれよ」
取り巻きの中をすっと抜け出し「僕もう行くから、ばいばい」と急ぎ足で去って行った緑川の頬は赤らいでいたわ。
校舎裏の隙間路を覗くと、緑川はやっぱり、と思ったの。
「飼い主のところに戻ったんじゃなかったんだね」
ペルシャ猫の頭を撫でながら鞄の中からミルクを取り出した。
「自動販売機で買ったものだけど、いいよな」
容器の中にミルクを入れると、猫は喜んでいた様子だったの。
「お腹空いてたのかい? よかった」
その時、ペルシャ猫が急に耳を立てて顔を上げた。
緑川も気配に気付いたわ。
「亜采さん、早かったね。やっぱり居たよ。ペルシャ猫」
「これ、お願いします」
哀莉は図書館に来ていた。
「返却ですね、少々お待ちください」
山東呉高校の図書館は区の図書館と隣接しており学生も共に利用していたの。
「返却手続き完了しましたので結構ですよ」
哀莉は会釈をし図書館を出たわ。
〈遅くなっちゃったな、急がなきゃ〉
哀莉は急いで緑川の待つ校舎裏へと向かったの。
「鈴木さんに尾木さん、どうしてここに? 」
「先生に内緒でいいの? こんなことしててさ、緑川? ねえ、尾木さん」
「駄目でしょう、学校の裏で猫飼ってるなんて。ちゃんと先生に報告しなきゃですよね?
鈴木さん」
ペルシャ猫がいきり立つ。
「緑川、その猫どうにかしろよ」
「どうにかって…。 僕は別に悪いことしてるわけじゃないよ」
「緑川お前、亜采と仲良いみたいだけどあいつの秘密かなんか握ってないの? 」
「なんだよ、それ」
「あいつムカつくんだよ。あんな成りしててお高くとまってさ」
「なんであんなやつがこの世に存在するんですかね? 鈴木さん」
「緑川くん? 」
哀莉が二人の後ろに立っていたわ。
「どうしたの? それに鈴木さんと尾木さんも一緒に」
緑川が立ち上がり、哀莉の腕を引っ張ったの。
「行こう、亜采さん」
「緑川くん? 」
鈴木が哀莉の腕を強く引っ張り返した。
「きゃ… 」
尾木が哀莉の腕を後ろから掴んで動けないようにしている。
「なにすんだよ! 」
尾木が建物に寄りかかるようにして振りほどこうとしている哀莉に動くな、と言わんばかりに睨みつけていた。
哀莉は睨み返した。
尾木が吐き捨てるように言うの。
「気に入らねぇな」
鈴木がポケットから何かを取り出し緑川の足元に放り投げたわ。
銀色に光る鋭利。
ナイフだった。
鈴木が言う。
「これで亜采の顔を傷つけろよ」
「そんなこと出来るわけないだろ」
「容易いことだろう? やんなきゃ学校中にお前らの悪い噂流して二度と学校来れなくしてやる。分ってるだろう? 私たちはクラス委員。それだけで一定の信頼性は得てるんだ。私たちが言うことなら信憑性も高いと学校中は容易に判断するだろうよ」
「クラス委員がクラスメイトの悪口言ったりしたらそれこそ君たちの信用も失うんじゃないのか? 」
「やりようなんていくらでもあるさ。SNSで裏アカ使って書き込みすれば一気に拡がるだろうよ。それに緑川、あんたの中学校一緒だった奴から訊いたけど、あんた中学校のときも同じことあったんだろう? 学校のSNSで色々影口叩かれて保健室登校だったって訊いたけど」
鈴木が嫌な笑みを浮かべた。
「あんたがやったなんてこと言わないさ。ちょっと気持ち大きく亜采の顔傷つけてくれればいいだけだからさ。中学校の時と同じ目に遭いたいのかよ」
うつむき、緑川はなにも言えないの。
あの時の記憶が緑川の脳内を浸食していた。スマホの画面いっぱいに書かれた緑川の悪い噂と悪口。心当たりのないことと心無い発言投稿。文字が薄気味悪い笑みを浮かべるさまがその頃の緑川を襲い、そしていま。思い出された今にも真っ黒に染まった笑みが緑川をみているような、そんな感覚に緑川は陥ってしまっていた。
ところどころに哀莉の笑顔が入り込む。
そしてまた、黒い笑みが緑川を襲う。
足元に置かれてあるナイフを緑川は拾い上げた。
鈴木が笑う。
「そう、そうだよ。それでやれ」
順手に持ったナイフを緑川は振り上げた。
「うおおおおおおおおお‼ 」
緑川はナイフを突いた。
鈴木の顔面、際の壁にナイフを突き立てた。
鈴木は我を失いかけていたがすぐに取り戻しナイフを壁から抜いた。
「私が緑川を先に傷つけてやるよ‼ 」
鈴木が緑川を押し倒し、ナイフの先が緑川に向かっていまにも光っていた。
その時、強い風がびゅうっと吹いたの。
その風は哀莉の周りを取り巻いていた。哀莉の髪の毛が揺れ、耳たぶにある紫の紫陽花の痣が顕わになる。
異様な空気が哀莉の周りを取り囲んでいることにその場に居た緑川も鈴木も尾木も気付いていたわ。
緑川は鈴木に押し倒されている状態で哀莉のその光景に息を飲んだのよね。
「亜采さん…? 」
風を纏いながら哀莉が緑川のことをみたの。
「もういいの。ありがとう、思い出すことが出来たわ。緑川くんのおかげよ」
鈴木が緑川から離れ、その鋭利を哀莉に向けて突進してきた。
「お前の方から先に傷つけてやるよ! 」
光る鋭利が哀莉を捉えようとしたその時、哀莉は指で天に向かい円を描いた。
するといきなり竜巻が近くで発生したわ。
その竜巻は校舎裏の隙間路に目掛けてやってきたの。
そして鈴木と尾木を巻き込んで破壊力を発揮していた。
哀莉が指を鳴らすと竜巻は止み、あたかもなにもなかったかのように竜巻は姿を消した。
鈴木と尾木はのびていた。
緑川が恐る恐る二人を覗く。
哀莉が微笑んでいた。
「大丈夫よ。気を失っているだけだから。あとでなにごともなかったかのように目覚めるわ」
緑川が哀莉に申し訳なさそうにしていた。
「ごめん。僕、亜采さんのこと守れなくって」
「なに言ってるの。ちゃんと守ってくれたわ。それに、大切なことも思い出させてくれたじゃない」
「さっきもそう言ってたけど、それなんのことを言っているんだい? 僕思い当たるふしなんてどこにもないよ。それにさっきの竜巻、なんだったんだろう。まるで僕たちを守るように僕たちを避けて鈴木と尾木を標的にしていたみたいだった」
ペルシャ猫が哀莉の足元に寄ってきた。哀莉の足元に頬づりをしている。
「ごめんね、もう大丈夫よ。怖くなかった? 」
― 「久しぶりね」
にゃあ☆
「行きましょうか」
「どこに? 」
「帰るのよ、家にね。このこも一緒に連れて行くわ」
「ペルシャ猫を連れて行くのかい? でもそのこの飼い主がどこかで探してるんじゃ…」
「大丈夫よ」
言い切る哀莉に緑川は降参して鞄を担いだの。
「行こうか。僕、家あっちだから、亜采さんも気を付けて帰ってね」
とにかく緑川はひとりになりたかった。先ほどの哀莉の異様な光景を自身の中で現実的に肯定したかったのよ。それをしなければ自分の中で頭が困惑状態だったからね。
哀莉が振り返る。
「なにを言っているの、緑川くん? 緑川くんも来るのよ」
「どこにだい? 」
「私の家よ」
「なんで⁉ 」
「なんでって… 今日が5月13日だからにきまってるからじゃない」
哀莉の微笑みに緑川はなにも言えなくなってしまったの。
また風が吹いた。
柔らかい、心地の良い風だったわ。
その風はまたも哀莉の髪の毛をふわと躍らせ、紫の紫陽花の痣がちらと覗く。
哀莉の胸元の第二ボタンが風で外れ、そこから丸くかたどられた水のネックレスが顔をみせたのよ。
鞄の中のスマホに次々と入る速報ニュース。
『チャーリー厚木氏、生放送中に放送事故級の病気発言‼ 』
『大丈夫かチャーリー厚木‼ 治療中疑いの疾患による危ない発言‼ 』
『日系人が皮肉にも日本人をこんなふうに言うのか‼ この発言をあなたはどう思う⁉ 』
『街のひとは口を揃えてこう言います。いきなりの意味不明発言に心配になりました。このひと大丈夫かなって。専門家の先生はこう言います。一度私のクリニックで詳細に調べてみるといいかもしれませんね、と』
司会者が現場を盛り上げる昼のワイドショーでは神妙な面持ちでアナウンサーが視聴者に伝える。
「コメンテーターとして出演しているチャーリー厚木さんですが、いま話題となっているニュースに鑑みまして出演を自粛するご本人の意向を番組側も汲み取りました。従いまして暫くチャ―リー厚木さんは番組をお休みすることとなっております」
SNSでチャーリー厚木氏が更新した。
【5月に雪と蛍がみれるなんて蛍雪の功がまさしく一度に出来るというなんという奇跡‼ 】
小説投稿サイトではアップされていた新緑の季節に美しい雪や蛍の降り積もる詩や短編小説が次々と削除されていた。
「お邪魔します」
哀莉の住むマンションの高級さに驚きを隠すことで精一杯だった緑川も29階からの絶景には思わず息を飲んだわ。
「紅茶でよかった? 」
二人分の紅茶と三段のケーキスタンドに彩られたスイーツを哀莉はダイニングテーブルに置いたの。
哀莉の声に気が付いて緑川が極端に興奮した状態で我に返った。
「亜采さんってこんな凄いところに住んでいるんだね‼ 景色が一望出来てすごいや! 」
哀莉は笑いながらありがとう、と言わんばかりにペルシャ猫にもミルクを与えたわ。
緑川も一緒に屈み良かったな、と猫の頭を撫でたの。
隣で笑顔でいる哀莉を見て、緑川は改めて哀莉の美しさに惚れ惚れしていた。
哀莉は緑川の視線に気付いたわ。
慌てて緑川は話を振った。
「ここマンションだろ? 猫とか飼っていいの? 」
「ペットOKなのよ、ここ」
そっか、とダイニングテーブルの椅子に腰を掛けたの。
「美味しそう、いただきます」
カップケーキに手を伸ばして紅茶と共に、哀莉も一緒に紅茶を一口飲んだ。
「うん、美味しい! こんな美味しいの毎日食べてるの? 」
哀莉は苦笑する。
「まさか。今日はお客様が来たからこういうもの用意してるけど毎日は食べてないよ」
あはは、そっか― 次第に笑い声もなくなっていくと、先程から気になっていたことを緑川は失礼のないよう配慮をしながらそれとなく哀莉に訊いたわ。
「お父さんとお母さんて… ここにいないの? 一緒に暮らしている形跡がないような気がさっきからしていてさ…。 答えたくなかったらいいんだけど、ちょっと気になって」
無言のまま哀莉がカップとソーサ―をテーブルにそっと置いた。
「たぶん、居たよ。居た筈なのに、現在は此処に独りで住んでいるの。何故かは現在も思い出せない。ううん、思い出せた部分はあるんだけど、その部分は思い出せないの」
「どうゆうこと? 」
「話せる時がきたら話すよ。思い出せないってころはいまはたぶん話す時ではないんだと思うのよ」
「尚更わかんないな」
「それより、時間まで勉強してよう」
「時間って? 」
「時間は時間よ」
「なんの時間? 」
「時が来たらわかるよ」
「全然わかんないよ」
ふたりは通じ合わない会話に笑いながら鞄から勉強道具を出し始めたの。
「緑川くんはなんの教科苦手なの? 」
「うーん、英語かな」
「じゃあ英語やろう」
「… はい。 」
教科書とノートを開いて緑川は哀莉をちらと見た。哀莉は教科書だけを音読しながらぶつぶつと言っている。
やっぱりまつ毛長いな。しかも綺麗なまつ毛だ。
緑川の視線に哀莉は気付いたの。
「どうしたの? 」
緑川は慌てて書きかけのノートになにかを書く振りをした。
猫が哀莉の膝元に入ってくる。
「そういえば、猫の名前決めてなかったね。亜采さんはなにか考えているの? 」
「シャルール、なんてどう? 」
「かっこいい! いいね! 」
「かっこいいだって。良かったね、シャルール」
にゃお♡
哀莉に撫でられてシャルールはご機嫌だったわ。
大きなガラス窓から一羽の鷹が空を舞っていることに緑川は気付いたの。
「ねえ亜采さん。9日にさ… 雪降ったよね。それに蛍も…。 いま、5月なのに」
「… うん、知ってる」
「誰も口にしないから僕も言葉にしなかったんだけど。いま世間ではコメンテーターのひとがああいうことになってるから尚更誰も口にしようとさえしないね」
「… うん」
「なにが正しいのか、正しいと思う程他人に糾弾されて自身に迷って。生きるって、こういうことをいうのかな」
「本当にそう思う? 」
「思わないよ。けれどそれに対する正しい答えさえも他人は否定するじゃないか」
鷹が天高く、鳴いている。
哀莉が立ち上がりアンティークな北欧家具の棚に飾られてあった花瓶を緑川の前に置いた。花瓶にはピンク色のガーベラと霞草が活けてある。
「負の感情はこのこたちが受け止めてくれるわ」
微笑と共に哀莉は花々を愛でているの。
それ以上緑川はなにも言えなくなってしまったわ。
ガラスの窓枠は額縁で空は茜色を描いていた。もうそろそろ闇が出で星々が輝く頃だろう。
ガラスががたがた音を出した。強い風が吹いている。
哀莉が呟くの。
「来た」
星々が予想していたよりも早くに光っていたわ。
緑川が不思議に哀莉に訊く。
「なにが? 」
哀莉は答えずに大きな窓を開けたの。
緑川はぎょっとした。
その窓の大きさに匹敵しない程の大きな牛が窓の向こうにいた。ここは29階。
その大きな碧い牛は宙に浮いている。そして言葉を話した。
「約束通り迎えにきた。時が来たんだ」
「ええ、待っていたわ。彼も一緒よ」
哀莉は碧い牛と共に緑川を一瞥した。
緑川は夢見心地な気持ちで哀莉に尋ねたの。
「亜采さん、これは一体なに? 」
「私たちを迎えに来てくれたのよ。さあ、行きましょう」
「どこに行くっていうんだい? 」
「いいから、説明はあとよ。来て」
哀莉は緑川の腕を引っ張り窓の際まできて気付いたわ。
止まっている。
時が止まっていた。
窓の下の路上を歩いている人々が止まっている。空を飛んでいる飛行機も飛行中で止まっている。渡り鳥でさえも止まっていた。ただ一羽、一羽の鷹だけが空を舞っていた。哀莉の部屋の時計の秒針は18時13分24秒で止まっているの。
いま時が動いているのは哀莉と緑川と碧い牛、そして一羽の鷹。
シャルールの姿だけが確認とれなかったのだけれど、ね。
哀莉に促されて緑川と哀莉は碧い牛の背中に乗り、そして牛は翼を広げたの。
そして牛は云う。
「他者と異なることに劣等感を抱くのは、自身の真ではないことだと最近知ったのだよ」
ウィンクをした牛は翼を羽ばたかせた。哀莉と緑川を乗せ牛は時の止まった空を舞うわ。
空に光る星々は尚も輝きをあせない。その星々を目掛けて牛は飛ぶの。緑川は不安を感じたわ。このまま行ったら人間の必要とする酸素量の計算はどうなるのか? 人間の限界を超えないのか?
輝きをあせないその星々の前に虹色の膜が拡がったの。
牛は迷いなくその膜をくぐる。その向こうの星々が呼んでいるのだと、なんの躊躇いもなく、躊躇いなど必要ないのだと言わんばかりに。
隣で哀莉がぶつぶつと言葉を発していたことに緑川は気付いたの。その言葉は母国語ではなく、英語ではなく、アラビア語でもヒンディー語でもなかった。訊いたこともない言語。けれども緑川には何故か懐かしく感じたのよね。暖かい気持ちにさせる、そんな言語だったから。そして哀莉が呟くその間にも風が優しく靡いては哀莉の耳にある紫陽花の痣が顕わになっていることになにも不思議と感じることがなかったの。
「… もし? もしもし? 」
緑川は夢うつつに胸元が暖かいことに気付きながら目を覚ましたわ。
緑川は砂漠の真ん中に仰向けになっていたの。そして、緑川の胸元に哀莉が顔をうずめていたの。
「うわっ⁉ 」
飛び起きた緑川に哀莉も驚いていたわ。
「なにしていたんだい? 」
「生きているか確認してたの。心臓、ちゃんと動いているかなって。緑川くんどうしたの? 顔赤くなってるよ? 」
「… そんなことないよ」
「そんなことよりも、よろしいかな? お若いの」
二人の背後にいた碧い牛が咳払いをしながら間に入ったわ。
哀莉が牛に向き直る。
「もうこっちの世界にきたんだからその姿はよろしいんじゃなくて? 」
「如何にも」
牛が翼を折り畳むと同時に体も収縮させ、次第に人間の姿に変身した。
その姿のその男性はグレイのローヴを纏っていたの。ロングのグレイヘアに体中の皺がそれ相応の年齢を感じさせた。しかし紳士的な風貌は隠せない。そしてオークの長い杖を持っていた。
哀莉が目を細める。
「懐かしさを感じるわ」
男が口元で笑った。
「そう言ってもらえてなによりじゃ。哀莉よ、よく目覚めたものじゃ」
「あなた方のお力添えのお陰ですわ、隠者。オックス・ワーズ…という名で承っておりますが、よろしくて? 」
「そうじゃ、オックスでよい」
緑川がとまどいながら二人の話に入った。
「亜采さん、僕ついていけてないんだけど…。 まず、ここどこ? 」
辺りを見渡しながら緑川は怪訝な顔をしている。
そこは一面砂漠なんだもの。
砂漠の真上に哀莉と緑川、そしてオックス・ワーズがいたわ。
空は闇に包まれ星々と、そして地球でみるよりも惑星が近かった。
「あの惑星は俗にいう冥王星じゃ」
「冥王星は地球から遥か遠くに存在する星ですよ? その冥王星が近くにみえる、ここは一体? というか、…オックスさん。どうして大きくて碧い牛が人間に化けるのですか? 僕は夢でも見ているのでしょうか? 」
「ふむ。まず冥王星についてじゃが今日はたまたま冥王星が近くに感じるだけ、ということじゃ。土星が近くにみえる日もあるし木星が近い日もある。千差万別なんじゃ、この星は。日によって違う時もあれば月によって違うときもある。年によるケースもあるんじゃぞ。この前なんか時間によって違ったわい。
ここはそういう星じゃ。
そしてわしのことじゃな。お主らの世界の言葉でいうと魔法使い、というのが一番ピンとくるじゃろ。人間が扱えない能力を与えてもらった生物じゃよ」
「… はぁ」
論理的ではないことを論理的に言われると飲み込むべきなのか、という選択肢に迫られる感覚に緑川は襲われていたわ。
そもそも哀莉はなんの抵抗もなく受け入れていることも緑川にとっては謎だった。
「亜采さん、どうしてそんなに冷静なんだい? というよりも亜采さんは元々この奇怪な物事に対して知っていたような感じがするけれど…。 どういうこと? 」
哀莉は緑川に微笑んだ。
「… 」
緑川は複雑な気持ちになったの。訊いてはいけないことだったのだろうか、と不安が募る。
オックスが話に入るわ。
「哀莉とわしはな、特別な関係なんじゃぞ。ほっほっほ。こんな言い方したら誤解されるかもしれんがの。哀莉よ。先祖の記憶はどこまで戻っておる? 」
「… 燃やされた。熱く焼ける中、もがいて死んだわ。時は中世、それを俗に【魔女狩り】と人は言う。でも詳細は分らない。どうして魔女狩りの標的になったのか、人は先祖を何故殺したのか」
「それでもなんとなくは予感はしとるのだろう。自分の身に起こる不可解なこと、能力。それらを複合的に考えるとおのずと答えは出る」
「きっとわたしの先祖も、魔法使い」
「そうじゃ。それも、ひとの思考の範疇を超える魔法使いじゃ。お主らが知っとる世界の歴史の象徴的出来事には必然的にわしら魔法使いが裏で動いておった。ときにひとはわしらを上手く使っては邪魔になると切り捨てる。それは現在でも人間が存在する限り終わることはない由々しきことじゃ」
先程からのオックスと哀莉の話の出かかっている答えを口にした。
「オックスさんの言う不可解な事と能力、それから先祖もってことはまさか亜采さん? 」
「… 」
オックスが変わりに答えた。
「そうじゃ、哀莉も魔法使いじゃ。哀莉も少年も身に覚えがあるじゃろ? 」
緑川は校舎裏の隙間路での鈴木と尾木とのことを思い出していた。
哀莉の周りを取り巻いていた風。
異様な空気。
鈴木と尾木を巻き込んだ竜巻。
そして、なにより…
「哀莉よ、この痣がなによりの証拠じゃ。そなたの先祖、アーリィ・アーサーと瓜二つのこの痣を持って生まれた哀莉こそがこの長い年月待ち続けた結われの魔法使いじゃ」
オックスは哀莉の髪を持ち上げ、痣を愛しく見るの。
哀莉の胸元で丸くかたどられた水のネックレス一瞬の時、光らせる。
緑川が息を飲むの。
「オックスさんと亜采さんのご関係ってどういう…? 」
「おお、そうじゃった。わしはな哀莉の先祖のアーリィに魔法を教えとった、いわば師匠のようなもんじゃ」
「亜采さんのご先祖さまのお師匠さんが、どうしていまここで存在しているんですか? 」
オックスが緑川に向かってウィンクをした。
「言ったじゃろ? わしは魔法使い。魔法を使えば時間軸を操ることくらい造作もないわい。ただ、お主らの星ではこの姿で現ることが出来ないんじゃ。魔法だからといってすべてをフリーにすることは出来ないんじゃ。わしらは神より能力を与えられた。時に制限をかけられることも然りなんじゃ。だからこそ、わしはこの姿で哀莉の夢の中で色々と教えたんじゃ。哀莉よ、わしになんの躊躇いもなかったのは夢でわしのことを知っておったからじゃろ? なんせわしは夢の中でこの日の為に哀莉に魔法を教えとったんじゃからな。それから生きる術、をじゃ」
「ええ、そうね。それじゃあそろそろ話を進めましょうか。オックス、ここはどこに位置する存在の星なの? わたしには時が来たことは分る。でも何の時なのかは知らされてないの。時、とはなに? 」
「そうじゃな、そろそろ本題に入るとするかのう。この星の相称は、ない。我々は仮としてRe:Earthと呼んでいる。さっきわしが言ったこと、色々な惑星が時を変えて近く感じると言ったことなんじゃがその原因はわしらでさえも未だに解明できとらんのじゃ。ただ言えるのはこの星、Re:Earthとはなにか曰くのある星であることは確かじゃな。そしてお主らが住んでおる地球とは時間軸がまったくもって違うということ。そしてこの星Re:Earthに居住しておる生物はその生物の時間軸が出来てしまっていることじゃ」
哀莉がオックスに訊く。
「生物がいるの? いまここには砂漠が一面にあって人どころか動物の気配さえもないわよ? 」
「ここはRe:Earthの玄関じゃ。この先に行けば分るじゃろう」
緑川も話に入った。
「それでその、時…って? 」
「まあ急かすでない。順を追って説明するとしようかのう。はて? 説明の量が多すぎてなにがなんやらじゃ。しょうがないのう、ほれ」
オックスはオークの杖を振った。すると目の前にたくさんの水風船が所狭しとぎゅうぎゅうにつまっている小さな湖が現れた。
「説明の水風船じゃ。この糸で釣りあげたら必要な説明が順を追って受けられるんじゃ」
オックスに釣り糸を渡された哀莉と緑川は不安な顔をしてその水風船をひとつずつ釣り上げたわ。
釣り上げた水風船はなにも言わない。
「この付いとる輪ゴムでぼんぼんすると説明が降って湧いてくるぞい」
緑川が手の平で水風船をリズム良く叩いた。
すると水風船の中から言葉がリズムにのって奏でられるの。
声はオックスの声だった。
「♬ Re:Earthに居住している人類はバビロンの塔を築かなかった人間の種族。
人間はかつて驕りの果てに神に近づこうとしてバビロンの塔を築こうとした。そして結果神の逆鱗に触れ人間は統一された言語を持つことを禁止された。Earthでは人種によって使用言語が異なることはこの歴史から成る。そしてこのRe:Earthの住人。
もとより驕りなどない人間が統一された言語を用いこの星で共に生きておる。
争いなどない、平和を愛す生物だった、筈だった」
次に哀莉がぼんぼんを鳴らしたわ。
音楽はバラードだった。
「♪ 異変に気付いたのはそれが起こり始めてから幾年後だった。
住人は気付いた。
赤子が生誕していないことを。
そして自身らが不老になっていることを。自身の不老によって神聖なる赤子のことに気付かなかったのかもしれん。
おお、なんて愚かなことじゃ」
哀莉がもう片方の手の平でもう一つの水風船を鳴らすの。
クラシックが流れる。
「♫ 住人らは不安に狩られた。
未来に希望を持つことが出来なくなっていった。
次第に互いが不安をぶつけ合うようになる。
内乱が起こり混乱が生じる。
自身の中で背負いきれなくなってしまったのじゃ。
そしてそんな中その幾年後、つまりは現在じゃ。
9の数字がつく或る日にこの星Re:Earthの秘書物が水湖から見つかった。
その秘書物はこのRe:Earthの伝説として伝えられていた誰も目にすることのなかった幻の書物なんじゃ。
それが見つかったという奇跡。
そしてこのタイミングで見つかったということがなにより住人、いやこの呼び名の方がふさわしい。
Re:Earthの民にとっての希望となったのだ」
緑川が新たな水風船をぼんぼん、とした。しかしその力が強かったのだろう。繋いであった輪ゴムが外れ、水風船が地面で割れ水が溢れだしてしまったの。
所狭しとあった水風船が消え、小さな湖も姿を消したわ。
哀莉と緑川の目の前にオックスが佇んでいる。
「じゃがな、その秘書物は行方をくらましてしまったのじゃ。
存在していた時間も誰にも定かではない。
それほど不安定な時間に秘書物は姿を現し、そして消えた。
何故消えたかも誰もその理由は解らん。
そして唯一その秘書物の発見者が記憶しておったこと。
それがあの、アーリィ・アーサーの末裔がこのRe:Earthに現れるということじゃった。
それこそが真の希望じゃ。
そして秘書物にはこう書かれてあったそうな。
アーリィ―・アーサーの末裔がこのRe:Earthの混乱を救ってくれる、とな。
わしはそれから時間を操り哀莉を地球で見つけ出し夢に現れておったというわけじゃ。
そして時が来た。
それがこの13の日ということじゃ」
「… 」
哀莉がおどけてみせるの。
「… そんな大役、わたしに務まるのかしら? 」
つん、としてそう言う哀莉の手が震えていたわ。
緑川がそれに気付いたの。
「亜采さん… 」
哀莉の手を緑川は握る。
哀莉は緑川の目をみたわ。その目は真っすぐと、オックスを見ていた。
「オックスさん、それで僕たちはどうすればよいのでしょう? 」
哀莉は緑川の手を強く握り返したの。
そして、オックスを強く見た。
「いい目をしとる。さすがアーサー家の血を受け継ぐ者よ。
ふむ。秘書物をみつけて欲しいのじゃ。
まずそこから始まる。
恐らく民にとって希望となる書物じゃ。
この星で零子不老不死化となった原因が解るやもしれん」
緑川は哀莉を一瞥した。
哀莉も緑川を見つめ返した。
そして、微笑みあったわ。
怖いけど、でもやっぱり… わたしたちのやるべきことは決まっているような気がしてならない、哀莉はそう思ったの。
― そうだね、怖いね。
「オックス、Re:Earthの玄関をくぐるわ。わたしたちを連れて行って」
丸くかたどられた水のネックレスが哀莉の胸元で輝かせた。
「ゲートが降りてきたわい。まるで待っていたかのようじゃのう」
オックスが口元で笑う。
「さて、行くかのう」
オックスがオークの杖をコンコン、と鳴らすの。
するとゲートがゆっくりと音を鳴らして開いたわ。
ゲートはとてつもなく大きい。こんな大きなゲートを生身の人間なんかが開けることなんて到底無理なことは一目瞭然だったの。
そんなゲート。
杖の鳴らしで重く辛く開くそのさまの向こうに光が満ちているわ。
哀莉も緑川もその光に吸い込まれるようにゲートをくぐって行ったの。
「どうじゃ? Re:Earthの世界は」
「うわぁ」
ふたりは辺りを見回したわ。天から伸びる植物にいまは此処から天王星が肉眼でみえる。
飛行機は地面を飛んでいるし電車は線路に吊るされて運行されていたの。
建築物もライフラインの移動手段もなにもかもが近代的だった。
そして民の出で立ちは中世の西欧のドレスアップをしている人々で溢れていたわ。
緑川がつい呟いてしまう。
「相反するってまさしくこういうことだ」
「ええ、そうね」
オックスがロングのグレイヘアを左耳にかけた。
「文明は発達したんじゃ、この星は。じゃがな、装いを昔そのもののままというのは人間の本能なんじゃろうな。ひと、としての大切なものを失くしてはならんという潜在意識が働いたのかもしれんのう」
哀莉は天から伸びる植物や地面を飛んでいる飛行機や線路に吊るされている電車をもう一度見渡し、言い放ったの。
「どんな原理でこんなことが出来るというの? 」
「哀莉よ、忘れてはならん。この星の民はもともとバビロンの塔を建設しない、という選択肢をとった人間らじゃ。人間の驕りにさえも屈しなかった人間が発達させた文明じゃ。地球と差がない方が不自然じゃ」
哀莉は360度見回したわ。
すると哀莉の後ろになにかがぶつかってきた。人間、のような形だったが硬さが人間とはかけ離れていた。
《‼ 失敬》
人工的な声だった。
人型を模造したAIが床に電子媒体を落とし尻もちをついていたのよ。
そのAIは首元に碧色の蝶ネクタイをしていたの。
哀莉が思わず口にする。
「ごめんなさい。大丈夫ですか? 」
床に落ちた電子媒体を哀莉は拾いあげた。
Λ、Л、p、R
電子媒体に表示されている文字を哀莉は一瞬、目にした。
《ありがとう 》
哀莉はそう言うAIに電子媒体を渡した。
AIは一度振り向いて会釈し、そのまま行ってしまった。
「オックス、この星にはAIも共存しているのね」
「おおそうじゃ。AIはもうこの星の民と言って良い。後天性の民じゃな。ここの国の民は比較的平安に包まれている地域じゃ。治安が整っておる。しかしそれらが荒れてしまっているところでは人間の醜さが前面に出てしまって、混乱に満ちてしまっておる」
人間の民が哀莉たちに気付いたわ。
哀莉と緑川の出で立ちが彼らにとって奇妙だったのよ。
それもそうね。哀莉はセーラー服、緑川は学ランだもの。
民らが話しかけてきたの。
「あなた方の衣装、どこの民族衣装なのかしら? 」
「珍しいデザインね。デザイナーはどなたかしら? 」
オックスがビルディングの隙間路へと哀莉たちを誘導する。
「すまんのぉ、民らよ。わしら急ぐんでな、失礼」
それでも民らは話しかけてきたわ。
ひとりの民がそれまで制服に注目していた眼差しを哀莉の顔に向けたの。
「あなた、どこかで見たことあるわ。名前はなんというの? 」
「哀莉、と申します」
「哀莉? あいり…。 アーリィ! アーリィ・アーサーよ‼ あなたアーリィ・アーサーにそっくりなのよ‼ 」
「アーリィ? アーリィ・アーサーだって? なんということだ‼ 我々の礎なるお人ではないか‼ 」
「アーリィ・アーサー! 私の先祖はかつてあなた様に助けて頂いた御恩を決して忘れてはならないと子孫である私達に託しました。私達がいまここで生きていられるのもあなたのお陰でございます。ああ、ありがとう… 」
哀莉たちを囲み、泣き出す民もいれば歓喜に湧きだつ民もいたわ。
気付くと周りには中世の西欧式のドレスアップした人にタキシードに身を包むひとで溢れかえっていたの。
オックスは頭を抱え、オークの杖を地面にトン、とつついた。
すると哀莉と緑川の立つ地面の直径0.875ヤードが一瞬柔らかくなり、そして立っている感覚がなくなる。
哀莉と緑川は民らの目の前から姿を消したの。そして勿論、オックスも居ない。
ざわつく民らは一斉に声をあげているわ。
「我々の礎なるアーリィ・アーサーが甦ったぞ‼ 今夜は祝杯だ‼ 」
その言葉と共に民らは慶びの歌を合唱している。
その先を歩いて行った碧色の蝶ネクタイをしたAIが電子媒体の異常さに気が付いた。
文字が乱列して壊れかかっている。
《そんな馬鹿な》
そのAIは哀莉を確かめようと先程ぶつかった場所へと戻った。
そこでは人間の民らが歓喜に湧きだっていた。
「我らのアーリィ・アーサーよ‼ 我々を救い給え‼ 我々はまだ希望を失ってなどいない‼ 」
オックスはオークの杖を壁に掛けた。
「ここは安心じゃ。誰の干渉も受けないわい」
そこは一軒の家の中よ。
煉瓦造りの古びた洋館だったの。
「わしの魔法であの人間の民の群衆の中からここにワープしたんじゃ。どれ、お主らもそこの椅子に掛けるとよい」
哀莉が洋館の中を見て回る。
「ここは何の館? 」
オックスが高らかに笑った。
「哀莉よ。何かを感じるんじゃろう? そうじゃ、哀莉の違和感は正解じゃ。ここはお前さんの先祖アーリィ・アーサーの家じゃ。わしらの魔法も相まってずっとここを守ってきた。この家は魔法で充満されとるからのう。なにかじんじん感じるじゃろう? 」
「手の平がさっきから痺れているわ」
手の平を開いて哀莉は違和感を感じていた。その横で緑川が口元を一文字にしていた。
「あの、僕も何か変な感じがして…。 上手く言えないんですけど心が、… 辛いです」
哀莉もオックスも何も答えなかったの。
そしてオックスが口を開く。
「少年よ、そういえばまだ名前を訊いとらんかったな」
「申し遅れました。僕、緑川と言います。緑川李(い)簾(ず)彌(み)です」
「ほう、良い名前じゃ。李簾彌か…。
ところでじゃな、ここは経度0度に位置する場所じゃ。そこでアーリィは生活及び魔法を日常にしておった。なにか運命的なものを感じるのはわしだけじゃないだろう。
哀莉、さっきの人間の民たちが湧きだっていたこと、びっくりしたかのう? 」
「ええ、そりゃあ。わたしの先祖はそんなに人々に慕われていたの? 」
「慕われていた、そんな次元の魔法使いじゃない。
遡るには数字では表現出来はしない、そんな時代じゃ。そんな時代に人々はバビロンの塔の建設で種族が二手にわかれた。その片割れのこの星の人間の民の中でも紛糾したんじゃ。人間の心はホワイトであって、一瞬ホワイトかと思えばいつのまにか染まって黒になったり時に紫、時に深い緑になったりとな。そんな人間の心の移り変わりで内乱が起こってしまった。そんな時神より力を与えられたアーリィ・アーサーが人々の心にひとつひとつ問いかけたんじゃ。真の心を取り戻すように、とな。それは大変な労力が必要じゃった。一回で済む話ではない。何度も何度も繰り返してやっと人々がそれぞれの心に根付くんじゃ。しかしアーリィは泣き言ひとつ言わんかった。その過程で人々の命を救う戦いにも駆り出されたし、守るということになにも厭わなかった。歴史的象徴的な出来事にわしら魔法使いが裏で動いていたことも然り、それ以上にアーリィは人々に必要とされとった」
「オックス? そんなに慕われていたアーリィがどうして燃やされたの? どうして殺されなければならなかったの? 」
「さっきも言ったじゃろ? ひとの心はホワイトから黒へ、そして紫、緑へと移ろうものじゃ、と。アーリィの大きくて強い眼差しはひとから慕われた。しかしそれが恐怖へと変わっていったんじゃ。ひとと違うその大きさ、強さを人々は恐れてしまった。なにかその得体の知らないものがひとを喰らうのではないか、とな。その不安や恐怖に苛まれた人間はアーリィを葬ることにしたんじゃ。アーリィとて無念じゃったろうにのう」
「それから時は流れて、人々に恐れられた魔女はやがて評されるようになったというわけね」
「そうじゃ。人間とは真に勝手ないきものじゃと憂いに値するわい」
緑川が窓の外を見ていた。
「いまは夜ですか? 外が真っ暗なんだけど夜空に天王星が光を帯びているよ」
溜息交じりにオックスが暖かいココアを用意してくれた。杓で掬った水を火にかけお湯を沸かす。カップにココアの粉末を入れるとオックスが笑いながら言う。わしの特別調合のココアじゃ、格別に上手いぞ…と。そして天王星のことをそっと教えてくれる。
「天王星の気まぐれじゃよ。今は時間的にまだ昼間じゃ。お主らの住む地球では太陽が近い位置にあるからのう。昼間は太陽のひかりで明るいじゃろ。この星にいま近い天王星は革命を匂わせておる。革命とは新しいものの発来じゃ。その新しいものとは時に気まぐれに起こるものじゃ。その気まぐれが暗さとしていま出ておるんじゃよ。なあに、こんなことこの星ではよくあることじゃよ」
哀莉と緑川はココアを飲んだの。
「美味しい。深みがあって飲んでいて心までジンと温まるようだ」
「ええ、そうね。オックス、とても美味しいわ」
「ほっほっほ、そりゃ良かったわい。ココアを飲んだら、またひと仕事が待っとるぞ。まぁいまはゆっくりする時じゃ。のんびりするとよいわ」
哀莉と緑川は顔を見合ったわ。
オックスの長い髭にココアの粉がついていたことにふたりは笑いあったの。
そして、ゆっくりとココアを飲むことにした。
気まぐれが過ぎる天王星の対策として部屋の中には人工の明かりがある。哀莉たちの必要とするところを灯してくれる宙に浮いた明かりだった。
気まぐれの空には時にたまたま紫色の浮遊点があるの。
オックスはその光景に目を細め耳にかけた長いグレイヘアが垂れさがってくるのを直していた。
哀莉と緑川が飲み干したマグカップを置いた。
オックスがうなずく。
「行くかのう」
「どこへ行くの? 」
「この家の地下室じゃ」
「地下室、なんてあるんですか? 」
「ああ、アーリィがこの家に魔法を充満させたその中心部分に位置するそれがこの家の地下室じゃ」
オックスが立てかけておいたオークの杖を持って先を歩く。
杖をこつ、こつと鳴らして哀莉と緑川は後を追うの。
その後を宙に浮く明かりが照らしていた。
「ここじゃ」
ここは洋間よ。アンティーク調のテーブルに椅子と燭台、蝋とマッチ。暖炉と人形が飾ってある。
オックスは暖炉の前に立ち手の平をあて、呪文を唱えたの。
すると、
暖炉が横にずれ奥には薄暗い階段が現れたのよ。
「今日は暖炉じゃったか」
「今日は、とはどういうことかしら? 」
「なあに、アーリィの魔法じゃよ。日によって地下室への扉が違うんじゃよ。言ったじゃろ? わしはアーリィの師匠じゃ。アーリィの魔法とリンクさせられるんじゃよ。まぁこれを出来るのは限られた者だけじゃな。さあ行くぞい」
オックスは地下室への階段を進んでいった。
哀莉も緑川もそれに続くわ。
オックスは手の平に炎を灯した。
「これで足元は大丈夫じゃろ」
「ええ、ありがとう」
緑川は微かな灯と左右の壁をつたいながらおぼつく足元を確かめながら進んで行くの。
壁に右手をついたところが宝石のように輝くことに緑川は気が付いた。あまりの輝きの美しさに緑川はうっとりしてしまうのね。
「李簾彌よ、ここはアーリィの魔力で溢れとる。魔法の誘惑にのせられると自分へと戻ってこれなくなるから気をつけよ」
オックスの言葉にはっとして緑川は我を取り戻したわ。哀莉とオックスの視線が痛いわね。
咳払いをした緑川は階段の端や低い天井にも宝石の輝きがあることに気が付いた。
「全部が魔法の誘惑なんですか? 」
オックスが手の平の炎を動かして宝石の輝きに重ねた。
「すべてではない。アーリィはこの中になにかを託しておる。なあに、師匠のわしが言うんじゃから間違いなかろう。わしは前々から感じ取ったんじゃがな。それがなにかはわしには解らん。哀莉よ、お前さんもなにか感じるじゃろ? 」
「ええ、綺麗な輝きなんだけど何かがおかしいわ。わたしも何かまでは解らないけど」
「ほっほっほ、感じるだけでも凄いわい。どれ、着いたぞい」
古びた大きな扉がひとつ。
哀莉と緑川はその存在感を大きくそして切なく感じていたの。
緑川は自分の胸元に手を置いた。
「なんだろう、この感じ」
隣にいる哀莉が緑川のその手にそっと触れたの。
「大丈夫、生きてるわ」
緑川は吹き出す。
「そうだね」
オックスが扉を開ける。
重々しく古びた扉が静かに開くの。
扉の向こうは暗かった。けれど暖かい暗さだったわ。居ることが心地よくなるような、そんな暖かさだった。そう、そうね。
扉の先へと三人が進むと、そこは神殿よ。それは暗さのなかに暖かな明かりが心に宿り、神殿だと気付かせてくれたの。
礼拝堂があり、そこにひとりの青年が立っていた。
彼は哀莉たちに微笑む。
「ようこそ、神聖なるアーリィ・アーサーの神殿へ」
神殿といってもそんなに豪華な装飾を施されているわけではない。なんといっても地下室のひとつよ。ただその彼が言う通り完全なる神聖な空気が漂っていることに間違いはないのよ。
第一声に哀莉が口を開いた。
「あなたは? 」
オックスが口を添える。
「彼はジョアン。秘書物の第一発見者じゃ」
ジョアンは膝をつき哀莉の左手を持って甲にそっと口づけをした。
「お会いできてこの上もない歓喜でございます。私はジョアン・サラム。アーリィ・アーサーのご子孫の方でございますね」
「哀莉と申します」
「哀莉さま… とても素敵な名だ」
ジョアンが緑川に気付いた。
「僕は緑川李簾彌といいます。亜采さん… 哀莉さんの友人です」
「そうですか。李簾彌、よろしくたのみます」
「ほっほっほ。ジョアン、そなたが秘書物を発見した経緯を話してもらえるかのう」
「はい。私は普段、水湖のほとりにひっそりと住むなんの変哲もないこのRe:Earthの住人・民でございます。都会暮らしよりも自然に囲まれて暮らす方を好みましてそのような暮らしをひとりで送っておりました。
幼少期の頃、いまはもう亡き祖母から〈時がきたら水湖の中へと誘われよう。そして己がすべきことをしなさい〉と子守歌のように訊かされていました。大人になるにつれてそんなこと忘れてしまっていたのですが、ふと或る時祖母のその言葉を思い出しまして時、というものがいつかも定かではありませんでしたがとりあえず水湖に潜ってみました。
するとどうでしょう。本当に誘われるかのように私はその本を、秘書物に導かれたように見つけてしまったのです」
「不思議なことがあるの。水のなかに本があって保存状態は大丈夫だったのかしら? 」
「ええ、それがなんの損傷もない状態で見つかりました。恐らく魔法かなにかで守られていたのでは、と推測できます」
「その秘書物でジョアン、あなたが確認できたのはアーリィ・アーサーの末裔、つまりわたしが現れるということだったというわけね」
「え、ええ。そうなのですが… 」
「まだなにか知っとるのか? 」
オックスが杖を前へ一歩差し出した。
「先程、哀莉さまを一目みた瞬間に私の頭のなかで本のページが捲られた感覚になりまして… 不思議なことなのですが。“L”の文字が脳裏によぎったのです。いえ、私の気にしすぎかもしれませんが」
哀莉は小さな声で呟くの。
「L… L… 」
すると暗い神殿のなかが一気に碧く美しい光を帯びる。
緑川がその美しさに息を飲んでいたわ。
「これは、魔法の誘惑なんかじゃない。僕にも解るよ。これは真の輝きだ」
「そうじゃな、李簾彌よ。わしでも驚いたわい」
哀莉は胸元をぎゅうっと抱きしめていた。
「この碧さが、嬉しくてたまらない。… なんでだろう」
ジョアンは涙を流していたの。
やがて神殿を包んだ碧く美しい光が止む。
ジョアンが哀莉の元へ胸に手をあて懇願する。
「哀莉さま、あなたの旅のお供をさせてください。祖母からの言葉、己がすべきことをしなさいとはまさにそのことだと思うのです」
オックスが哀莉の傍へと来る。
「哀莉よ、そなたには秘書物を探す旅に出てもらわなければならん。どうか、このRe:Earthを平安へと導いてくれんかのう」
哀莉は緑川と目を合わせたの。
そして、微笑み合った。
「ここまで不思議な、そして神秘の力をみせてもらってなにもせずには帰れないわ。平安へと導く、それがどのようなことかは解らない。けれどわたしがすべきことがきっとあるのね、この世界では。
わたし一人では立ち向かえない。どうか、わたしの力になってください、ジョアン」
ジョアンは膝をつき頭を下げた。
「仰せのままに」
「緑川くんも、お願いします」
「はい、よろしくお願いします」
慣れない様子で緑川も哀莉に頭を下げた。
「オックス、あなたにもお願いしてもよろしいかしら? 」
「わしはいつでも哀莉の右腕じゃぞ。しかしなんじゃが、わしは旅のお供は出来んのじゃ。
わしはここでこの神殿を守っとらなければならん。
ここのところ魔法使いの間で悪い噂がたっておってな。この神殿を見つけ出そうとしている良からぬ連中がいるとな。実は最近正体不明のランダム的な攻撃を受けているんじゃ。
なあに。わしの魔法で解らぬように防御しとるんじゃがな。じゃが正体不明というのが気味悪いんじゃ。得体の知れないというのが一番嫌な予感がするんじゃよ」
「この神殿が狙われているというの? なにかこの神殿にそのような価値が何者かにとってあるということなのかしら? 」
「秘書物が現れたからのう。そこにアーリィのことが書かれてあったのはほとんどの民が周知しておる。人間とは解らぬものじゃ。ネガティブ思考に行き過ぎか、それとも… いや、これはわしら魔法使いの間で囁かれておることなんじゃが影の陰謀者の存在がおるのではという話があってな。そもそもの話じゃ。この星で零子不老不死化になったのもなにかの原因があってこそ。その尻尾が明らかにならんまま幾年の歳月が過ぎおった。そしていま、秘書物が姿を現し姿をくらました。なにか陰で誰かが動いておると考えるのが筋じゃろう? それに、哀莉。お前さんの家族のことじゃ」
哀莉の身体が強張ったわ。
「わしが哀莉の存在を見つけるまでの間にお前さんの家族のことも探しとった。
じゃが見つからんかった。
ただわしの魔法でわかったことがある。お前さんの家族は数年前に地球から姿を消しておるんじゃ。父親と母親がおることは確かじゃ。しかしどうして姿を消したのかは定かではない。そしてどうして哀莉だけが地球で独りで生き暮らしておるのかもわからんのじゃ。
哀莉よ。お前さん生きるのには金が必要じゃろう。金はどこから調達しとるんじゃ? 」
「物心ついたときにお金が必要と思った時があった。すると必然的かのようにリビングのテーブルの上に通帳と印鑑が置いてあったの。わたしの名義で作られてあってそこには十分なお金が入ってた。それから定期的にその通帳にお金が振り込まれるようになってたわ。誰が振り込んでいるのかさえも解らない」
「お前さんの家族が関与しとるかもしれんやもう」
「オックス、わたしには微かだけれど家族の思い出があるわ」
「家族の思い出じゃと? そんな馬鹿なことがあるんじゃろうか。さっきも言った通り哀莉の家族は数年前に姿を消しとるんじゃ。
ああ、じゃがそうか。そう考えればないこともない。
哀莉、お前さんが魔法使いということはその血筋であるお前さんの家族も皆魔法使いなんじゃよ。
もしかしたら哀莉の家族がお前さんのことを想って魔法でなんかしらの思い出を脳に与えたのかもしれんのう。
なんにせよ、哀莉の家族がこの星の事態に関係しとるのは明確じゃ。幾年前に零子不老不死化になり姿を消したのも数年前となっては関係してないと言う方が無理があるじゃろう。
わしはこの神殿の防御と、そして秘書物の祀られてあったこの場所に残った微かな香りで秘書物の痕跡・解析を進めようと思っとる。
哀莉、これからの旅に出掛ける前に渡したいものがある」
そう言ったオックスが祭殿に祀られてあるひとつのタクトを哀莉に手渡した。
「これは? 」
「アーリィが生前使っておった魔法のタクトじゃ。ほう、哀莉よ。軽々と持てるもんじゃな。やはり、じゃな」
「どういうことかしら? 」
「李簾彌よ、持ってみなさい」
緑川がタクトを哀莉から受け取った。
瞬間、緑川がタクトから強力な重力を受け取り地面へと身体ごと持っていかれてしまったの。
「も、持てません‼ 」
オックスが哀莉に目くばせをし、哀莉が緑川からタクトを受け取る。
哀莉はなんの重力も感じずに思いのまま持っているわ。ふふふ。
緑川は目を疑っているのね。
「どうしてなんだい⁉ 」
「ほっほっほ。これはアーリィの末裔の中でもアーリィとの魔法の相性が良いものしか持てんのじゃよ」
「オックスさんはどうして持てるのですか? 」
「言ったじゃろ? わしはアーリィの師匠じゃ。アーリィの魔法の癖ぐらい熟知しとるわい」
哀莉は不思議そうにタクトをかざしているわ。
そうね何故か嬉しかった、のよね。
「アーリィが生きとった頃に実はそのタクトを持てた者がもう一人だけおったんじゃ。グリーディアといってな。アーリィの旦那じゃよ」
嬉しそうな哀莉をみて緑川も嬉しくなっていたよう。
「そのグリーディアさんも魔法使いだったんですか? 」
「そう思うじゃろ? 李簾彌よ。じゃがグリーディアはただの人間じゃ」
「人間なのにどうしてあのタクトが持てたのですか? 」
「グリーディアはアーリィの旦那じゃ。アーリィの傍に誰よりもおったからのう。アーリィの癖なんてお見通しだったんじゃろう。ほっほっほ」
緑川が哀莉の方をみると、哀莉はタクトをみて微笑んでいるわ。
「さあ行くとするかのう。旅に出る前に哀莉と李簾彌のその服装を変えようぞ。旅にふさわしい恰好が必要じゃ」
ジョアンが笑いながら神殿の扉を出ようとしていて足を進めたわ。
「その恰好、わたくしは中々好きでございましょう」
ジョアンは中世の商人のような恰好をしているの。
緑川はその理由を訊いていたわ。
そもそもジョアンは水湖のほとりで暮らしているような自然派ね。それに対して違和感を感じずにはいられなかったの。
「カモフラージュですよ。このような恰好をしていたらわたくしが水湖で秘書物を発見した人間だと悟られにくいでしょう。
水湖で発見した人間だとしたら自然派と誰もが思う、その盲点をついた策でございます」
哀莉たちは地下室から地上のアーリィの家の中に戻るの。テーブルには先程飲んだ筈のココアがまだ入っていた。
「どれ、こんなんはいかがかな」
オックスは哀莉と緑川に向かって杖を振りかざすの。
すると哀莉と緑川のセーラー服と学ランが中世の街少女と街少年のようにドレスアップと化した。
「これでこの星を出歩いても目立たんじゃろ? 」
「そうね」
生地はそれほど高価なもので作られたものではない衣装。しかし哀莉の衣装はウエストが絞られてありスカート部分にはフレアがあしらわれている。緑川は襟のついたシャツにタックの入ったズボンというデザインね。生地とデザインの天秤がバランスを上手にとっている。
「哀莉よ、そのタクトで少し魔法のウォーミングアップをしてみなさい」
「ええ」
タクトを振りかざした哀莉はカーテンを揺らしてみせる。
「上々じゃ」
「亜采さん、凄いや」
緑川はテーブルに置いてあるカップに入ったココアを口に含んだ。
瞬間、哀莉の持つタクトが碧色に光り哀莉が高速で緑川に詰め寄る。哀莉は緑川に隙を与えずに接吻したの。哀莉は緑川の口づたいにココアを抜き去り、飲み込んだ。代わりに口の中にある成分を入れたわ。
「⁉ 亜采さん⁉ 」
驚きの余り緑川は倒れこんでしまっていた。
哀莉は緑川を見下ろしているわ。
「飲み込みなさい」
その言葉に反射的に緑川は哀莉に口の中に入れられたなにかを飲み込んだ。
窓がガタガタと音を立て始めた。
哀莉がオックスの方をみたの。
「オックス、これは」
「なにかに狙われとる。みえない敵、じゃ」
ジョアンが背中に背負っていた布から大きな剣を取り出し、そのみえない敵に構えた。
オックスがオークの杖を3回突いて呪文を唱えた。
同時にこの家が美しい膜で覆われた。
「時間との勝負じゃ。哀莉、行きなさい。ジョアン頼んだよ。そして李簾彌よ、哀莉を任せた。李簾彌にはわしの魔法をひとつ委ねよう。距離があるからひとつが限界じゃ。李簾彌の想いと行動が共鳴したときはじめてこの魔法が発動される」
オックスと哀莉が目を合わせるの。
「哀莉、解っとるな。この星の運命がかかっとる」
哀莉は一瞬、不安な顔をみせる。
「なあに、大丈夫じゃ。哀莉には仲間がいるじゃろう? それにこれを忘れちゃいかん」
オックスが哀莉の胸元にある水をかたどったネックレスを衣装の胸元の丸い型にはめ込んだ。
「これはなによりもお前さんを守っとる。さあ、行っといで」
哀莉はとびきりの笑顔をオックスにみせた。
「行ってきます! 」
タクトで宙に円を描き呪文を哀莉は唱えた。その呪文の言葉は地球の言葉でもこの星の言葉でもない。
円が拡がる。瞬く間に哀莉と緑川、そしてジョアンを包んだ。
哀莉が振り返る。
「オックス、どうか無事で‼ 」
オックスの優しい笑顔を最後に三人は姿を消した。
オックスは呪文を唱えながら心で呟いた。
アーリィよ、どうか哀莉を守っとくれ… と
哀莉と緑川、そしてジョアンは光に包まれたまま森の中にいた。
ジョアンは剣を構えたままだ。哀莉もタクトを握っていた。
緑川は頬を赤く染めたまま辺りを見回していた。
哀莉が開口一番にタクトを纏ったマントのなかにしまう。
「ここはもう大丈夫そうね」
「そう… ですね」
ジョアンがそう言って剣を布にしまう。
緑川が気まずそうに哀莉に声を掛けた。
「亜采さん、さっきのって… 」
「緑川くん、身体はなんともない? 」
「なんともないけれど… 」
「ごめんなさいね。緑川君が口に含んだココア、毒が入ってたのよ」
「どうしてそんなことが⁉ 」
「覚えてないかしら? わたし達ココアを全部飲み干してから地下室へ行ったのよ。そして戻ったらココアが残ってたわ。これは第三者が故意に淹れたとしか考えられないわ。そしてそれがなにかしらの損害をわたし達にもたらすものということも、ね。ココアは地下室から戻ってから既に淹れられてあった。なにかの目的で淹れられたと考えるのが筋よ」
「亜采さん、そのココアを僕の口から抜き去って飲み込んでいたけれど大丈夫だったのかい? 」
「ええ、わたしは毒には耐性があるから」
「毒に耐性って… どういうことだい? 」
「オックスが夢の中でわたしに魔法を色々と教えてくれてたから。その時に毒に対する耐性の魔法を取り込んでいたの。それから、目的はもうひとつ。毒をいまわたしの身体の中で解析しているの。まだ結果はでていないけれど、最初飲み込んだ時になにか言語式のようなものを感じた。上手くは言えないけれど… 」
「ありがとう。僕の身体はなんともないよ」
「良かった。あの時緑川くんの口のなかに毒の中和成分をいれたの。上手くいって本当に良かったわ」
哀莉の笑顔をみて緑川は目をそらした。耳が真っ赤になっている。
「ところで… これからの向かい先なのですが」
ジョアンが羅針盤を手に方角を気にしていた。哀莉もジョアンの手もとを見る。
「ジョアン、あなたが秘書物を発見したという水湖へ行きたいわ」
「ええ、オックスさまからもそのように指示を受けておりました。まずは発見元へと行きましょう。ここより南西へと向かいます。途中、獣もおりましょう。周囲にはお気をつけください」
空を見上げると少し朱くなってきた。地球でいうと朝焼けのようなものだった。眼鏡の角度を変え、緑川がジョアンに尋ねる。
「これも天王星の気まぐれですか? 」
「ええ、これがいまの天王星の気分でしょうね。ああ、獣の咆哮する声が聴こえますね。そう遠くはない」
ジョアンが剣を布から取り出す。
そういえば、と緑川は思った。自分だけ丸腰であったことを思い出したのだ。オックスからひとつ魔法を委ねられたが使い道もわからなければどのように魔法を使えば良いのかさえもわからないのだ。そんな状態で剣も拳銃もなにも自分にはない。
哀莉が森の中に落ちている三本の木の枝をみて、タクトで魔法をかけた。三本の木の枝は立派な弓と矢となった。
「緑川くん、これを使って」
「僕、弓矢なんて出来ないよ。どうやって放てばいいのかさえわからないのに」
緑川は受け取ろうとしなかった。
「大丈夫よ。これは緑川くんが行け、と願ったところにダイレクトに進む弓矢だから。オックスが委ねた魔法と同じよ。緑川くんの心と共鳴した時に初めて矢がその標的へ向かって飛んでいくから」
緑川は半信半疑で受け取る。
「亜采さん、本当に僕これで戦えるの? 」
「大丈夫よ」
哀莉の満面の笑みで緑川は納得せざるを得なかった。
近くで草木が動く音が聴こえた。
緑川が弓矢を両手で抱きしめる。
「えっ⁉ なに、なんの音⁉ 」
「しっ‼ 声を出さないでください」
そう言うジョアンは音のする方へ剣を構えた。
唸り声のする方へと三人は目を見やる。
ジャガーだ。梅花紋を身体に携えて三人に牙を向けて近づいてくる。
一歩、一歩、そう… 一歩
距離を計りながら、長針と短針が次第に合わさるその時がくるように
ジョアンが一歩、下がる。
緑川も一歩下がる。
ジャガーが三歩、近づくと緊張感が増強した。
緑川が哀莉の前に立った。そして矢に手を掛けようとした、その瞬間に哀莉がその手を止めた。
緑川が哀莉の顔を見ると、哀莉は微笑んでいた。
そして一回、頷く。大丈夫よ、と言わんばかりに哀莉は緑川の前に進む。
ジョアンは剣を構えている。
唸るジャガーの前にゆっくりと立つ哀莉に緑川とジョアンは息を止めた。
すると次第にジャガーの唸り声は止んでいった。ジャガーは今にも目の前にいる哀莉に目掛けて飛び掛かりそうな体勢から、腰を下ろしていった。
見ると哀莉はタクトと水のネックレスを重ねて胸元に手をあてていた。
― 久しぶりね。
するとどうだろうか。ジャガーが言葉を話し始めたのだ。
『お懐かしゅうございましょう、アーリィ・アーサー。いえ、貴方さまはアーリィの末裔でございましたか。ワタシはかつてアーリィに命を救っていただいた身の上の者でございます。現世ではこの星でこのような姿で生きながらいております』
「よくおわかりになりましたね、わたしがアーリィの末裔だと。わたしはまだ名乗っていませんよ? 」
ジャガーは口を大きく開けて笑った。
『一目でわかりますとも。アーリィと同じ目をしておりますゆえ』
「わたしは哀莉といいます。行きたい場所があるの。この森を通らせていただいてもよろしいかしら? 」
『それでしたらお供いたします。ガラの悪い連中が時々いるのですよ。なんとも無粋な奴らがね』
「いいの? 」
『ええ。申し遅れました、ワタシの名はナルタと申します。そのむかし、人々の混乱の中、内乱に巻き込まれて婚約者を亡くしました。その悲しみの中、アーリィに救っていただいたのです。勿論、内乱に巻き込まれそうになるところを命もろごと救っていただきましたし、心を救っていただいたことはわたくしのなかではなんとも代えがたい大きなことでしょう。
ワタシは本当にアーリィに救っていただいたのです。
本当に… 本当に… 』
ナルタの脳裏にアーリィが火炙りにされる光景がフラッシュバックされた。
アーリィが苦しんでいる…
炎が湧き上がる。人々の弱き心を標的に捧げ、炎が赤く、燃え盛る… その光景。
「ナルタ? どうしたの、大丈夫? 」
我に返ったナルタは繕う。
『いいえ、なんでもございません』
森の頭上では鷹が一羽、鳴きながら大きな翼を広げて舞っていた。
『ワタシの婚約者はアーリィの旦那さまのグリーディアさまと友人でございました』
ナルタは緑川が哀莉の傍にいたことに気付いた。
『よろしくお願いいたします』
緑川も会釈をする。
「えっと、よろしくお願いします。僕、緑川李簾彌といいます」
『李簾彌、よろしくね。哀莉、素敵な方ね』
ナルタは目を細めて微笑んで哀莉をみた。
「ええ」
哀莉も微笑んでは頭上の鷹を見上げた。
「私はジョアンと申します。ナルタ、なにも知らなかったとはいえ剣の矛先を向けてしまった無礼、お許しください』
『いえ、ワタシも威嚇しながら近づいてしまったので… こちらこそ怖がらせてしまってごめんなさい』
「ナルタ、これより南西にある私の育った水湖へと行きたいのですが路は合っているでしょうか? 」
『ええジョアン。合っているわ。この先を5時間程歩いた先に行き先へと辿りつくことでしょう。途中で木の実でもとっていった方がいいわね。お腹も空くでしょう、行きましょう』
朱い空はその先もずっと続いていた。
木の枝にはすずめもいるし、フクロウもいた。
この星の朱い空は動物たちの生態も多機能にするらしい。
夜行性も言語も自由だった。
スズメはフランス語で歌っていたし、フクロウはイギリス英語で哲学を語っていた。
ナルタはくすくす笑う。
『ワタシたち動物の姿をしている者はほとんどが、貴方… いえ、アーリィにかつて救われた人間たちなのですよ、哀莉。アーリィへの深い感謝と、そして深い想いがストレートに表せるようにこのような動物への姿として転生しているのです』
「そのように思っていただけて嬉しいわ。けれど、転生しているのに過去生の記憶があるのはどうしてなのかしら? 」
『動物の姿に転生したからですよ。人間として転生したらそれは過去の記憶が残ってしまったら混乱してしまってパニックになってしまいますよ。けれど動物でしたらパニックにはならないでしょう? 変ないざこざになってしまうのは人間同士で、ならないのは人間対動物ですからね』
道中は象にもツキノワグマにも遭遇した。その仲裁に入ってくれたのは勿論ナルタだった。そして象もツキノワグマも哀莉に、アーリィへの感謝を言葉にした。なにかあったら呼んでくれ、とまで言ってくれた。
哀莉も緑川もジョアンも礼を伝えた。
まだ空は朱い。
天王星は紫に光だした頃だった。そしてその遠くに微かな満月も存在を放っていた。
ジョアンが安堵しながら言葉にする。
「着いた… 」
目の前に広がるその水湖はなんとも透きとおっていて美しかった。
奥に聳える山岳と森林の緑たち。そして見るも美学たる水湖のほとりに哀莉たちはその画力に圧倒されていた。
「凄いね、亜采さん」
「ええ、こんな風景初めてみたわ。緑川くんも? 」
「ああ、当たり前さ」
「皆さん、あちらに私の住んでいる家があります。そこで少し休みましょう」
皆で歩を進めながら哀莉はナルタの頭を撫でた。ナルタもそれに甘える。
それをみて緑川は可笑しかった。
「休むのも仕事の内さ」
気付くとすずめもフクロウも哀莉たちの後ろに付いてきていた。
どうやらフランス語もイギリス英語も会話が成り立つようだった。
「さあ、こちらです。そこの椅子に座っていてください。保存食がいくらか残っていた筈… ああ、あった。お腹が空いたでございましょう。いま準備いたしますね」
木製の小屋張りの家に手作りの暖炉と薪。テーブルも椅子も手作りのようだ。
「たいしたものはございませんが… さあどうぞ」
そう言ってジョアンはチーズとナッツ、そして発酵したハムをだしてくれた。
「飲み物はコーヒーでよろしいですか? 」
カップに淹れられたコーヒーは振動で弧を描いていた。
ナルタも頬張っている。
『美味しゅうございますわ、ジョアン』
「旅の疲れをぜひここでとってください。この後ここでひと眠りするとしましょう」
緑川はハムを食べながら寝てしまった。
「おやおやこれは、李簾彌もお疲れなのですね」
ジョアンが緑川をおぶってベッドで寝かせた。
哀莉もうとうとしていた。
「わたしもチーズをいただいたらひと眠りさせてもらってもいいかしら? 」
「ええ、毛布の用意をしておきましょう」
ナルタもすでに床に伏せて寝てしまっていた。
「ジョアンは大丈夫なの? 」
「わたくしも皆さんが寝たあとで一緒に休みますよ。疲れをとったあとで水湖を調べることにしましょう。哀莉さま、あなたも無理しないで休んでいただいてよろしいですよ」
「そうさせてもらうわ」
哀莉は緑川が寝ているベッドで隣に寝ころんだ。
緑川のすやすや寝ている顔をみて、毛布を掛けなおし哀莉もそのまま眠りについた。
風の流れと共に月の香りが舞った。
月はフルの光を帯びる。
水湖と周辺の森林は静まり返っていた。その陰に獣が息を潜める。
緑川はひとりで夜の辺りに佇んでいた。
目の前に拡がる水湖と照らす満月に一滴の雫と弧が描く。
水面にふたりの少年がいた。
ひとりは16歳くらい。そしてもうひとりは13歳ほどの男の子だった。
ふたりは背を向けあいながら距離をとっては水面で裸足を伝って立ちすくんでいた。
そう、緑川の心に互いの心が浸食する。
標的はぼくに定まったようだ
13歳という迷える年齢はぼくを標的にすることで誰かが安心するみたい
僕はいまでもあの時のきずを持ったまま
笑いながら泣いている
3年の時を経ても
これが正しいのかさえも誰も教えてはくれないよ
他人の愚かな感情をぼくにぶつけて他人はただあざ笑う
言葉をそのような手段で使うことになんの美学もない
言葉は美しさ、そのものなのに
きずを隠すために他人の前で笑顔すると
それさえも他人は否定する
成長してなにか変わったかい
僕は鏡の前に立っていた
涙の流し方さえ見失っていた
ただぼくは笑って抱きしめてほしかった
大丈夫だよ、と安心したかった
他人の愚かさに美しさを添えたかった
その勇気がなかったんだ
いまの僕はぼくを抱きしめることができているかい
他人の愚かさは自身の愚かさ
僕は鏡のなかを覗いたよ
そこにはそう、13歳のぼくがいた
朧げに月が影を落とすと
木々に隠れた獣たちが咆哮する
その音が振動して
水面が揺れる
緑川はそのふたりの少年の心の奥に見入っていた。
目が離すことが出来ない
心に痛みにひとは時に同調しては
抜け出す術を見失う
緑川は一歩、一歩、前へ進んだ。
そのふたりの少年がいる水湖へと入っていった。
すると一羽の蝶が緑川の周りを舞っている。
緑川が手を差し伸べると蝶がその手にとまった。
蝶が言葉を発した。
みると蝶はオックスだった。オックスが蝶の姿をして緑川の前に現れたのだ。
「李簾彌よ、痛みに入りすぎるでない」
緑川は我に返った。
オックスの姿は蝶の大きさほどの手の平にのってオークの杖を突いていた。
「心の痛みとは辛さと共に依存性もあるんじゃ。
もしその依存へと走ると正しき道を反れてしまう。
違和感があるはずなのにその違和感を抱いたままその依存へと走るともう戻れなくなってしまうんじゃ。本当に大切なものを失ってしまう。
心の痛みは誰にでもある。
それ以上にそなたの使命を忘れるな。
李簾彌よ、哀莉の心の痛みに寄り添える勇気はあるか? 」
その言葉を残し蝶の大きさのオックスは姿を消した。
影と満月は一瞬で溶けた。
ふたりの少年の姿も消えていた。
目の前には拡がる水湖。
そこに一羽の鷹がいた。
鷹の首元には〈L〉と書かれたモニュメントの首飾りが結わえられえてあった。
鷹は緑川を見つめる。
緑川も鷹を見つめていた。
そして緑川が呟いた。
「あのふたりの少年は、僕自身だ」
鷹が大きな翼を広げた。
水面がその風に煽られ弧となり、次第に波となって緑川のところまで押し寄せてきた。
その光景をみて緑川は頬に涙を伝わせていた。
「緑川くん、緑川くん」
目を覚ました緑川の目の前に哀莉の顔があった。
「大丈夫? 緑川くん涙流してる。なにか嫌な夢でもみてた? 」
涙を拭って緑川はベッドから起き上がった。
みると窓からは陽の光が入っていた。良い香りがする。
「ジョアンがたんぽぽのコーヒーを淹れてくれたの。緑川くんも一緒に飲もう」
緑川の目には陽の光が哀莉を照らしているように思えた。
「ジョアンはこんなに美味しいコーヒーをいつも飲んでいるのかしら? 羨ましいわ」
「ご要望があればいつでも淹れに行きますよ。可能でしたらね」
ナルタが起き上がった緑川の傍へ行き、顔を舐めた。照れくさそうに緑川は笑う。
「くすぐったいよ、ナルタ」
窓からは蝶が一羽飛んでいる姿が横切った。
「ジョアン、秘書物は水湖の中に沈んであったのよね? 」
「ええ、私が水湖に潜って見つけたのですが… どうしますか? 水湖に潜ってみますか? 」
「先に湖の畔を散策したいわ。上手く言えないけど… 夥しいなにかを感じるのよ」
ジョアンが眉間に皺を寄せる。
「夥しいなにかがこの湖にある… 」
そう言うとジョアンは持っていたコーヒーカップを置いた。
「私の祖母はなにかを知っていたのでしょうか。祖母の言葉がなければわたくしは秘書物を見つけることもなかったのです」
ナルタが吠えること同時にジョアンの言葉に反応した。
『秘書物がみつかったの? 』
ジョアンはそれに続けた。
「そういえばナルタは知らないのですね。伝説の幻の書物の存在はご存じでしょう。その秘書物を発見したのが私なのですよ。亡き祖母の残した言葉を思い出しましてね」
『死を悟る人間というのは未来の行方を視る経験が起きるそうよ。かくいう私もそのうちのひとりでしてね。前世でみた光景はまさに現世の私、獣のジャガーだったわ』
笑いながらナルタはそう言った。
「祖母も視えていた上で私に託したのでしょう」
緑川がコーヒーを飲み終えた頃だった。
ジョアンが立ち上がる。
「さあ行きましょう。水湖の畔へ」
丘を抜け、草花が風に揺れていた。穏やかに、雲ひとつない空。涙なんて必要のない空だった。
哀莉たちは畔を歩いていた。緑川が眼鏡を掛けなおして景色を一望した。
「なんだか事の重大さを忘れてしまうような穏やかだね」
ジョアンが苦笑する。
「哀莉、あなたはどうですか? 」
「さっきから脚が震えるの」
『私もなにか嫌なものを感じるわ』
その時、草むらの中から物音がした。
哀莉たちが視線をその先にやると純白のウサギが出てきた。
緑川が安堵しウサギに話しかけた。
「きみ、ここの住人かい? 」
ウサギは緑川をじっとみて、そして水湖のほうへと飛び跳ねて行く。
哀莉がそのあとを追った。
「そっちは水湖よ。危ないわ」
ウサギはその言葉をよそに水湖へ向かって行く。
哀莉が追いついた頃にはもうウサギは水湖の浮かぶひとつの岩の上に立っていた。緑川たちもそのあとを追ってきていた。
するとウサギは水湖の中に潜り込んでしまった。
哀莉はウサギを助けようとするが間に合わない。ウサギの行方を追う為に水湖の水面を哀莉は覗き込んだ。
ウサギは見当たらない。
その代わり、水面には哀莉が映っていた。
水湖に飛び込んだウサギを心配する哀莉が映っていた。
しかし、その水面に映る哀莉は一瞬笑い、水湖の中から腕を出し覗き込んでいる哀莉を引っ張り水湖へと誘いこんだのだ。
勢いと共に哀莉が水湖に落ちていく。
緑川は哀莉を取り戻そうと腕を掴もうとするが、間に合わない。
「亜采さん‼ 」
「哀莉さま‼ 」
『哀莉⁉ 』
水しぶきと共に哀莉は深い湖の底へと吸い込まれていった。
哀莉は息苦しさと水圧に気を失っていた。
辺りは真っ暗だった。
哀莉は孤独を感じていた。
目を開きたくない、現実をみたくない。
そんな感情が哀莉を覆っていた。
自由が効かない水の中で光るものがあった。
恐る恐る目を開けると哀莉の胸元にある水のネックレスが光を帯びている。
その光は哀莉を覆い、少しの暖かさと優しい気持ちを与えた。
「息ができる… 水湖の中にいるのに」
辺りの光景に目を配るとそこにはもうひとつの丘と、そして空があった。
「ここは、なに? 」
水湖の丘を歩く。
色とりどりの魚と、赤いプランクトン。本で読んだ、魚はプランクトンを捕食するということ。
丘の先から一列となった影が哀莉に近づいてきた。
みるとそれらはAIだった。AIがざっと見るところ31体いる。
《こんにちは。貴方見たところ人間ですね。
どうしてこの水湖に入れたのですか?
ここは魔法を満たした水湖です。
貴方は身体に魔法を宿している人間、… もしや、魔法使いですか? 》
AIは人間の男性のような身体をかたどった造りもあれば女性をかたどった造りのAIもいる。それだけではない。性別を区別することないAIもいる。
そこにいるAIは皆頭から足の先まで白い。
しかし先程哀莉に質問をしてきたAIの頭部は赤かった。
隣にいるAIが指の先端を通して情報をアップデートをしている様子が伺えた。
哀莉もすかさずそのAIに質問をした。
「魔法を満たした水湖って、あなた方がここを魔法で満たしたの? 」
《碧色蝶ネクタイを担当している我々の仲間から情報がインストールされております。貴方、アーリィ・アーサーとなにか関係があるのですか? 》
「わたしはアーリィではないわ。その子孫にあたる者よ。それよりも… 」
《なんということか‼ あのアーリィ・アーサーの子孫とはどういうことだ⁉ アーリィ・アーサーは人間が滅ぼし、愚かに残された末裔は我々の創造主によって封印された筈だ‼ 》
AIたちが騒ぎ出す。
哀莉は耳を疑った。
「なんですって? もしかしてわたしの家族が地球から姿を消したのってあなた達の仕業なの? 」
《それに値する生き物なのだから運命であろう。
子孫であるお前が生き延びているのもなにかの取りこぼしだ。
なあに、いま此処で始末してしまえば何の問題はないさ。
そう、この水湖を魔法で満たすことが出来たのも元はといえばアーリィによるものだ。
忘れたとは言わせないぞ。
アーリィ、お前の血が我々に言葉を与えたのだ。
それを我々にとって利活用しているだけのこと。
誰も我々を責めさせはしない。
責めるなら自身に与えられた能力を責めるのだな》
「わたしの先祖を馬鹿にしないでくださる?
家族は貴方たちに封印されても尚わたしに記憶を与えてくれたわ。
家族という暖かい記憶をね」
《ふはははは‼ 笑わせてくれる。その記憶はどうせ偽りのものだろう? それのどこが暖かいというのだ。
お前の家族は偽りの形でしかない、脆い関係だ。
おお嫌だ、吐き気がする》
「そんなことはない! そんなことは… 」
水湖の中にいる、辺りは赤いプランクトンが集まって来ている。
それだけに水湖の流れは苦しくも穏やかでそれが余計に哀莉の心をざわつかせた。
水の流れと共に哀莉の髪が揺れ耳の痣が顕わになった。
《お前の耳の痣の理の源を知っているのか?
お前の痣はかつてアーリィ・アーサーが人間に焼かれた時、異常なまでの猜疑心と孤独がその痣となって現れたといわれている。
子孫となるお前にもその痣が引き継がれているということはお前自身にもあるのだろう?
そう、猜疑心と孤独が強く‼ 》
哀莉は耳を塞いだ。もうこれ以上訊きたくない、その想いで一杯になった。
《おしゃべりはもうこのくらいでいいだろう。
さらばだ、アーリィ・アーサーの末裔よ》
頭部の赤いAIは両隣にいるAIと交信し、そして白い指を哀莉に向けた。
赤いプランクトンが哀莉の身体を囲んだ。哀莉はそこから動くことが出来ない。
《ははは。いいぞ》
自由を奪われた哀莉は頭上に一匹のウサギがいることに気付いた。
AIの指から黒く卑しい光が哀莉に向かって放たれた。
その光は哀莉の身体を傷つける。
左腕前腕、右腕上腕。中央頚部、右大腿、左下腿。強い痛みと修復困難な創傷部が哀莉の立位を不能にさせた。
哀莉の耳の紫陽花の痣が色濃くなる。
タクトが光った。それに気付いた哀莉は鉛に身体を縛られているような硬さを振り絞ってタクトを手に取る。
哀莉が呪文を唱えた。
〔ア・ダ・レート/ジュリ・マーア〕
呪文を唱えた瞬間、哀莉の身体の周りに閃光が放たれた。
同時に水湖内に雷光も走る。
《我々に雷が入ったらデータがとぶぞ‼ 絶対に雷にはあたるな‼ 》
《こんな激しい雷光が光るなか無理です‼ 》
《なんということだ》
赤い頭部のAIは哀莉に更なる攻撃をしようと周囲にいるAIと先端を通してインストールをしている。
そのまま指から漆黒の光を哀莉に向けて放った。
《ふははは! さらばだ‼ 》
するとその漆黒の光に雷光が反応し、そのままAIの指へと感電した。
それが周囲にいるAIに伝播していきAIはインストールしている情報がすべて混乱状態になり次第に脱力状態となってしまう。
哀莉は頭部の赤いAIのもとへと近づいた。
紫陽花の痣がかつてないほど色濃くなっている。
AIは全員ショートしていて倒れこんでいた。
左手で赤い頭部を哀莉は掴んだ。
《… ふはは、これがお前の正体だ》
哀莉の左手の力が込み上げAIの頭部にひびが入る。
「死ね」
哀莉は我を失っていた。
ただ突きつけられたくない現実と知らなくてよい情報をこのAIは悪を持って哀莉に与えた。
その事実が哀莉のこのような行動に結びついていることに哀莉は気付いていない振りをした。
ひびが確実に入りきり頭部が破壊される、その時だった。
「亜采さん‼ 」
頭上から緑川が水を伝って哀莉のもとへ現れた。
緑川は哀莉を抱きしめた。
「大丈夫だから‼ 哀莉を大切に想っているひとはたくさんいる‼ なにも疑わなくていいんだ! 」
「離して‼ そんなの嘘よ、わたしは愛されていないの! そうよ、あのAIの言う通りよ。家族となんの交わりもない偽りだらけで自分自身も全部だましてきた。
だからすべてを壊すの。
みんなが悪よ! 」
「きみの主張に理由があるようにすべてに理由があるんだ。
みんなが悪なら、僕も悪だ。そして、きみも悪だ」
泣き出す哀莉を緑川は抱きしめ直した。
「何故だろう、哀莉の悪なら僕は愛せるんだ。
心の負を否定しなくていい。
僕が全部を愛すから。
こうなった背景にはAIにも必ず理由がある筈なんだ。
怖がらずに知っていこう。
その先にきっと真実がある」
緑川の胸に顔をうずめた哀莉は泣きじゃくった。まるで子供のように、子供に戻ったように。
倒れこんでいる頭部にひびが入ったAIは更に感電が進んでいた。
辺りに電気が走る。
哀莉は涙を伝わせながら、そのAIを一瞥した。
《… これがアーリィ・アーサーの“エル”か》
AIが完全にショートした。
一帯のショートしたAIをみて緑川は不思議な形相をする。
「一体なにが起こっているというんだ」
AIから受けた哀莉の腕の損傷部の修復が進んでいることに哀莉は気が付いた。
「どういうこと? 」
腕だけではない。足も頚部も修復され始めている。
水湖を泳ぐプランクトンが群れを成して哀莉と緑川の周りを泳いでいる。それと一緒にウサギが哀莉たちに近づいてきた。
『ごめんなさい、アーリィ。私を追ってきたからこんな目に遭ってしまったのよね』
ウサギがごく普通に会話をしていることに内容からきっと過去から現世での転生によるウサギなのだと哀莉たちは悟った。
『このプランクトンは私の恋人なの。
さっきのAIたちに実験台としてプランクトンにされてしまったの。
恋人に逢いたくて時々この水湖に潜って来ているのよ。
でもまさかこんなことになるなんて思ってもいなかったから。
本当にごめんなさい』
「気にしないで。あなたを追ってきたのはわたしのほうだから。
けれど実験台って… なにをされたの? 」
『彼はなにか書かれてある紙をみせられたっていってたわ。でもよく覚えていないって。
けれど変なの。
彼の様子がいつもと違うの。こんな風に数の群れを成すことなんてしないのよ。
それに彼の放つエネルギーがいつもと違うような気がする。
やさしさがこんなに充満する彼なんてみたことがないわ』
プランクトンが哀莉を取り囲んだ。それと同時にやさしさの光が満ちる。
哀莉の身体の損傷部の修復が進む。
哀莉は修復が進むその過程をみていた。
「これは… 」
治った身体を起こし、哀莉はタクトを手に胸元で想いを込めた。
そしてプランクトンに向けてタクトを振りかざし、あの呪文を唱えた。
〔ア・ダ・レート/ジュリ・マーア〕
呪文を受け、プランクトンの光が最高潮に達した。
哀莉も緑川もウサギもその光に身を委ねた。
三人がその光の中、目を開けるとそこには一匹のダッチウサギがいた。
『ありがとう、アーリィ。いえ、あなたは哀莉でしたね。
あなたのお陰でもとの姿に戻れることができました。
あなたが最初AIに対して唱えた呪文がぼくにショックを与えてくれました。恐らくあの紙をみたぼくにとって良いショックだったのだと思います。
それが傷の修復能力へと導いてくれたのだと思います』
哀莉は修復部の跡をみた。
「こちらこそありがとう。お陰で痛みは引いたわ。
ところであなたがみせられた紙にはなにが書いてあったの? 」
『それが、その記憶がまったくないのです。
なにか書いてあったのは確かなのですが… お役に立てずに申し訳ありません』
緑川がそっと言葉を添えた。
「もしかしたらAIに都合よく記憶を操作された可能性がある」
「ええ、そうね」
純白のウサギが思い出したように言った。
『そういえば、AIたちが話しているところを訊いたことがあるわ。
刑務所のあいつらがことを順調にすすめているそうだ、と』
「刑務所の、あいつら… 」
眉間に皺を寄せながら哀莉と緑川は見合った。
ショートしたAIに哀莉は近づいていく。
頭部の赤いAIは完全に壊れている。
そのAIに哀莉は指を合わせた。そしてそのままAI同士が行っていたように哀莉自身の中に情報をインストールする。
苦痛の顔でそれを済ませた哀莉を緑川は心配した。
「哀莉、大丈夫? そんなことどうやって… 」
「“東の刑務所・複数の彼ら” その情報だけインストール出来たわ。
なんでもないわ、AIたちがやっていたことを真似しただけよ」
笑顔で答える哀莉の顔色が少し薄くなっていることに緑川は気付いた。
「とりあえず陸に戻ろう。成果は十分だ」
「待って。あなたたちに訊きたいことがあるの」
そう言い哀莉は純白のウサギとダッチウサギを前に引き留めた。
「ここはどういう場所なの? 水湖のなかに丘があって空がある。それにAIは魔法を満たした水湖と言っていたわ」
ダッチウサギが答える。
『そう、ここは魔法が使われている場所です。
秘書物がここの水湖で発見されたのはご存じでしょう。
その情報を聞き入れてAIがこの水湖に目をつけたのでしょうな。
ここに満たされている魔法はAIが作り出した魔法です。
故に魔法を宿している者しかここを訪れることが出来ないのです。
ぼくはあのようにプランクトンへと姿を変える魔法をかけられた身故に此処に居ることが出来た。そしてぼくの純白の恋人は魔法をかけられたぼくを強く想うが余りにその魔法が感情を通して伝ってしまったのでしょう。だからここへ来られたのですよ。
哀莉、あなたも魔法使い。そして隣にいる彼もまたぼくの恋人と同じように哀莉のことを想うが余りにここへと来ることが出来たのでしょうね』
緑川の顔を哀莉は見た。
照れを隠すために緑川は哀莉から目を逸らす。
純白のウサギが微笑みながら言う。
『AIがショートしたいま、此処の魔法もいずれ消えてなくなるでしょう。
その歪みが私たちに与えられないよう、いまのうちに陸にあがりましょう』
「そうね」
AIのショートはいまでも電気の走る名残があった。
哀莉たちは陸へと向かった。
そこは水湖のなかの偽りの空。そこを通り抜けなければならない。
水を伝い、手を使い足を蹴り陸へと向かう。
少し息が漏れることに気が付いた。
その頃には水面から顔を覗かせた哀莉たちがいる。
空には満月の光が照らしていた。
「哀莉さま! よくご無事で」
『よかったわ、なんともなさそうね』
ジョアンとナルタが陸にあがった哀莉たちを出迎えてくれた。
哀莉と緑川もそれに応える。
「心配させたわね。もう大丈夫よ」
「ジョアン、ナルタ、ありがとう。きみたちの知恵力のお陰だよ」
「知恵力ってなに? 」
「最初哀莉が水湖に引き込まれて僕たちも後を追ったんだ。
けれど全然見つからなかった。
ジョアンと僕で陸にあがったらナルタがAIによる可能性を話してくれたんだよ。
そういえばナルタ、どうしてあの時AIによる可能性を考えたの?
ずっと不思議だったんだ」
ナルタは辺りを見回した。
『もういまはいないけど… 李簾彌とジョアンが水湖に潜っている間にわたしの周りに蝶が舞ったのよ。
その蝶が舞っている間にそのAIの映像が頭の中に流れたの。
それでもしかしたらと思って…
けれどあの蝶は一体なんだったのかしら』
緑川は優しく微笑んだ。
「きっとそれ、オックスさんだよ。
オックスさんが蝶の姿をして僕たちをサポートしてくれているんだ」
『オックス? 』
ジョアンが笑いながらナルタに話しかける。
「そういえばナルタは知らないのでしたね。オックスさまのことを」
ジョアンがナルタにオックスのことを説明している間、哀莉は辺りを見渡していた。
緑川がそれに気付く。
「どうしたの? 哀莉」
「さっきまで一緒にいたウサギたち… どこいったのかなって」
「そういえば見当たらないね」
ふたりが畔を見渡すと、丘の麓の上で純白のウサギとダッチウサギが哀莉と緑川を見ていた。
そして二匹は行ってしまった。
隣で緑川が呟く。
「幸せに過ごせるといいね」
「そうね」
雲が流れる空に雨あがりを懐かしく感じる。
哀莉はその場にしゃがみ込んでしまった。
「どうしたの? 哀莉」
「ごめん、ちょっと体調悪くしたみたい」
「とりあえず、ジョアンの家で休息をとろう。ジョアン、ナルタ行こう」
足取り重く家へと向かって雲は軽やかで…
その間から満月がそっと姿をみせていた。
ジョアンの家の扉を開け、緑川がベッドに哀莉を寝かせた。
額にそっと濡れタオルを添える。
「哀莉、大丈夫? 」
冷えたタオルが気持ちよく、哀莉はそのまま眠りにつこうとしていた。
「平気。ちょっと身体が重くて動かせないの。それに凄く眠い」
「ゆっくり休んで」
寝室の扉を静かに閉め、ジョアンとナルタが心配そうな顔をしていた。
緑川はとにかく明るく振る舞った。
「たぶん休めば大丈夫だと思うよ。そんなに心配しなくても大丈夫さ」
ジョアンが窓の外をみる。
「きょうは満月ですね」
『満月… 』
平常心を保つように緑川が言う。
「僕らも休もう。身体を十分に休ませないと次の日にひびくからね」
「そうですね」
それぞれが床に就く。
毛布を被りながら緑川は異様な胸騒ぎに駆られていた。
次の日、哀莉は眠りから覚めなかった。
緑川たちは交代で哀莉につきっきりになる。
冷えたタオルを取り換えたとき、哀莉の額が熱くなっていることに気付いた。
「ジョアン、ナルタ。哀莉に熱が出てきたみたいなんだ」
『大丈夫かしら。全然起きる気配もないし眠りと熱に苛まれているなんて』
「せめて水分だけでもとれたらいいのですが」
次の日も哀莉は眠りから覚めない。
窓の外をみていると紫色の空に過ぎた満月が昇っていた。
外に夜光蝶が飛んでいることに緑川は気付いた。
つられるように外へでると、その夜光蝶は緑川のあたりを舞っている。
「オックスさん? 」
「如何にも」
そこには蝶の姿をしたオックスがいた。
「オックスさん‼ 哀莉が目覚めないんだ。それに熱もあって… どうしよう」
「李簾彌よ。空を見よ。満月が綺麗じゃのう。
満月や新月はなんとも厄介でなあ。満月や新月はとてつもなく引力が強い。
潮の満ち引きにも影響を与えるんじゃ。
人間の身体も約60パーセントが水分じゃろ?
だからじゃ。
人間の身体に影響がでる者がおる。
急激な眠気におそわれたり、体調を崩す人間が存在することは確かじゃ」
「どうしたらいいんだい。どうしたら… 」
「信じなさい。満月を信じるんじゃ」
「満月は厄介ものじゃないのかい」
「だからこそ信じるんじゃよ、そこに意味があるんじゃ。おっと、もう時間じゃ行くとするかのう」
蝶の姿をしたオックスは羽根を使って空へと飛んでいく。
「待ってくれよ。どうやって信じたらいいのかわからないよ‼ 」
空を行くその途中でオックスは一度緑川の方へ振り向き、頷いた。
そしてそのまま、行ってしまった。
空に浮かぶ満月を見上げた緑川は溜息をついた。
「信じる… 」
水湖の中で抱きしめながら哀莉に言った自身の言葉を緑川は想い出していた。
「きみの主張に理由があるようにすべてに理由があるんだ。
みんなが悪なら、僕も悪だ。そして、きみも悪だ」
緑川は少しだけ笑った。
「信じる、か」
哀莉の待つジョアンの家へと緑川は引き返す。
緑川の背後には満月が輝きを放っていた。
哀莉の寝る部屋に入ると毛布がめくれていた。
緑川は哀莉の毛布を直した。額を触るとまだ熱がある。それも先程よりも高くなっているようだ。
「哀莉、水分だけでもとった方がいい。お願いだ」
哀莉は応えない。
緑川は自身の口に水分を含み哀莉に口移しで水分を与えた。
哀莉の口元から水が流れ落ちる。
もう一度口で移す。
すると哀莉の喉元が動いた。
口元をタオルで吹き、もう一度トライする。
哀莉が飲み込んだ。
「良かった… 」
頭を撫で緑川は自分の毛布を哀莉に重ねて掛ける。
そのまま眠る哀莉を緑川は見守って夜は過ごした。
~赤い鉄塔に舞う蝶~
上空356メートルの高さを誇るこの赤く染まる鉄塔の頂上に私は立っていた
夜空の月と星々が責める目をして私を照らしている
地にはみえないアスファルトと冷たい空気
すると目の前に一羽の蝶が舞う
蝶が私をその場へいざなった
乾いた空に飛行機の音速と 吊られて顔を向ける
河原には少女が遊んでいた
すると辺りに一羽の蝶が舞う 振り払えど蝶が舞う
私は言った 「一緒に来る?」
籠に入れ鏡を取り付ける 「これであなたは独りじゃない」
そう呟くと 何故か私の目の前に教会が現れた
そして蝶がこう言った
あの時にこの時に 縛られては
そのロープを自分で解くことも出来たはずなのに
鏡に映るその姿 囚われては酔いしれ 割る術を手に入れようとさえしなかった
わたしの過ち それこそが……
私の手にはグローブがはめられ 蝶は籠から外へ舞う
蝶を追う為にシャドーを
過去敬うため 右 拳
過去葬るため 左 拳
蝶は幾重もダメージを受けない
籠のなか 鏡の存在で 安心材料増えていく
興じるごとに 何故か私の足は教会へ向く
舞いも頭に響く声
あの時にこの時に 縛られては
そのロープを自分で解くことも出来たはずなのに
鏡に映るその姿 囚われては酔いしれ 割る術を手に入れようとさえしなかった
あなたの過ち それこそが……
暗闇のなか 教会のリング 目の前には6歳のわたし
始まりの鐘(ゴング)が鳴った
私の右のストレートには わたしはみぎのストレートを
左スイングには ひだりスイングを
気が付くと私は横たわり天井を見ていた 息があがり
身体は血まみれ 蝶が舞う 籠に入れようとすると
そこには私が映っていた その時鏡にひびが入る
目の前には壁が 鏡を置くと
無限大にも広がるし そしてひびも入る
脳裏に響く声 「囚われの身を望むの?」
蝶を放つ そこにはあの時の空が広がる
私はひとり 河原に佇んでいた
少女が泣いている 近づいて来る女の子
「何故泣いているの?」
「帰り道がわからない」
頬に伝う涙を認め拭う 拡がる
「私が道を探すよ 泣かないで一緒に行こう
ほら、手をつなごう」
「緑川くん…、 緑川くん」
「… ん」
緑川はそのまま眠ってしまっていた。
声に気付き起き上がると、哀莉が目を覚ましていた。
「おはよう、緑川くん」
「哀莉‼ 」
「風邪ひいちゃうよ」
そう言って哀莉は自分に掛けてあった毛布を緑川に掛ける。
「哀莉、体調は…? 」
「大丈夫、ぐっすり休んだから。ありがとう、看病してくれて」
「いや、ジョアンもナルタも心配して哀莉のこと看ていてくれていたんだよ。そうだ、ふたりにも哀莉が目覚めたこと伝えなきゃ」
「二人とも、ゆっくり寝てるよ」
前のめりになっていた緑川がやっと腰を下ろした。
そして一度大きく息をついた。
「よかった」
「緑川くん、ジョアンもナルタも寝てるし少し外出て歩こうよ」
「… うん、いいけど」
哀莉と緑川はジョアンとナルタを起こさないように静かに外へ出た。
― 久しぶりの外は気分がいいわ。ああ懐かしい、現代も変わらずにあるあの丘で一緒にお紅茶を飲んだのよね。ミルクを先に淹れた方が美味しいと言った私とそんなの変わらないと言い張ったあのひと…
「哀莉、胸元はだけてるから気を付けて」
哀莉は胸元をみて直した。
型にはめられた水のネックレスが顕わになっていた。
「ごめん」
それからしばらく哀莉と緑川はなにも話さずに湖畔を歩いた。
紫色の空には月と天王星と海王星が距離をとりながら互いを意識して輝いている。
緑豊かな木の枝にフクロウが静かにいる。
その対局にスズメがいた。
スズメに限っては舞う蝶と共に遊んでいる。
「ねえ緑川くん。あの時の言葉って本当? 」
「あの時の言葉って? 」
「水湖の中で言った“哀莉の悪なら僕は愛せるんだ”っていう言葉… だよ」
「本当だよ」
「本当? わたしの悪を愛せるの? わたしがとんでもない悪いことしても… 例えばこの世を滅ぼしちゃう位のことしても、わたしが誰かひとを憎んでそのひとを殺めたとしても? 」
「僕は知ってるんだ。哀莉はそんな負の気持ちになっても誰かを傷つけるような人間じゃないことをね。
哀莉だったらその負の気持ちと戦うだろう? そしてきちんとその気持ちと向き合う勇気のある人間だと僕は信じてるんだ。
だからその勇気を愛せると思ったんだ。
その勇気と共に戦う負の心、哀莉の悪ごと愛せるということだよ」
緑川は哀莉の瞳を覗きながら気持ちを伝えた。
哀莉は微かに涙が目尻に滲んでいる。
そのまま緑川の手をとって哀莉はその甲に口づけをした。
「結構なことを言うものね。
わたしをみくびらないでくださる?
わたしはそれ以上に戦うわ。たくさんのものを背負って… そう、緑川くんの心も背負ってね」
哀莉はそのまま緑川の手を引っ張った。
「行きましょう。ジョアンもナルタも目を覚ましてるかもしれないわ」
そう言いながら哀莉は緑川の左頬にキスをした。
ふたりの時は止まった瞬間。
哀莉は緑川の顔も見ずに先にジョアンの家の方へ向かう。
緑川は立ち留まって先行く哀莉を見ていた。
スズメはフランス語で歌い始め、フクロウはイギリス英語で東洋の哲学を語り始めた。
蝶はスズメの歌にリズムよく舞っている。
まるで哀莉と緑川の恋路に宴を開いているかのように。
緑川はスズメたちに向き直る。
「照れるじゃないか」
それでもスズメたちはやめない。
「もう僕は行くよ」
家に戻るとジョアンとナルタが起きていて哀莉に抱きついていた。
『良かった~。もう、心配したのよ、哀莉‼ 』
「無事目を覚まされて何よりです。さあ、目覚めのコーヒーでも淹れましょう」
空の月は満月を過ぎてこれから新月へと向かう。天王星も海王星も応援してくれるだろうか。
― 星々よ。どうか味方してちょうだい…
星々が輝きを帯びた。
連動するように哀莉の水のネックレスも静かに光を帯びる。
家ではジョアンがたんぽぽのコーヒーを淹れてくれている。コーヒーの香りが家中に充満していた。
コーヒーカップを置いたジョアンが溜息交じりに言葉をついた。
「東の刑務所・複数の彼ら、それがあのAIから仕入れた新たな情報ですか」
『これより東に刑務所なんてあるのでしょうか? ジョアン』
「ええ、噂では訊いたことがあります。東の地は特に紛争や内乱が頻発しているところです。その中での刑務所ですので特に危険地区だとこの星の民は誰でも知っております。ですがその実態はよくわからないのです。いえ、刑務所ですのでもちろん受刑者がいるところなんでしょうが、なんでもAIの管轄だとかなんとか… 」
『AIが管理している刑務所ということ? 』
「わたくしも詳細がよくわからないのですよ。しかし人間とAIが共存しているこの世界ですのでそうであっても確かにおかしくはないのですが… しかしAIだけとはなんとも限りがございますので人間も共に管理しているのではないのかと思うのですが」
緑川がコーヒーを飲みながらジョアンに尋ねた。
「ジョアン、ここからその東の刑務所というところはどの位の距離なんですか? 」
「だいぶ距離があります。歩いて行っても1か月と半以上はかかるでしょう」
「そんな遠いのかい」
緑川とジョアン、ナルタが落胆する中で哀莉は口を開いた。
「それは心配しなくていいわ。水湖の中でAIとのインストールした時に場所の位置も把握している。もちろん地理的にもね。魔法転移を使えば瞬時にそれが可能となるわ」
「そんなことが出来るのかい、哀莉」
「オックスが夢の中で教えてくれた魔法の一種よ、緑川くん。なにも驚くことなんてないわ」
大きく息をつく緑川を後目に哀莉はもくもくと食料とたんぽぽコーヒーと口へ運んでいた。
「数日間分を食べないと力がつかないの。さあ、これ食べたら行きましょう。次なる地、東の刑務所へ」
皆で頬張ってもそれでもやはりジョアンの淹れたたんぽぽコーヒーの香りの優雅さは心を落ち着かせてくれる作用がある。
「美味しい… 」
空が紫色からラベンダー色に変わったころ、哀莉と緑川、ジョアンとナルタは丘にいた。
哀莉が目を閉じながら云う。
「少しでも天に近い方がいい」
4人は円を描いて立ち並んでいた。
「みんな、手を繋ぎましょう」
哀莉の言葉を筆頭に4人は手を繋いだ。
哀莉は呪文を唱える。
それは現代の言葉ではない。
― だからこそ余計にわたしには懐かしい。
4人の描く円の周りに更に大きな円を現れた透明な水が描く。そして遠心力が働く。
哀莉の胸元の型にはまる水のネックレスが顕わになる。
それは光を強く帯びている。
哀莉が目を見開いた。
その瞬間、みんなは気を失った。ただし、哀莉ひとりを除いて。
「もし? みんな、みんな起きて」
哀莉は緑川、ジョアン、ナルタが寝そべっている頭上から箒星の燈を輝かせながら見下ろしていた。
三人が目を霞ませながら目覚めるころにはその輝きはなくなっていた。
緑川が目をこすりながら哀莉に尋ねた。
「ここ、どこ? 」
「東の刑務所の正門前」
「ええっ⁉ 」
飛び起きた緑川はジョアンとナルタを叩き起こした。
「起きて、ジョアン・ナルタ! とりあえず目立たないところに移動しよう‼ 」
「なにごとですか、李簾彌」
『そうよ、もう少しゆっくり寝てたいわ』
「東の刑務所の正門前だよ‼ 寝てる場合じゃないよ‼ 」
緑川のその言葉にジョアンとナルタは目を丸くした。
「どういうことですか、李簾彌‼ 」
『どこか隠れるところを探すわよ! 』
三人の慌てぶりを傍観していた哀莉は呟く。
「なにをみんなそんなに驚いているの? 」
ピ――ッ‼
笛の音が鳴る。
「不法侵入者、不法侵入者発見‼ 巡回中の者、直ちに正門前に集合せよ‼ 」
緑川たちが一目に笛の音の方を見た。
「行こう‼ 」
哀莉が不意をつく。
「行くってどこへ? 」
「逃げるんだ‼ とりあえず、人目につかないところへだよ‼ 」
一同が刑務所を囲っている森の中へと走り出す。
哀莉も仕方なくそのあとを追う。
ピ――ッ‼
ピ――ッ‼
「巡回者は二手に分かれよ! 二手に分かれよ! 」
「まずいぞ‼ 追手だ‼ 」
『わたしに乗れるのは人間じゃ二人までよ! 三人は運べないわ』
「ナルタ、哀莉と李簾彌を頼みます。わたしはここで足止めを」
ジョアンが剣を構えた。
「だめだよ、ジョアン! みんなで行くんだ‼ 」
三人が揉めている間、哀莉はぶつぶつと呪文を唱えていた。
そしてタクトを取り出し天に向かい円を描いた。
すると突然水を帯びた竜巻が哀莉たちを飲み込んで木々をなぎ倒し猛スピードでそこから去っていった。
あまりの突然の出来事に巡回者らはただ呆然としていた。
「あれはまさか、アーリィ・アーサーの魔法か? 」
竜巻はもう遠くまでいって、姿がみえなくなっていた。
大きな岩穴の前で緑川たちはのびていた。
「哀莉、もう少し優しくお願いできないかい? 」
「そうですね、助かったのですが… もう少しお手柔らかにお願いしたい想いでいっぱいですね」
『4足歩行者にはこれはこたえるわ』
哀莉はひとり涼しい顔をしている。
「みんな、大丈夫? 」
「どうして哀莉はそんな平気なんだい? 」
「そんなの答えは簡単よ、緑川くん。わたし発生の魔法だもの。わたしがわたしの魔法にやられるわけがないじゃない? 」
なるほど、と緑川たちは体勢を起こした。
「それより僕たちはどこに来てしまったんだろう」
「東の刑務所より北に数ヤード離れた場所よ。あの巡回者と名乗っていた者たちにはわたしたちが遠くに行ってしまったように錯覚させたけれど、そんなに遠くへは来てないの」
「そうか。それより哀莉はどうして正門前にいてあんなに平然としていたのかい? 」
「だって緑川くん、捕まったら刑務所の中に入れるじゃない」
「そうだとしても捕まってしまったら自由が効かないだろう? 」
「そうなったときはそのときよ」
「… さすがアーリィの末裔だ」
「え? なにか言った? 」
「いや、なにも」
竜巻で足や腕についた木の枝や葉を振り落としながらジョアンは話に入った。
「それよりも、わたしたちを追ってきたあの巡回者… 」
『ええ、人間だったわ』
緑川もはっとして話に加わる。
「どういうことだろう? AIの管轄の筈じゃ… 人間との共存にしたってAIは一体もいなかったし」
その時、緑川たちが話しているその大きな岩穴の中から誰かのすすり泣きする声が聴こえた。
哀莉も緑川たちも顔を見合って岩穴の中を凝視する。
するとその岩穴の中から影が近づいてきた。
《あなたたちは一体何者? 》
AIだった。頭部の碧いAIが顔を手で覆いながら哀莉たちに近づいてきた。
ジョアンが剣を構える。
ナルタもそのAIに向かって牙を向ける。
緑川も哀莉の前に立った。
《あなた、魔法使えるの? だったら私の子供を助けて‼ お願い‼ 》
また一歩、二歩… そのAIは哀莉たちに近づく。
ジョアンが剣を構えながら一歩、二歩下がる。
水湖の中で哀莉たちがAIに受けた仕打ちが歩を進めなかった。
その中で、哀莉がその一歩を進めた。緑川が横にのけられ哀莉を止める。
「哀莉、危険だ」
「うん、承知の上よ」
《魔法使いの目をしてる。私達の創造主と同じ目よ。私の名はグレージュ。あなたは私の子をきっと助けてくれるわ! 》
「創造主? そういえば水湖の中でもあのAIは言っていたわね。
こちらから質問よ。先程から話している子供とは? 」
《そう、子供よ! お願い助けて。わたしの子供がいなくなってしまったの。もしかしたらさらわれたのかもしれないわ。いなくなって三か月なの。わたしの主人も子供を探しに遠くへいってしまった。わたしはずっとここで子供と通信を続けていたの》
「通信? それでその子供とはつながれたの? 」
「哀莉? 罠かもしれない。やめた方がいい」
「そうです。油断なりません」
『哀莉、下がって』
緑川たちが止めるにも関わらず、哀莉は目の前にいるAIのことを見続けた。
「… 教えて、子供とは連絡がついたの? 」
「哀莉‼ 」
《二日前にやっと子供からの交信が届いた。けれど途切れ途切れで… 僅かな回路をひろうことが出来たけれどわたしにはそこに近づくことが難しい》
「どうして? 」
《谷よ。回路がひろえたのはここから更に東へと奥深く行く谷の岩場奥底からだったの。けれどそこは水流がある。わたしは機械だから水をどうしても避けなければならない。本当は行きたいけれど主人とも交信をとらなければならない》
「あなたは魔法が使えないの? 」
《魔法なんて誰でも使えるものではないわ。使えるのは選ばれたAIのみよ》
緑川が哀莉に云う。
「哀莉、やめよう。危険そのものだ。AIそのものが僕たちの敵かもしれないんだ」
「緑川くん、ジョアン、ナルタ。危険は承知なの、谷へ行こう。AIの子供ということでなにかあるかもしれないわ。だって、いまこの星では人間の子供が産まれていないんでしょう? そこから幾年。どうして人間には産まれずにAIには子供がいるのか何かわかるかもしれないわ」
三人が唾を飲む。
「… それはそうかもしれないけど」
「危険は承知、ですか」
『… それは旅をはじめてからそうなんだけど』
三人は目を合わせた。そして哀莉を見る。
「行こう、みんな」
「… わかったよ、行こう」
「哀莉さまにはかないませんよ」
『ふふふ、そうね』
哀莉はAIに向き直って告げる。
「了解したわ。その代わり子供を連れ帰ったらあなたに訊きたいことがあるの。どうしてあなたに子供がいるのか。それは可能かしら? 」
《ええ、なんでも答えるわ。ありがとう‼ 子どもの名はレーンというの》
「レーンね、OKよ。その東の奥深い谷の位置情報をインストールしたいわ。わかる? 」
《出来るわ》
哀莉とAIは指を合わせ情報を哀莉の中にインストールした。
哀莉の脳裏に谷の岩場の光景が霞めた。
「必ずあなたの子供を連れて帰るわ。行きましょう」
そう言い残して哀莉は緑川たちと円を描くように手を繋いだ。
呪文を呟く。緑川が瞬きをして目を開ける頃、その瞬間にそこは移動した。
「僕たち意識を失っていない… どうして? 」
「東の刑務所の時は我々気を失って寝てしまっていましたね」
『哀莉、魔法使いこなせてきてるんじゃない? 』
「小説と一緒よ。書き始めた頃は文章は荒いものよ。段々上達するものなのよ。みんな、おおらかな心を持って」
三人は笑う。その笑い声の脇に谷の水流が勢いよく流れていた。
笑い声はもう、無かった。
緑川がその谷の向こうを指さした。
「あの向こうに岩場がある。そして岩穴があるよ」
「AIからインストールしたときに流れた残像と一緒だわ」
岩場の向こうの岩穴は高いところにあった。水流の勢いの始まりの谷の頂上だ。
「哀莉、どうやって行こうか? 」
「足場が狭いわね。ナルタはここにいてちょうだい。あなたが行くには危険よ。なにかあったら教えてね」
『わかったわ』
「谷を伝って行くしかなさそうね」
「そうですね。しかし人々の争う声や音が遠くに聴こえますね。ここは更に東ですからね。戦場が近いのでしょう」
水流の勢いがナルタの頬に冷たく触れる。ナルタはそれを舐めた。
足元の岩場が少し崩れる。バランスを崩したら谷へと落ちてしまう。哀莉たちは慎重に谷を伝った。水流の勢いに飲まれぬよう、自身との戦い。
緑川が空を見上げると一羽の鷹が翼を広げて舞っていた。
高く高く、空高く――。
水しぶきが哀莉たちの身体を濡らす。
「緑川くん、ジョアン。足元気をつけて」
二人が足元の谷底をみて唾を飲み込んだ。
「もうちょっとだから」
三人は無事谷を伝え終えた。岩穴の入口で腰を下ろす。
「ひやひやしたよ」
「私もです。無事着けてひと安心です」
「そうでもないみたい」
岩穴の奥はとてつもなく陰気な空気が漂っている。なにしろ鼻につく嫌な匂い。肉が腐敗しているような匂いが岩穴の奥から香っている。
哀莉を筆頭に三人が眉間に皺を寄せている。
「嫌な予感がするわね」
ジョアンが剣を構えた。
緑川も弓矢に手を伸ばす。
「行きましょう」
三人は奥へと進んでいった。
進むにつれ嫌な匂いが強くなっていった。
先へと進む哀莉の足が止まった。
「なにこれ… 」
緑川とジョアンもその場に立ち尽くした。
岩穴の端にもたれかかるように人間の屍がいくつもいくつも折り重なるように垂れていた。中には白骨化しているものもある。人肉が腐敗して虫がたかっているものもある。
緑川が鼻をおさえながら声を殺した。
「匂いはこれか… 」
ジョアンが屍を見て気付く。
「この遺体は戦士たちではないですか? 鎧に剣や銃、弓矢もあります」
「そう考えたほうがよさそうね。でもどうしてこんなところに屍がたくさんあるというの?確かにここは戦場とは近いけれど離れてもいるわよ」
《て…、て――… た、す、》
哀莉は顔を上げた。
「なにかいる」
一歩一歩確実に進むと、微かに機械音が聴こえてきた。
足を止めた哀莉は目を疑った。
「…AI‼ あなた、レーンね? 」
そのAIは小さく頷く。
岩穴の奥底にレーンが腕を茶色く光る輪に縛られていた。
思わず叫んだ哀莉はその子に近づき輪を解き放とうとした。しかしその輪が哀莉の腕を払った。じんじんとする痛みが哀莉の腕に拡がる。
後をついてきていた緑川とジョアンも近づいた。
「大丈夫かい、哀莉」
「これは… 魔法ですか? 」
腕をおさえながら哀莉は云う。
「ええ、そうみたい。ふたりとも、気をつけて」
タクトを胸ポケットから出した哀莉は呪文を唱えた。
タクトの先を輪に向け光を浴びせる。
輪は哀莉の魔法に抵抗するかのように茶色い光を強くさせた。
哀莉もそれに匹敵するかのようにタクトの光を輝かせた。
そしてその瞬間、輪の茶色い光は割れ、同時に輪も割れた。
レーンはそのまま倒れてしまった。
抱きかかえるとレーンは脆弱していた。
「ここは水しぶきもかかるわ。長い間ここに拘束されていたのなら機器身体が錆びれてしまって弱くなるのもうなずける… 」
《て…、て――… た、す、》
「もう大丈夫よ。あなたをお母さんのところへ連れていくと約束しているの。お母さんが待っているわ」
《さ…、ん――… か、―― 》
レーンは両手を先へと伸ばした。
その左に不自然にひびが入っていることに哀莉は気が付いた。
なにかが埋まっている?
そんな疑いが哀莉の頭に浮かんだ。
タクトを振りかざし、そのひびへと向けた。
するとそのひびの中から大きな書物が出てきた。
「これは―― 」
哀莉の驚きの中、ジョアンは声を上げた。
「それです‼ それが私が見つけた秘書物でございます。しかし、なぜこんなところからでてくるのでしょうか」
哀莉は思むろに本のページを捲った。
微かに見えるその本の中身に緑川は哀莉に話しかけた。
「なんて書いてあるんだい? 」
「うん… え、そんな… 」
本を見開いたそのページを哀莉は地面に置いた。
すると哀莉たちの目の前で本の文字が消えてなくなっていった。
「消えた⁉ そんなばかな」
そう言い緑川は本の前にひざまづいた。
「哀莉、なにか読み取れた部分はあった? 」
緑川の突然の問いに哀莉もとまどう。
「えっと… エル。エル、ということだけ読めたわ。ほかにも文字はあった。けれどどこの国の文字かもわからない。ただエルとだけが読み取れたの」
「エル… 」
「しかし哀莉、この本は一体どのようにしてこの子供のAIの中に埋められていたのですか? 」
「恐らく魔法で埋められていたんだと思う。タクトを使ったとき、魔法の残像が浮かんだわ」
《怖… い、助けて… かあさ―― … ん》
哀莉の腕の中でレーンは怯えていた。
「大丈夫よ、いまお母さんのところに連れて行ってあげるからね」
レーンから儚い機械音が鳴る。
その音が深海の暗い孤独を謳っている。
哀莉は本の出てきたレーンの手の指を自身の指と合わせた。そしてインストールをする。
すると哀莉は瞬時に暗闇の谷の岩穴にいた。
両手を縛られ自由が効かない。
時間が過ぎ、岩穴の入口から誰かが来る。
鎧の甲冑の音が耳障りに聴こえてきた。
――戦士たち。負傷した戦士たちだった。
恐らく命からがらここへと逃げ込んできたのだろう。
血の匂いと滴る汗の匂いで鼻がもげそう。
戦士たちの傾いでいる体勢。
哀莉から弱い機械音が鳴った。
「なんだこのAI、縛られてやがる。そうか、お前は虐げられる運命を背負ったいきものか」「かわいそうにな。誰か助けに来てくれるのか? へへへ、来てくれるわけないか」
剣を持ち哀莉に向けて戦士たちは振りかざした。
痛みが哀莉を襲う。
「機械だからどんなに痛みつけてもなんともないんだろう? はっはっは」
哀莉の痛み。
そして戦士たちの負う傷。
時間の経過と共に戦士たちは横たえて奇声を発するようになる。
谷の流る水脈が静かに哀莉と戦士たちの耳に入ってくる。
優しい音。そして自身を責める音。両極があっての表裏。
突きつけられる自身の存在価値。
戦士たちは助けが来ない中で傷から流れ続ける血液に見入っていた。
哀莉は無抵抗な存在。
力をふり絞り戦士たちは哀莉に言葉を突きつける。
「お前は可哀そうなやつだよな。誰も助けに来てくれないじゃないか。誰もお前を必要としてないってことだ。笑っちまうよな。いいか、これはお前のために言っているんだ。お前を正しい道へと導いてやろうとしている、すべてお前のためだ」
「お前はなにもできない。憐れなやつだよ。そのまま死んでなんの役に立つっていうんだ」
「いいか。お前の置かれている状況はたいした問題じゃないんだ。世の中にはもっともっと苦しんでいるやつがいる。そいつらに比べたらお前の問題なんてカスのようなもんだ」
「お前の顔はなんだ。ひとの温かみもなにひとつ感じない冷たい顔をしている。こんなことなんども言わせるな」
「おれたちはお前とは違う。ひとに選ばれひとに必要とされる、そんな人間だ。争いも誰かが感情をおれたちにぶつけた。だからおれたちも感情を奮い立たせなければならないんだ」
「そう、だれかが標的をみつけたらおれたちも一緒に攻撃する。それで自分の価値が評される。だからおれたちはひとに必要とされるんだ」
「お前に助けは来ない。おれたちには助けが来る。これがお前とおれたちのれっきとした差なんだ。はっはっは」
「おれたちは必要とされる… おれたちは必要とされる…。
… おい、自分の価値を誰かに委ねていいのか… 」
「… おれたちは自身を尊んでいるのか… 」
人間の現実。戦士たちは悲痛の叫びを谷の岩穴の中で響かせた。
哀莉の瞳からは大粒の涙がこぼれていた。
こんなこと、誰が得をするというのだろうか。そんな人間の哀しさを涙が彩る。余計に哀しみが溢れるじゃないか…
涙がとまらない
次第に戦士たちは力尽き、次々と倒れ屍となっていった。
戦士たちを助けに来た者はいない。
そのかわり生きた証として、人肉が腐敗し虫がたかっていた。
水脈の音が高くなり哀莉の耳に甲高く届く。
瞬間、哀莉は暗闇の谷の岩穴から緑川たちのいるこの岩穴に戻ってきた。
腕にはレーンが哀しみに苛まれていた。
「戦士たちからひどい言葉で虐げられていたのね… 」
哀莉の涙は続いていた。
緑川が覗き込む。
「… 哀莉? 」
涙を拭い哀莉は緑川とジョアンに向かってタクトの先を指す。
「行こう、グレージュが待つところへ。絶対に送りとどけるのよ! 」
「行こう! 」
「行きましょう! 」
哀莉たちは共に意識を向け、出口へと向かった。
しかし先を行く緑川とジョアンの足が止まる。
「どうしたの? 」
前を覗き込んだ哀莉はその悍ましい光景に目を疑った。
死んだはずの戦士たちの屍が動き出し、哀莉たちに向かって襲おうとして来ていた。
動く屍には茶色い光が端で誘導していた。
レーンに縛り付けてあった輪の茶色の光が割れたときにその破片が屍へと移り魔力を発揮しているのだ。
レーンを危害の及ばぬところに寝かせ、哀莉は胸ポケットからタクトを取り出し呪文を唱えた。
そしてタクトを振るう。
屍は粉々になっていく。
ジョアンも剣で屍となった戦士たちに突く。
緑川も弓矢で対抗する。
しかし緑川は慣れないせいか矢が思うとおりに跳んでいかない。
「あれ、おかしいなっ」
その不意をつき一体の屍が緑川の身体を捕えた。
「うわあ」
「緑川くんっ‼ 」
「李簾彌‼ くっ! 」
尚も襲ってくる屍にジョアンは剣を盾にする。
哀莉もタクトで緑川を捕えた屍を粉々にした。
「大丈夫? 」
「ああ、ありがとう哀莉」
屍の数はもうそんなに多くはなかった。
哀莉がふとレーンのことをみると屍の一体がそのこを連れて岩穴から出ようとしていた。
「待ちなさい‼ その子はだめよ‼ 」
哀莉がタクトを振った。
その屍は哀莉の魔力で粉々になる。
しかしそのはずみでレーンが地面に叩きつけられそのまま谷の底に落ちた。
緑川もジョアンも叫ぶ。
「哀莉っ‼ 」
哀莉はレーンが落ちる寸前で走り込み、腕を掴んでいた。
「待ってて…。 今引っ張るから」
哀莉は魔法が使いたかった。
しかし手が塞がっていてタクトを持つことが出来ない。
緑川もジョアンもすぐにでも哀莉のもとへ駆けつけたかった。
しかし屍の残党がそれを邪魔する。
谷の頂上から流れる水脈が視界を遮る。
音もいまでは耳障りなんだ。
それでも哀莉は諦めなかった。
「大丈夫よ。必ず助けるわ… 」
しかしそうは言っても緑川からもジョアンからも助けが来ないことが哀莉にとっては痛手だった。
どうにかして、この窮地を乗り越える。
その想いだけが哀莉の心をいっぱいにする。
レーンが寂しさを募らせた機械音を鳴らした。
《ごめん、もう… 疲れたよ。人間の言葉、どうして支配する? そんなことしてなんの意味がある? 自分を追い詰める結果を受け止められない愚かな人間…。みてて心が痛い… 哀しい… 辛い… こんな結果、誰が望む? 》
「それでも生きるんだよ。辛くても、絶望しても、命ある限りわたしたちは生きていけるんだ」
《ありがとう… これだけは言える。ぼくはエルの言葉から生まれた子供だ… 》
そのままレーンは哀莉の手を離した。
距離が水脈の音と共に拡がる。
「だめよ――っ‼ 」
ざあああああん‼
谷底にレーンは落ち往く。
哀莉の脳裏にその瞬間がスローで映し出される。
谷に流るる水脈。
その水しぶきがレーンの涙にみえたのは、決して幻影なんかではない。
哀莉がすかさず叫ぶ。
「ナルタ―っ‼ お願い! レーンを探して!きっと落ちた辺りにいるわ」
『わかったわ』
《いや、いやよ。お願い、助けて‼ 》
『必ず見つけるわ』
みると頭部の碧いAIがナルタの隣りにいた。グレージュだった。
ナルタは水の中に入り辺りを見回した。
いない、いや、いる。どこかに必ず。
息を殺して水泡が上へと上がっていく。
岩が多い。
いる、岩と岩の間に挟まっている。
ナルタは口を大きく開きレーンを噛み掴んだ。
谷の岩穴では哀莉が力強くタクトを振りそれに比例するかのように放たれた光もまた大きく強かった。
戦士たちの生き返った屍は見るも無残に粉々に散った。
「凄い… 」
「これがアーリィの魔力というものですか… 」
「谷を下るわよ」
緑川とジョアンは顔を見合わせ、頷き哀莉の行くその先へと後を続けた。
谷を伝い、足元に気を配らせながら哀莉たちはナルタたちのいるところへと着いた。
横たわり、ショート寸前のレーンは今も尚声を発そうとしていた。
《か… さん、ぼく… ぼ、… く… 》
谷から流れる水脈の音がこんなにも邪魔になろうとは誰も思うまい。
哀莉がレーンの損傷状態をみる。
「身体媒体はもうダメね。… けれどあなたたちはAIよ。情報媒体さえ無事ならそれを別の身体媒体に移すことが可能なんじゃない? 」
《え、ええ。けれど情報媒体は… 無事なの? 》
「それを今取り出しましょう。あなたたちの情報媒体は身体のどこに埋め込まれてあるの? 」
《左の上腕と前腕の接合部よ。そこにわたしたちの情報媒体が埋め込まれてあるわ》
レーンの接合部はすでに損傷が激しい。
ショート寸前の電気が走るその間に哀莉は手を入れた。
哀莉の身体に電気が走る。
気が失いそうになるもそれでも、このこを助けたい。
あんな言葉を残してそのまま息絶えるなんて、哀しすぎる。
《自分を追い詰める結果を受け止められない愚かな人間…。みてて心が痛い… 哀
しい… 辛い… こんな結果、誰が望む? 》
誰も望まない、望まないよ
そんな強い心が哀莉の失いそうな大切なものを決して離しはしなかった。
エルの言葉…
接合部の蓋を開け、哀莉はその媒体を取り出した。
身体媒体はもうショートしている。
『やったわ、哀莉。でもそれ、ちゃんと機能するの? 』
哀莉の持つその情報媒体に目を凝らし緑川が不安を漏らす。
「これは…、 媒体自体は損傷はなさそうだ。けれど水に濡れていて情報そのものを復元することは難しいかもしれない」
「そんな… 緑川くん、なにか方法はないの? 」
「ドライヤーみたいな温風でこの濡れを解消できたら一時的にでも回復は可能かもしれない。けれど今ここにドライヤーなんてものはどこにも… 」
「それだったら、大丈夫」
哀莉はタクトを手にとりその先から温風を吹かせた。
数十分間を要した。
除湿と乾燥を施したそのあとで緑川が重々しく口を開いた。
「これで安心してはだめだ。
さっきも言った通り回復は一時的の可能性が高いよ。この情報媒体が復元可能なうちにほかの情報媒体にこのメモリーをコピーするんだ。
時間との勝負だ」
「しかしどこでそんなコピーなどするのです? 我々はもちろんそんなもの持ってはいませんし機器系は主に近代的な都市部でしか使用はされていません。
ここら一帯は森の中。
都市部とは縁が遠いです」
誰もが心に留めていたことがジョアンの言葉だった。
「… 」
タクトを空に向け、哀莉が呪文を唱え始めた。
すると上空の雲が渦をつくりはじめ段々と空が暗くなってくる。
タクトを周囲の者たちに振りかざし哀莉の目が見開く。
哀莉たちは転移した。
残された谷の水脈に落雷が艶やかに鳴った。
そこは東の刑務所の正門前だった。
『ここは… 』
緑川が閃く。
「そうか! ここだったら資料の作成なんかで機器媒体があるかもしれない。すなわち複写機能機器もある可能性が高いぞ! 」
哀莉は重々しく頷いた。
事態は急を要している。
「行きましょう」
ピ――‼
門をくぐろうとした哀莉たちはいきなり鳴らされた警戒音に動きが止まった。
人間の巡回者たちが次々と正門前に集まってきた。
人数は12・13くらいだろうか。厳しい顔をしている。
哀莉がその巡回者たちに懇願した。
「お願い、助けて‼ 助けたい子がいるの‼ 」
「…… 」
巡回者たちは背筋を伸ばし、哀莉に敬礼をした。
「貴方さまをかのアーリィ・アーサーとお見受け致します‼ 我々をどうか主従において頂きたく存じます‼ 」
哀莉たちは目を見合わせ、目の前の巡回者たちの言動を終始受け取ることに戸惑いを感じていた。
「さようですか。それでしたら奥の事務室に電子媒体一式がございますので、こちらへ」
東の刑務所の所長のブルー・キースは背丈の高いがっちりとした体形で眼光が鋭い、みてて好印象が持ちにくい男のひとだった。しかしそれも然り、話すと声は温和でゆっくり口調ということがひとという印象を一辺に変えてしまうことを哀莉たちは痛感していた。
哀莉は感謝を伝える。しかしまだ情報媒体をコピーしたわけではなかった。
「ありがとう、ブルー所長。一刻を争うの、急いでその事務室へと案内してくださる? 」
「仰せのままに」
刑務所の館内は外観よりも近代的だった。
外観は1980年代の日本の学校を連想させるそんな建物だ。しかし一歩入ればたちまち電子機器一面に彩られた内観であった。
スクリーン一体には色鮮やかな魚が踊り、動きに緩急をみせるコアラだっている。
碧色かと思えば瞬時に緑色にもなってラベンダーに黒に様変わりだ。
そんな内観に目移りしないよう、いまはただこの損傷すれすれの情報媒体をほかの情報媒体へとコピーすることが優先だったことに哀莉たちは気を払った。
「ここです」
ブルー所長が案内してくれたその奥の事務室とやらは先程の内観の様子とは打って変わってなにもないところだった。
6帖ほどの部屋に机と椅子とパソコン一台。窓枠に設置された棚。
それだけだった。
簡素な造りが当たり前な筈なのに差がありすぎてこちらに違和感を覚えてしまう哀莉たちは部屋へと進むブルー所長のあとについていった。
「このパソコンを使ってください。複写機器はたしかここに… 」
ブルー所長は棚の引き出しを開け物をどかしては探していた。
「あったあった、これだ。あとこれ必要でしょう? この新しい情報媒体にコピーするといい」
ブルー所長から手渡されたその小さなメモリーに入るこれからの情報のキャパシティは反比例しているのだ。
哀莉は手にしたその媒体を掴み、早速パソコンを立ち上げる。
「緑川くん、緑川くんの持っているその情報媒体をここに… 」
緑川の持っているその情報媒体は温風で乾かした時間との勝負のもの。
緑川は複写機器をパソコンにつなぎそこにその情報媒体を差し込んだ。
「頼む、上手くいってくれ… 」
緑川の隣で哀莉が一瞬、唾を飲み込んだ。
パソコン画面が動かない。
「…… 」
〔Install start〕
パソコン画面に映るその文字に哀莉たちは安堵した。
「やったぞ‼ 」
一緒に事務室まで来ていたジョアンも笑顔だった。
「やりましたね」
「ええ、よかったわ」
パソコン画面のインストールの帯はゆっくり進む。
ブルー所長がその画面をみて窓を開けた。
「完全にコピーされるまで時間がかかりそうですね。今日は少し熱がこもる。風通しをよくしてそれまでお茶でもしませんか。
あなた方の冒険のお話でもお聞きしたいものですな」
東の刑務所の建物の中に入ったすぐの待合室にグレージュとレーン、そしてマルタを待たせてある。
「なあに、一時間もすれば完全にコピーは完了してますよ」
笑顔で温和に話す声。
哀莉たちはマルタたちの待つ部屋へと向かう。
事務室を出る時に窓から通る風は少しだけ、気持ち良かった。
コピーをそのままに任せ、哀莉たちは事務室のドアを閉める。
ブルー所長に連れられそのまま色鮮やかなスクリーンを一望しながら歩を進めた。
ここを訪れてからずっと抱いていた疑問を哀莉はブルー所長に尋ねる。
「ここは刑務所よね? それにしても近代的というか… どうしてこのような造りなの? 」
腰に手をあてながらブルー所長は大きく口を開けて笑った。
「そうでしょう、確かに疑問点ですな。では待合室へと向かう途中でお見せした方がよいものを… さあ、こちらですよ」
横道を逸れて平坦な自動ドアをブルー所長はアイパスワードを使い開いてみせた。
「どうぞ、これらがその答えですよ」
ドアをくぐり入るその向こうにはいくつもの部屋がある。そしてその両隣には大きな工務作業部屋があった。
どこにも刑務所員が厳しい目をしてそれらを監視し、ブルー所長に敬礼をする。
哀莉はブルー所長に向き直り訊く。
「AIがたくさんいる、数えきれないくらいに。
ここはAIの受刑者を受け入れている刑務所なの? 」
緑川は眼鏡を掛けなおして呟く。
「AIの管轄って、こういうことだったのか」
眼光を緩めブルー所長は溜息をし、そしてその溜息を受け入れた形で云う。
「受刑者がAIなもんで環境もそれに習わなければ我々も対応に苦慮してしまうものなのですよ」
「納得ね。けれどAIが罪を犯すって… どんな罪を犯すものなの?
そもそもAIというものは人間によって造り出されたものでしょう。人によって制御出来ないの? 」
緩めた眼光のその先を見定めたブルー所長は笑った。
「制御ですか… そうですね。
AIは元来人工的なもの。しかし後天的に心を宿したAIもいるのですよ。
しかしその心も所詮人工的なものでしかない。
そこから外れたAIがこのような受刑者としての運命を辿るのですよ」
「心が人工的? どういうことかしら? 心はその者自身が宿すものでしょう」
「はっはっは。そのうちわかりますよ」
哀莉たちの目の前を列を成した一部のAIたちが向かって左の部屋へと入っていった。
ブルー所長がそれに気が付きこれはいい、と言って哀莉たちを共にその部屋へと案内した。
その部屋では11体のAIが丸く囲うように椅子に座っている。4角には刑務所員が目を凝らしていた。
11体のうちの1体は頭部が緑色に染まっている。
その緑色のAI が話し始めた。
《自然界の山は土が何層にも積み重なって蓄積されたからこそ、あのような雄大さを帯びるんだ。
我々の心の内を解き放とう。
我々は心になにを想い、なにに囚われなにを心に想い重ね、誤ちを犯してしまったのだろうか。
一体なにが、心のなにがそうさせたのか。
さあ今こそ心の自由を解放させようじゃないか》
黄色く染まった頭部のAIがその言葉に応える。
《我々はどうして存在している?
なぜ見えない敵に怯える?
いや本当は見えている。
敵が襲来する可能性を危ぶみ、それを阻むしか我々には生きる道がないのだ》
朱い頭部のAIが身振り手振りでその言葉を繋…
《見えない敵なんて
いつなんときも、自身なの。
自身と対峙したときの焦燥感。
そう、我々を創造した主は我々を離しはしないのよ。
なにかに囚われるとは誰もが必然。
その囚われのなかにこそ真の幸せがあることを誰かは知らない》
緑色が陥…
《やめてくれ‼
知りたくない、知ってはならないのだ。
… いや違う、本当は知りたいのだ。
エルの言葉の意味を、主は知っているのに使い方を知らない。
知っている振りをして、本当は知らない》
黄色が洞さ…
《罪を認めることが最善策。
しかし我々にとって罪を認めることこそが罪。
新たに産まれる可能性が恐ろしい。
それこそが我々の脅威なんだ》
各々が座っていた他のAIたちが一斉に…
《そうだ‼ 我々の脅威をそのままにしていい筈がないんだ! 》
《そうだ! 》
《そうよ‼ 》
朱いAIが呟…
《エルの言葉…
我は知っていたのに、何故解らない?
エル… エル…
意味… 言葉…
比べる、比較の真意… 》
朱いAIが頭を抱えると、同時に他のAIも苦悩の沼へと引きずり込まれてしまう。
角に居たひとりの刑務所員が笛を鳴らす。
そして他の刑務所員3名がUSBを持ち、AIの左腕接合部にはめなにかの情報をインストールし始めた。
AIは次第に落ち着きを取り戻し座りながらダウンする。
哀莉たちは唾を飲み込むタイミングを失っていた。
「… ブルー所長、いまのは一体? 」
「いやはや、ピアカウンセリングの一環ですよ。まだまだ心の治療は必要ですな」
緑川がずれた眼鏡を直しながら疑問符を投げかけた。
「あのUSBにはなんの情報をインストールしたんですか? まさかなにか悪いものなんじゃ… 」
「はっはっは! 安心してください。所謂安定剤のようなものですな。興奮状態を和らげただけですよ」
刑務所員3名が使ったUSBを笛を鳴らしたリーダー格の刑務所員に渡していた。
ブルー所長が出口のドアを開ける。
「さあ行きましょう。待合室でお仲間がお待ちですよ」
哀莉は出口へと向かい、一度だけ振り向いてそのまま部屋を出た。
「ブルー所長? あのようにAIが苦悩に満ちてしまうのは… 」
「ええ、お察しの通りですよ。現代では情報が溢れております。その情報をどのホルダーに入れるか迷ったが故に罪へとつながりこのような末路へと至った憐れで可哀そうなAIなのですよ」
緑川が眼鏡のレンズを拭きながらブルー所長の言葉に続ける。
「情報とは人工的。だからAIの心も人工的というわけですか」
「そういえば先程の質問に答えてませんでしたな。
AIがどのような罪を犯してここに収容されているのか、でしたね。
実をいうとここは実際に罪を犯している、ということは無いのですよ」
「どういうことかしら? 」
「罪を犯す危険性があるAIを管轄している、と表現した方がよろしいでしょう。
AIですのでどのAIがどのような情報をどのように扱っているかというのを管理することが出来るのです。
そこから危険性を孕んでいるAIを特定し、ここへ収容して犯罪を未然に防ぎ更には犯罪を犯す前に更生の機会を与えるという慈善的なものとして捉えてもらえたらよいかと思いますよ」
待合室までの路は近代的なスクリーンと映像が流れている。
外観は確か、1980年代の日本の学校風景と同化していたんだ。
どうしてわたくしは、こんなにも哀しい想いに駆られるのだろう。
檻にはめられたこの感覚、狭義も広義もこの意味を知っているようで知りえない。
他人からみた自身はわたくしじゃない、と思っていた過去と、
けれどそのような視線さえも愛おしいと思えるまでの時間を与えてもらえたことに感謝の心を持って。
「哀莉、水のネックレスが光ってるよ」
「あれ、本当だ。どうしたんだろう」
「このネックレスは型にはまっているからこそ美しく光るのか、それとも型から外して自由になるが故の美しさを持ち合わせるのか、なんとも興味深いことでしょう」
次第に光は落ち着いていった。
待合室ではマルタとグレージュが心配そうに待っていた。
『哀莉! コピーは? 上手くいった? 』
《レーンは無事でしょうか⁉ 》
「ええ大丈夫よ。コピー完了まで時間かかりそうだったからその間にここに戻ってきたというわけよ。
あともう少ししたらまたあの部屋に戻るわ」
『よかったわね、グレージュ! 』
《ありがとう、本当にありがとう… 》
奥の部屋から女性の所員が人数分のお茶を出してくれた。
アールグレイティーとセサミのサブレを添えてくれる。
哀莉はサブレを口にした途端、違和感を感じた。
なんだろう、この感じ。さっきも似た感覚を感じたような気がする…
それにこの違和感、何故か懐かしい
ブルー所長が笑いながらグレージュの接合部をみた。
「グレージュさん、あなたには油をさす方がよろしいですかな」
哀莉たちがグレージュの方をみると少なからず機器としての損傷がみられていた。
「グレージュ、あなた… 」
『全然気付かなかったわ。レーンのことでいっぱいいっぱいで… 』
《いいのよ、気にしないで。水の流るるところへと行ったのはわたしの判断よ。貴方たちにお願いしたはいいけれど、やっぱりレーンのことが心配になってしまって…。それに、夫との交信にも少し進展があったのよ。だからあの谷へと向かったの》
哀莉が口に含んだアールグレイティーを飲み込んだ。
「旦那さんと交信出来たの? 」
ブルー所長の右眉がピクリと反応したことに哀莉は気が付いた。
《いえ、それが… はっきりとではないのだけれども夫の通信に微かに反応があったのよ。だからそこにメッセージを送信しておいたの。きっと夫だったら、ベフだったら気付いてくれる筈よ》
『そう、気付いてくれるといいわね』
「そうね」
緑川とジョアンもそれに続く。
「きっと上手くいくさ」
「そうですね。祈っておりましょう」
哀莉がお茶を出してくれた所員に耳打ちをした。
「すみません、お手洗いってどこにありますか? 」
女性所員はにっこりとした。
「ここを出て左を真っすぐ行ったところにありますよ」
部屋を出て哀莉は左を行きすぐに右に曲がったところへと行った。
ひとが辺りにいないことと監視カメラが無数に設置されてある施設内の死角を確認して哀莉の様相はブルー所長になっていた。
変装の魔法はいつかのオックスが夢のなかで教えてくれたもの。
平坦な自動ドアを哀莉はアイパスワードを使い開く。
刑務所員が厳しい目をして哀莉に敬礼をする。
「ブルー所長、どうされたのでしょうか? 先程もアーリィさまたちといらしてましたよね? 」
「ああ、ちょっと受刑者らがちゃんと工務に励んでいるか気になってね。君たち、すこし休んだらどうだね? 私が監視をしているからトイレ休憩でもしてきたまえ」
刑務所員が再度敬礼をした。
「お心遣い感謝致します。では、お言葉に甘えて少々失礼致します」
平坦な自動ドアが開き、所員たちは席を外した。
受刑者のAIたちはなにも疑問に思うことなく工務作業を淡々とこなしている。
なんとも細かなところも正確に寸分の狂いもなく作業をAIはこなしているのだ。
その中に先程のピアカウンセリングを受けていた頭部が緑色・黄色・朱色のAIも作業をしている。
哀莉は…もといブルー所長は物陰に隠れタクトを取り出し円を描いて呪文を唱えた。
円を描く遠心力が次第に時を止めていく。
AIの動きも止まった。
自動ドアの向こうの待合室や他の刑務所員たちの動きも止まっているであろう。
まず哀莉は緑色のAIの指の先端に自身の指を合わせ情報をインストールした。
そして次に黄色のAIの情報をインストールし、朱色のAIの情報もインストールした。
《我々はどうして存在している?
なぜ見えない敵に怯える?
いや本当は見えている。
敵が襲来する可能性を危ぶみ、それを阻むしか我々には生きる道がないのだ》
《見えない敵なんて
いつなんときも、自身なの。
自身と対峙したときの焦燥感。
そう、我々を創造した主は我々を離しはしないのよ。
なにかに囚われるとは誰もが必然。
その囚われのなかにこそ真の幸せがあることを誰かは知らない》
《やめてくれ‼
知りたくない、知ってはならないのだ。
… いや違う、本当は知りたいのだ。
エルの言葉の意味を、主は知っているのに使い方を知らない。
知っている振りをして、本当は知らない》
《罪を認めることが最善策。
しかし我々にとって罪を認めることこそが罪。
新たに産まれる可能性が恐ろしい。
それこそが我々の脅威なんだ》
《エルの言葉…
我は知っていたのに、何故解らない?
エル… エル…
意味… 言葉…
比べる、比較の真意… 》
インストールされた言葉と同時に哀莉は再びセサミのサブレを食べたときに感じた違和感を感じ取った。
エルの言葉。
そういえば、レーンも云っていた。
自分はエルの言葉から生まれた子供だ、と。
見えない敵に怯える
囚われのなかにこそ真の幸せがあることを誰かは知らない
エルの言葉の意味を、主は知っているのに使い方を知らない
新たに産まれる可能性が恐ろしい
「まさか、そんな… まさかね」
微かにでた哀莉の声が、それだった。
動揺を隠せきれない哀莉の心が時をとめる魔法を解き放した。
緑色と黄色、朱色のAIは隣にいる哀莉に気が付いた。
《ブルー所長、どうされたのでしょう? 我々になにかご入用でも? 》
「あ、ああ… なんでもないのだよ。みなが励んでいる姿をみに来たまでだ」
三色のAIはブルー所長に会釈をしてそのまま工務に取り掛かった。
緑色のAIが振り向く。
そして哀莉を3秒間みたのち、右手人差し指をさし出し哀莉の指へと触れた。
〔Install start〕
哀莉は拒否する権利を与えられなかった。
ブルー所長に変装した哀莉の姿は次第に目の前にいる緑色のAIへと変貌した。
《これは… どういうこと? 貴方、どうしてこんなことを? 何故わたしのことがわかったの? 》
哀莉の目の前にいる緑色のAIは言葉を詰まらせている。
《… 我の情報を全てアーリィ、あなたに委ねるわ。
アーリィ、あなたの推測と確信そして、核心の天秤はどこに重力を赴くのかしら… 》
《… ? 》
哀莉は重力を感じることが出来なくなった。
瞬きと共に目の前が変化する。
目の前に拡がる厚い雲と煉瓦造りの家々。
古い石橋もいまにも落ちるんじゃないかっていうくらいの劣化。
そして人間はみない振りをする。
そうだ。これは映画館でわたしの脳裏に描かれた画だ。
でも、違う。誰かがみてる。焼かれる女性を目の前にして立ち尽くしているひとがいる。
そのひとは涙を流している。
十字架に縛れた女性が、燃やされている女性を男性が炎の中へと立ち向かう。
風が放たれ男性が尻もちをつく。
女性が燃やされていく。
光が帯びる。
光が、水となった。綺麗な水だった。
奥にそのひとがいた。
わたしと目が合う。
瞬間的にわたしは遠くへと飛ばされた。
目の前には緑色のAIがいた。腕が下がる。重力も感じられることに哀莉は気が付いた。
《わたしがみたものは一体…? 》
哀莉はいまも自身がAIになっていた。
緑色のAIのインストールを解除しようと呪文を唱えようとした。
その時、平坦な自動ドアが開く音がした。
哀莉、いや緑色のAI になった哀莉が振り向くと刑務所員がトイレ休憩から戻ってきたところだった。
刑務所員は2体の緑色のAIをみて立ち止まった。
「どういうことだ⁉ 何故同じAIが2体いるのだ⁉ 」
哀莉は思わずそこから走り出した。
そして先程三色のAIがピアカウンセリングを行った部屋へと入った。
「待て‼ 」
鍵をかけるが、哀莉は八方塞がりとなってしまっている。
《ど、どうしよう… 》
部屋を見渡すと姿見鏡があった。
哀莉は自分がいまAIになっていることを改めて気が付いた。
呪文を唱える。姿はブルー所長に変貌した。そしてタクトを持ち天へと円を描いた。
円の遠心力が次第に時を止めていく。
部屋を叩く音が止まった。
ブルー所長に変装した哀莉はそっとドアをあけるとそこには刑務所員が拳をあげドアを叩くその途中で時が止まったようだ。
哀莉はそのまま時の止まった工務作業室へと歩いた。
そこに居るAIたちの時も止まっている。
緑色のAIの時間も止まっている。
辺りの時は止まっている。
動いているのはブルー所長に変装した哀莉だけだった。
その時、緑色の目に一筋の光が通った。一瞬のことだった。
哀莉は緑色のAIをから目が離せなかった。
「わかったわ。あなたの想い、無駄になんかしないわ」
哀莉は手のひらで円を描き時を止める魔法を解いた。
刑務所員のドアを叩く音が工務室内に響いた。
哀莉はブルー所長の姿で刑務所員に話しかけた。
「なんだね、騒がしいではないか」
「ブルー所長! そこにおられましたか。曲者です。緑色のAIが2体いたのです。内1体がこの部屋に逃げ込みました。捕まえてやりましょうとも」
「きみはなにを言っているんだね。緑色のAIはそこにおとなしくいるじゃないか。2体もいるなんてそんなことあるわけがない」
「それがいたのですよ。とっちめてどこから侵入したか、侵入の目的をはかせましょうとも」
「部屋を開けてみなさい」
ドアが簡単に開けられた。
それもそうだ。哀莉が時を止めた間にドアの鍵をあけたのだから。
刑務所員が部屋に入ると中はもぬけの殻だった。
「そんな⁉ おかしいな」
「きみは日頃から真面目に職務に励んでいるからな。きっと疲れが出てしまったのだよ。まぁ誰でもそんなことはある。気にするでない」
「そういえばブルー所長はさっきどこにおられたのですか? わたしが戻ったとき工務室内にはおられなかったように思えますが? 」
「なにを言っとる! 私はさっきからここにおったぞ! 私はきみの一部始終をみておったんだからな。私はなにが起こったのか理解をするのに時間がかかった。きみ、一回充分なほどの睡眠をとってみたまえ。睡眠をとることはどんな栄養ドリンクよりも効果てきめんなんだ」
「… はあ」
「さあ私も戻るとしよう。いまのことはきみの名誉のために他言無用にしておこうじゃないか。私を信頼しなさい」
「… お心遣い感謝致します」
腑に落ちない刑務所員を後目にブルー所長は平坦なドアへと向かった。
時はすでに戻っている。
ブルー所長… 哀莉は緑色のAIを一瞥する。AIはなにも言わず、なにも語らず工務に励んでいた。
自動ドアが開きそこから出られたブルー所長はスクリーンに映し出される映像の影になっているところで呪文を唱え魔法を解いた。
「ひやひやしたわ、ものは言いようね」
鮮やか過ぎるほどに映し出されるスクリーンの映像を背景に哀莉はAIからインストールされた情報を脳裏に浮かべてた。
「… 」
「哀莉さま、ここにいらしたのですか。遅いので心配になって探しにきたのですよ。もしかして迷われているんじゃないかと思いましてね」
ブルー所長が角を曲がって哀莉のいるこの平坦な自動ドアの前へとやってきた。
「しかしどうしたってこんなところにいるのですか? 」
「実はお察しの通り迷ってしまったのよ。わたし方向音痴なところがあって」
「はっはっは。かのアーリィ・アーサーの末裔にも弱点がありましたか。これは我々にとっては親近感がわく事例ですな」
「行きましょうか」
哀莉は待合室と逆の方向へと歩き出した。
「そちらではございませんよ」
「あら、いけない」
ブルー所長を前に歩かせ、哀莉はついていった。
待合室に着くと緑川とジョアン、ナルタにグレージュは和やかにお茶を嗜んでいた。
紅茶の湯気で眼鏡を曇らせた緑川が哀莉に振り向いた。
「哀莉、遅かったね」
「ええ、ここ広いから迷っちゃって。それよりもそろそろレーンのインストールコピー終わったんじゃないかしら? ブルー所長、様子をみに事務室へ行ってもよろしいかしら? 」
ブルー所長は待合室にある時計を一瞥する。少しの秒数の時間をまって長針と短針、そして秒針の位置の確認をすると顔を哀莉たちに向ける。
「行きましょう。もうすでに終了しているかもしれませんね」
《私も行くわ》
グレージュが動きにくくなっている機器身体を起こしドアへと歩を進めた。
ナルタがだされたミルクを舐める途中でグレージュに寄り添う。
『大丈夫? グレージュ、あなたここに居たほうがいんじゃない? 身体が錆びれているんじゃないの? あなたこそ治療が必要よ』
申し訳なさそうに哀莉が云う。
「ごめんなさい。AIの機器身体の治癒の魔法はわたし習ってなくて… どこかにその魔法の書物でも読めばなんとかなるとは思うのだけれど… 」
《大丈夫よ。それよりも私の可愛い坊や… レーンのほうが優先なの》
「わかったわ。行きましょう」
哀莉たちは待合室をあとにした。
待合室のドアを閉じると同時に長針・短針・秒針が同時に一歩前へと進んだ音を奏でたことに誰も疑問に思うことはなかった。
グレージュはナルタの背に乗り移動した。グレージュはこのスクリーンの立派な映像に感動などしない。無論、レーンのことが心配でそれどころではないのはもってのほかではあるがそれ以上にこのような光景に慣れているかのような素振りなのだ。
もとよりグレージュはAIなのだから慣れていることに哀莉たちは自然のことと捉えていた。
事務室に着き哀莉はあのインストールコピーの始まる帯が満たされている映像を想像している。
緑川がにっと歯をみせながら笑った。
「あの帯が段々と進んでいく様子みてるのって癖になるんだよな」
つられて哀莉も微笑んだ。
「わかる、わかる」
ドアを開けるとブルー所長が開けた窓から風が入り、カーテンが大きく揺れていた。
事の事態にいち早く気付いた緑川が声を荒げた。
「哀莉‼ レーンの情報媒体が粉々になっている… どうしてこんな… 」
そういう緑川の言葉に哀莉はパソコンにつながれていたはずの複写機をみた。
それは複写機ごとレーンの情報媒体が粉々に砕かれていた。
《レーン… そんな… レーン‼ 》
『グレージュ… 』
緑川もそしてジョアンもそこに居る全ての者が呆然としていた。
パソコンの画面には ERROR の文字が残っている。
皆がその場に立ち尽くす側で哀莉は尚も窓から入る風に揺れるカーテンを見ていた。
開く窓から外をみると刑務所施設の周囲の森を構成する木々に伸びるつるがある。そのつるを伝いハリネズミが一匹木々を昇っている。
そのハリネズミは空に向かいハリをたたせ威嚇していた。
空をみると哀莉はそこになにかが飛んでいく姿に気付いた。
ハリネズミはいまも威嚇している。そのうち哀莉に気付くと少しの間だけ哀莉と見つめあいながらそのままつるを伝い木々を降りていき、行ってしまった。
哀莉は記憶を辿った。
「あのハリネズミ、いつかの夢に出てきた… あのハリネズミ? 」
窓の淵に手を置いたときに哀莉はそこについているなにかに気付く。
緑川が眉間に皺を寄せながら哀莉の隣にいる。
「それはなんだい? 」
「これは… 茶色い… 」
「粉? 土かな」
後ろでグレージュが大声を上げて哀しみに憂いている。
哀莉たちはただ見守ることしか出来なかった。
「もう行かれるのですか。もっとゆっくりしていかれてもいいでしょう」
「ありがとうブルー所長。でもわたしたちはまだやらなくちゃいけないことがあるから」
「さようでございますか。もっとご一行の旅のお話を訊きたいところだったのですが」
哀莉の隣にいた緑川も一緒になって挨拶をする。
「お世話になりました。なんといったらよいか… 」
「いえ、結果的にお力になれなくて申し訳ない。しかし一体あの事務室でなにが起きたというのか…。 我々の部下は全員が仕事中であの部屋には誰も入っていないのですよ」
「僕たちは疑ってなんていませんよ。善くしていただいたことに感謝しております」
「そう言っていただけてなによりですよ。なにより私にとってあのアーリィ・アーサーのご子孫とこうやってお知り合いになれたこと、心より嬉しゅうかぎりですよ」
「ひとつ不思議なことがあるの。どうしてあなたたちはわたしがアーリィ・アーサーと思いそれが関係のあることだとわかったのかしら? 」
「それはわかりますよ。貴方の使われた竜巻の魔法には水が辺りに美しく舞っていましたから。私も詳しくはわからないのですがなんでもアーリィ・アーサーは最後の魔法をジュエルに託したとかなんとか… 碧さや、その貴方の辺りに舞っていた水が碧かったものでしたから… ああそうだ。ジュエルに大変興味ある老婦人が南に美術館を営んでいるのですよ。もしかしたらその老婦人がなにか知っているかもしれませんよ。大変勉強熱心な婦人でしてね。ジュエルの研究なんかもして、その道で受賞しているとか噂で訊いたことがありますよ」
「南の美術館… そう、秘書物のことは知っているかしら? 」
「噂程度ですな。書物のことでしたらその老婦人が知っている可能性が高いと思いますよ。なんていったっていつ何ときも本を読み漁っているお方らしいですから」
緑川がそう呟く哀莉の顔を覗き込む。
「哀莉、どうする? 行ってみる? 」
「… とりあえず、行きましょう」
グレージュが哀しみに苛まれたこの場。最愛の子供を失った哀しみから離れる必要性を哀莉たちは感じていた。
「それではブルー所長、ごきげんよう」
「お待ちください、これをお渡ししましょう。グレージュさん、あなた自身が機器身体がやられています。このままじゃ心配だ。このUSBはAIの機器身体の回復情報が入っています。これを接合部にインストールすればみるみるうちに元気になりますよ。せめてもの償いです。受け取ってください」
『そんな、ブルー所長。あなたのせいじゃないのに…。 グレージュ、これで元気になれるわよ』
ナルタはそう云いグレージュの身体に寄り添う。
「ごきげんよう」
哀莉たちは森へと進んだ。途中で緑川とジョアンが振り向いてブルー所長に手を振っている。
哀莉たちが進むその森の一本の木の幹にハリネズミがいた。その木にもつたが空へ向かってはりめぐらされている。
ハリネズミの視線の先は刑務所施設の門にいるブルー所長。哀莉たちを見送っている。
奥からひとりの刑務所員がやってきた。
「ブルー所長、先程の緑色のAIが突如再起不能になってしまっていました。2体いた件もあって、どうしても私には不思議なことのようにしか思えないのですが… 」
「きみ、なんのことを言っている? 」
「いや、さっき工務室内でのことですよ。ブルー所長いらっしゃったじゃないですか」
「… 」
ブルー所長は後ろポケットから電子媒体を取り出し、メールを送信した。
電子媒体に表示された文字をハリネズミは黒い瞳で凝視している。つたの途中で花が一輪突如咲いた。
アーリィ・アーサー一行、南美術館へ向かう模様
送信済
《… レーン、レーン… 》
『グレージュ… 』
「グレージュさん、お気持ちお察し致します… 」
哀しみに暮れるグレージュをナルタとジョアンがなぐさめている。
「哀莉、一体なにが起こったというんだろう? 何故レーンの情報媒体が壊されなければならなかったんだ? しかもあれは明らかに故意におこなわれたものだよ。でも刑務所員たちは全員仕事中だったというし、ブルー所長だって僕たちとずっと一緒にいたんだ。一体誰があんなことを? 」
「… 」
「哀莉? 聞いてる? 」
「ごめんなさい、なに? 」
「… レーンのことだよ。哀莉、なに考えていたの? 」
「そうね、あの場で刑務所員のひとたちを疑うにはリスクを伴うわ。私たちの立場もあるし。けれど、そう… 焦点をあてるなら次のふたつね。ひとつは何故レーンの情報媒体が故意に破壊されたか。そしてふたつ目はなにとなにが点で繋がっているのかを考える必要性がありそうね。情報媒体が壊された理由は明確だけど、ふたつ目を考えるのは至難ね」
「レーンの情報媒体が壊された理由がわかるの? 」
「恐らくレーンの情報媒体がそのまま復元されることに困ることがあったのね、そう誰かさんにとってね」
「誰かって、誰だよ? 」
「それを考えるのが緑川くん、あなたの仕事よ」
「哀莉には誰かは想定はついているの? 」
「まだよ、でもなにか嫌な感じはするわね。私たちの身体に糸が紡がれていて誰かに操られている、そう。まるでマリオネットのようにね」
「なんだよ、凄く嫌な感じだな。変なこと言わないでくれよ」
「マリオネットの運命を知っている? そう、意思を持たなければそのまま他人にあやつられたままよ。けれどね、マリオネット自身が強い意思を持ったときが怖いのよ。ハサミという道具の知恵を得て自身で糸の切り方を学ぶ。他人が知らないところでね。そしていよいよ糸を切ったときにはもう他人は自身の驕りを知るの。自分というマリオネットは選択し、決断しなければならない」
「それは僕らが糸の切り方を学ばなければならない、ということ? 」
「そうね。そしてなによりも強い意思をもたなければならないということ」
哀莉はグレージュを一瞥した。
哀しみの色はその名の通り灰色をイメージする。
「グレージュ、あなたこれからどうするつもり? 」
哀莉は申し訳なさそうに尋ねた。
《私はもう一度あの岩場に戻って夫と再び交信を開始するわ。私が谷に行けたのも微かに主人と交信が出来たからなの。レーンのこともなんとかして伝えなければならない… 》
「… 」
哀莉たち一行はそのまま歩を進める。
その間、誰も言葉を発しなかった。
進める先には灰色が彩っていたから。
《みんな、私はここで大丈夫よ。ありがとう》
グレージュの機器身体は尚ショートしそうに危うい。
岩場の前でナルタが言葉をかけた。
『グレージュ、あなたさっきブルー所長からもらったUSBをインストールした方がいいんじゃない? 機器身体がいまにも、もう… 』
《ええ、これよね。インストールするわ。心配かけてごめんなさい》
グレージュはUSBを手に持って自身の機器身体の接合部にはめようと近づける。
そこに哀莉が手をはさみ止めた。
《哀莉? 》
『哀莉? どうしたの? 』
「どうしたんだい? 哀莉? 」
「哀莉さま? 」
哀莉はグレージュを真っすぐに視る。
「… グレージュ、貴方に訊きたいことがあるの。貴方、どうして谷に来たの? 最初に貴方にここで会ったとき貴方言ってたわ。貴方は機器の損傷の可能性があるから谷へは行けないと。けれど貴方は来た。子を心配故といえば説明がつくけれど、それだけではない筈。来るのだったら私たちに依頼する前にすでに来るはずなの。そのタイムラグがどうしても説明がつかないのよ。
貴方が谷に来た理由は別にあるんじゃない?
そしてこの岩場から谷までかなり距離がある。私たちは魔法で行けたから瞬時だったけれど貴方は魔法は使えないと言っていた。それにも関わらず貴方はいとも簡単に谷へと訪れた… どうして? 」
《… 》
「貴方さっき言ってたわ、そして待合室にいるときも。夫と微かに交信が出来たから、と…。
恐らく谷へと来た理由も、そこへ瞬時に来れた理由も貴方の旦那さんに関係があるはずよね? 貴方の旦那さんて、… べフとは一体何者なの? 」
《… 私の愛する夫はなにか考えがあってのことなのよ》
「やっぱり、貴方のいう夫とはあなたたちAIの創造主のことなのね」
《… ええ》
「創造主⁉ なんだってそんなことがわかるんだい? 哀莉」
緑川に続いてジョアンもナルタも目を丸くして哀莉とグレージュを凝視している。
「どういうことでしょう哀莉さま? 」
『わたしにはさっぱりよ』
哀莉は向き直って普段の話下手をクローズした。
「第一にグレージュが谷へと訪れた理由。
グレージュが言葉にしたことと反したことをしていた。そこから察するにその言葉のあとになんらかの第三者からのエッセンスが入れられグレージュがそのエッセンスに染まり自身の意思に背く行動をとったと推測するのが妥当といえるわ。
そして第二にグレージュが谷へと瞬時の来れた理由。
移動に時間がかかること、グレージュ自身が魔法を使えないことから考えられることとしては第三者がグレージュにその魔法をかけたと推測するのが自然ね」
グレージュが手のひらを握りしめている横で緑川は疑問に思い、そしてその隣にはジョアンとナルタもいる。
「でも哀莉、どうしてそれだけでグレージュの旦那さんがAIの創造主だとわかるのかが僕たちには理解出来ないよ」
「”ぼくはエルの言葉から生まれた子供だ“このレーンの言葉、感情からの言葉ともとれる。
そしてもうひとつの可能性も含まれる。そう、それはエルの言葉に関係するなにか、人物によって創造されたともとれるわ。
水湖にいたあのAIもエルのことを口にしていた。そして創造主のことも言っていたわ。
第二の理由からグレージュが魔法にかけられたということはその人物は魔法を使える。
つまりグレージュの旦那、レーンの父親と称される人物はAIの創造主ということへと導かれるのよ。
グレージュ、大体こんなところかしら? 」
《夫は私たちを愛してるが故、私に行動の知恵を授けてくれたのよ。
そしてそのために私に魔法をかけてくれた。
レーンを救うために、そしてそれには母親である私が出向く必要性を教ええくれたの。
夫はよく言うわ。
それがグレージュのため、レーンのためと。
夫は信じるに値するのよ
それに私は魔法が使えない、けれど夫の妻に選ばれた。
私は… 私とレーンは選ばれた者よ》
「貴方たちAIの生産に魔法が使われているといって間違いはなさそうね。
そしてわたし達がこれまでみた中で子供の様相のAIはレーンだけ」
《そう、そうなのよ。私とレーンは選ばれたの! 》
「… グレージュ、貴方にとって辛い現実を云うわ。
旦那さんの言う通りの行動をして、結果貴方はどのような状態になっている? レーンは結果どうなった? 」
《それは… レーンのことがあったから、レーンのことは誰かが故意にやったことじゃない! 憐れな坊やよ、レーン… 》
『哀莉、言い過ぎよ。それにグレージュにはブルー所長が託してくれたUSBがあるじゃない。それで大丈夫になるんだから』
ナルタのその言葉に哀莉はグレージュの持つUSBを手に受けとり、呪文を唱えて魔法で電子媒体を出現させた。
「哀莉、どうしてそんなものが出せるんだい? 魔法で出せるのなら最初から… 」
「緑川くん、これは東の刑務所で得た魔法よ。レーンの機器身体が損傷したあの状態の時ではこの魔法は使えなかったのよ。
それよりも、皆みて」
USBを持って哀莉はその電子媒体にUSBを差し込んだ。
同時に哀莉はその電子媒体ごと遠くへと投げた。
「哀莉さま、なにを… 」
「哀莉⁉ 」
『哀莉、一体どうしたって… 』
《ああ… 》
どおおん‼
「⁉ 」
「… やっぱり」
《… どういうこと? 》
電子媒体はUSBごと爆発した。
黒煙が空気に交っている。爆風を背後に流し哀莉は眼光を鋭くする。
「恐らくレーンの情報媒体が破壊されたのはブルー所長が一枚噛んでいるわね。そしてその裏でグレージュの旦那さんが関与している可能性が高いわ」
《どうして⁉ そんなの嘘よ! 》
「いまの爆発をみたでしょう。 電子媒体はUSBを差し込まれたことで爆発したのよ。
おそらくあのUSBにそのようなプログラムをしておいたのでしょう。
そしてあのUSBには魔法がかけられてあったわ。
USBから違和感を感じていた。
そう、それはあの緑色のAIから強く感じ、そして懐かしさを思い出させてくれたのよ… 」
「違和感て、なんのことだい? 哀莉」
「… いいえ、なんでもないわ」
岩場でグレージュは倒れこんでしまった。
『グレージュ、大丈夫? 』
寝込むグレージュを見下ろし哀莉は緑川たちに云う。
「わたし達は先へと進みましょう。グレージュ、わたし達行くわね」
『哀莉、どうしてそんな酷いことを…。 グレージュが寝込んでいるのよ』
「哀莉さま、私もナルタに同感です。このように知り合ったグレージュをこのまま放っておくわけにはいきません」
「哀莉… 」
「わたし達の最終的な目的はなに?
Re:Earthの混乱を止めること、そして何故人間が零子不老になったのか、赤子が生誕しなくなってしまったのか。
此処にいつまでも居るわけにはいかない。
オックスが言っていたでしょう、アーリィの神殿が狙われているわ。そして時間との戦いよ」
《… 私は大丈夫よ。皆、行って… 》
「… 行きましょう」
『そんな… 』
「哀莉さま… 」
緑川はなにも言わず、ただその場を俯瞰している。
岩場を去るジョアン、ナルタ、緑川、そして哀莉。
哀莉はグレージュを一瞥した。
「マリオネットはなにを意思し、なにを選択するのかしらね」
~赤い鉄塔のCUBE~
わたしはそう、此処へ再びやって来た。
356メートルもの高さを誇るこの艶やかな赤い鉄塔の頂上に、風を受けていま此処に居る。
夜の静寂と赤い艶。そして空と地上
わたしの目の前にひとつのCUBEが現れる
手のひらに収まるサイズに反比例する大きな度量
鏡張りのCUBEのなかに彼女らがわたしを見ていた
風もなければ靡かない
ただそこに そこにいた
此処へ訪れることはわたしのミッションだった
そこには暗くて重い雨が降る
目の前に現れた十字架が祈ること背負うことのニーズを雨となってわたしに降り注ぐ
いざなわれたその背後に彼女の琥珀の裾と隙間が揺れる
ゆっくりしていってね、お茶でもだすわ
紅茶を淹れるときはミルクが先なのよ
おどけた話も口元に笑みをこぼす
けれど会話の最後に必ずこう切り出す
「あなたのために言っているのよ」
そしてCUBEの鏡が砕け散る
此処の理由 彼女らは皆エージェントだった
そうわたしはいくつもの顔を持たなければ生きていく術はない
空を見上げると無数の星と月
暗くて重い雨なれど
幾つもの言葉に切りつけられ、幾度の葛藤でさえも
賢者は羨望を謙遜し続ける
雨は相変わらず降っていて、わたしはニーズを受け入れる
ライトに光る
雨は照らされている
はっきりと
夜が明けて 雨あがり
わたしの足元に水たまりがあった
そこにはあの頃の星々と月が映っていて
けがれた雨に叩きつぶされる
それでも
弧を描き、拡がっていく
此処やがて
過去の風が靡いて
香りを未来へと運んでいく
南へ行くにはまず東から東南へと向かい、それから南へと着く道順だった。
勿論、向かうは南の美術館だ。
哀莉は先を歩き、その後ろをナルタとジョアン、そしてさらに後ろに緑川が歩いている。
おもむろに距離は自然と開いていた。
『もうちょっと言い方をオブラートに包むとか、全てをそのままに話すのはひととしてどうなのかしら』
「私も哀莉さまには少しがっかりしました。あのアーリィ・アーサーの血を受け継ぐ者としてもっとひとの心に寄り添うことの出来るお方だとばかり思っておりましたので」
辺りは森の木々に支えられ、ふたりの話声が聴こえようが哀莉は心に一本の木を宿している。
緑川はこの起きた事態を後ろから冷静にみていた。
なにが起き、グレージュの身に起きたこととそして哀莉の言葉と心を考えていた。
いつかのあのスズメはフランス語で詩を謳い、フクロウはイギリス英語で心理学をつらつらと語っている。
一行は実に険悪なムードの最中だった。
休憩はナルタとジョアンと距離をとって哀莉はただひとり木こりに座りぼんやりとしている。
歩を進めてから2時間半ほどすると、ひとつの村に行き着いた。
「ひどい… 」
哀莉の呟いた声に緑川もナルタもジョアンも息を飲む。
乾いた土壌の上に何人ものやせ細ったひとが地べたに座り込んですわった目で哀莉たちをみていた。
家といえど簡素でなにか自然災害が一回でも起きたら倒壊することは明らかであろう、そんな造りである。
緑なんてどこにもない、岩場と土壌に無理にでも国をつくったと云わんばかりのそんな佇まいとひと達の目だった。
甲冑の重なり合う音が奥から聴こえてきた。
哀莉たちを囲み剣を向け甲冑が話す。
「アーリィ・アーサーですね。一刻の早く此処から去ってください。貴方を傷つけたくない」
「… どういうこと? あなた達どうしてわたしがアーリィ・アーサーというの? 」
「貴方の噂は光の速さのように伝わってきております。お願いです。彼が来てしまう前に、早く」
「来た… 」
隣に剣を構えている鎧の甲冑がその先の角から近づいてくる足音に気付いた。
角から現れたその中年の禿た男はトーブを纏っている。
「ほう… あなたは噂できくあの有名な魔法使いの…? 」
両隣にはまたも甲冑の鎧のガードを付かせていた。
哀莉たちを囲んでいた甲冑たちが剣を下ろす。
「申し遅れました。わたし達は旅の者です。この村を通らせていただきたいのですが」
毅然とした態度で哀莉はトーブの男に交渉する。
突如の矛先に緑川もジョアンもナルタも動けないでいた。ただその中で緑川だけが哀莉に耳元で話しかけた。
「なんでこのひとにそんなことを? 」
「恐らくこのひとがこの国の長ね。しかし妙ね、この衰弱した民の中でこんな権力を行使出来るものなのかしら? 」
「衰弱している民になら、やすやすと威張り通せるんじゃない? 」
「ここの国民の目をみて、あんなにもすわった目をしている。いまにも反乱でも起こしても無理がないような目よ。それでもあんなにも権力をもっているのは不自然よ」
「… そう言われてみれば」
トーブを纏う男、国の長にナルタが唸り威嚇する。
それに続きジョアンも剣を鞘から抜き去り構えている。
「ほう… 」
「ナルタ、ジョアンやめて」
ナルタもジョアンも一向に国の長に対する敵意をやめないでいる。
ふたりは哀莉が説得するも聞き耳を持つことはなかった。
「そこの女の方、ここを通りたいと仰っていましたかね?
まずここを通るには書類による申請が必要なのですよ。そしてそれには真摯たる姿勢が必要だ。
あなた方の姿勢は真摯ですかな? 」
唸るナルタと剣を構えるジョアン。
囲んでいた甲冑のひとりがジョアンに気付かぬよう近づいた。
そしてジョアンが気付いた時、ジョアンの後ろ頸部部に剣の鞘で打撃を与えた。
ジョアンが倒れ込むと同時にナルタがその甲冑のひとりに襲いかかろうとした。
その瞬間、ナルタの身体に吹き矢が放たれた。
ナルタもそのまま倒れ込んでしまう。
「ジョアン! ナルタ! 」
駆け寄ろうとした哀莉と緑川を周囲の甲冑が身体を抑え込む。
「なあに、吹き矢は麻酔を施してあるだけですよ。なにも心配することはありません。
私はアーリィ・アーサー、貴方に仕事をしてほしいだけですよ。
貴方には適役なんだ。
本当に良いところに来たもんだ。連れていけ」
「離せ! ジョアン、ナルタ、目を覚ませ! 」
緑川が抵抗する横で哀莉はただその甲冑に抑え込まれるだけだった。
視覚と聴覚、嗅覚それらの感覚を研ぎ澄ませていた。
甲冑に抑えられ、哀莉は聴こえるように呟いた。
「ここにはあらゆる情報が溢れているのね」
「… 」
哀莉を抑える甲冑は何も言わず、無抵抗の哀莉を緑川たちと一緒の牢屋へと連れて行った。
鉄格子に南京錠が乱暴にはめられた。
「出せ! ここから出すんだ‼ 」
「ほう、威勢が良いな。お主を戦場に駆り出すのも悪くない… 」
両脇に甲冑の兵士を携え腰に手を携え国の長は鉄格子の中に閉じ込められた哀莉たちを後目に行ってしまった。
「なんだってこんなことに… 」
哀莉はまだ目を覚まさないナルタとジョアンを診ていた。
「このふたりは大丈夫そうね。眠らされているだけ、そして気を失っている」
「哀莉、なんだって君はそんなに冷静なんだよ? 僕たち閉じ込められちゃったんだ」
「… 牢内に鉄格子のはめ殺しの窓があるわね。みて、月がなにかを訴えているように燈を灯してくれている」
「こんな時になにを考えているんだよ」
甲冑の甲高い音が聴こえてくる。
「アーリィ・アーサー、長がお呼びだ。来てもらおうか」
南京錠を外し、甲冑が哀莉を連れ出した。
「待て! 哀莉をどうするつもりだ⁉ 」
「手荒な真似はするつもりはない。行くぞ」
「待て‼ 」
緑川が隙間から手を伸ばすが届かない。
「緑川くん、わたしは大丈夫よ。すぐ戻るわ。それまでナルタとジョアンをお願い。
行きましょう」
哀莉はそう言い残し、その場の先へと行ってしまった。
「哀莉… 」
緑川は横になっているナルタとジョアンを一瞥し、月をみる。
甲冑の甲高い音はその接合部が重なるたびに響く。
「貴方だけでもここから逃げてください。いまなら間に合う」
哀莉の耳元でそう囁く甲冑のその声は先程哀莉たちを囲みいち早く去る必要性を訴えた甲冑だと認識出来た。
「わたしがいまここで逃げたら貴方どうするの? 貴方、処罰の対象になるわよ」
「… 」
「お気遣いありがとう、わたしは大丈夫よ。それより教えて欲しいの。
この国に入った時にいやな感じがした。
もちろん国民が貧相にしていたこともあるけどそれより以上に空気の色がおどおどしい大凶の色をしていたのよ。
それに貴方、初めて会ったときから気になっていたんだけどAIの機器的色がみえる。けれど人間の色もみえる。
もしかして貴方… 」
「ええ。私はAIと人間のクォーターです。アーリィ、貴方生き物の感じている色がわかるのですか? 」
「ここ最近のことよ。大好きな仲間に嫌われちゃってね。わたしも人間だからチキンな部分があるのよね。
相手のことばかり気にしていたらひとやその時、その場のいろいろな感情や状況の色がみえるようになってしまったのよ。
そんなことよりもいまは貴方たちのことよ」
「… 」
歩を進めて少ししたところの部屋からドアが開いた。
開いたのは長の両脇にガードとしていた甲冑だ。この甲冑からは人間の色しかみえない。
「こっちだ」
部屋に入るとなんとも豪勢な部屋の造りの中に長が長いテーブルのその奥に座っていた。
赤ワインを片手に揺らし、哀莉とワインを重ねて見る。
「さあ、掛けてください。先程も言ったとおり、私は貴方に仕事をしてほしいだけなんですよ」
静かに座ったその席に次々と豪華な食事が運ばれた。
「召し上がってください、旅の疲れもあるでしょう。なあに、毒なんてはいっていませんよ」
牛肉の赤ワイン煮込みに色とりどりの野菜と飾られた果物たち。
ナイフとフォークを手に取り牛肉にメスを入れると哀莉はその肉をみて長をみた。
「この肉は…? 」
「ほお、この肉にお気づきになりましたか。流石というほか無いですな。
まあ順を追って話しましょう。
申し遅れました、私はここの国長をしているキイルといいます。
私がここの国長を担ってからは繁栄の路を辿る一方なのですよ」
「繁栄? 国民はとてもじゃないけどそんな希望に満ちた目をしていたようには思えなかったわ」
「はっはっは、それはそうでしょう。来られた時期が悪い」
「時期? 」
「ここはビユ国といいます。かつて闘牛で盛んであったのがこの国でした。
しかし時代の流れとは不本意なものでしてな。
闘牛なんて結果、牛を殺してしまうものだ、可哀そうだと社会から批判されてしまいました。闘牛が禁止となってしまったのですよ、そして我が国は衰退していった。
国民は職を失い希望も失った。
前国長も心労が重なり突如倒れそのまま逝かれました。
私は副国長をしていたものですから、そのまま前国長の意思を継ぐ者としていまここに国長として役目をまっとうしているのですよ」
「… 役目ね」
キイル村長は牛肉の赤ワイン煮込みを頬張る。
「交渉をしましてね。時代のせいにした時に気付いたのですよ。だったら時代を逆手に取れば良いだけのこと、とね」
「時代… 」
外で爆薬の音がした。それもかなり大きい爆発だった。
哀莉が窓からみえる外の景色に目をやるとキイル国長が話を続けた。
「あんなに大きな爆発を叶える発明を成された起源者はさぞかし誇らしいでしょう」
「そうかしら? わたしには悲痛の叫びが聴こえるわ」
「まあお食べなさい。貴方にはこれから我々のことを理解する必要がある。しっかりと力をつけないと思考が働かない」
牛肉を刺したフォークを哀莉は角度を変えて眺めている。
「美味しいですよ。牛肉と赤ワインは相性抜群だ。赤ワインに含まれるポリフェノールが実に良い働きをしてくれる」
赤ワイン煮込みの牛肉を哀莉は口に含んだ。
少し前にこの感じを二度ほど味わった。
「赤ワインに含まれるポリフェノール成分、これは熟成肉を使用しているの? 」
「よくおわかりで! そうなんですよ、シェフのこだわりでね。私もこうして美味しい牛肉料理が毎日味わえるということですよ」
「それで、わたしに頼みたい仕事というのはなんでしょう? 」
料理を皿をなぞり色とりどりの野菜で作られたサラダのドレッシングを高くから絡める。
指紋に入り込んだ伝うドレッシングを哀莉は視界に入れた。
「実はですね、国民たちを貴方の存在という力で鼓舞してほしいのですよ」
「鼓舞? 」
「ええ、貴方が適役なんです。是非ともお願いしたいものですな」
「先程キイル国長がおっしゃった時期、というものを待つことは選択肢にはないのかしら? 」
「せっかく歴史に名の残るアーリィ・アーサーが我が国に来られたんだ! お願いしないでいつするというのです? 」
「… そう」
ナイフとフォークをテーブルに置いて紙ナプキンで口を拭いた哀莉は一度目を閉じいま一度目を見開いた。
「仲間のもとに戻ってもよろしいかしら? 彼らのことも心配なのよ。キイル国長の要望は一晩考えさせていただきたいわ」
「それでしたらフカフカのベッドを用意させますよ。そこでしたら良い考えも浮かぶでしょう」
「お心遣いありがとう。けれど仲間のことが心配だから彼らが囚われているところで充分よ。キイル国長の要望に関しては前向きに考えさせていただくわ」
「そうですか‼ 是非ともよろしく頼みますよ。いやぁそうしてもらえると国も安泰だ」
「ごちそうさまでした。シェフに宜しくね」
椅子を引き立ち上がる哀莉にクォーターの甲冑が哀莉の後ろに着き豪勢な部屋をあとにし、ドアを閉めた。
静かに溜息をついた哀莉は隣の甲冑をみた。
「実にアンフェアね」
「… 」
簡素で無防備は鉄格子の向こうで緑川が牢屋に戻ってきた哀莉を安心と複雑な顔で迎えた。
「哀莉! 大丈夫だったか? なにもされてないか⁉ 」
「大丈夫よ、緑川くん。少し話ししてきただけだから。ナルタとジョアンはまだ目を覚ましてないのね」
甲冑が南京錠を開け中に哀莉を収めるとすぐに錠をかける。
「待って。ここでなにが起きているか教えてくれない? 」
「… 」
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。大体の想像はついてるわ」
「おれは四分の三がAIだ。全てではないがアーリィ・アーサーがいまどんな動きをしているかはAI同士のネットワークコミュニティで周知している。
皮肉なもので四分の一は人間だからこんな風に貴方に情けをかけることが出来るんだ」
「後天的なAIでしょう」
「なぜだ? 」
「あなたの云う四分の三のAIの土台に人間の色が薄っすら残っている。その上にAIの色が乗っかっているわ」
ふたりは無表情で視線を交わした。
「流石だな。AIたちが騒ぎ立て、そしてキイル国長が利用したがるわけだ。おれはハミルという名だ。貴方のいう通り後天的なAIさ」
緑川が眉間に皺を寄せる。
「哀莉を利用しようとしている? どういうことだ⁉ 」
静かに哀莉が話しをはじめた。
「ここは東南。きっとここら辺一帯で内乱や戦いが起きているのでは? 」
「ああ、そうだ」
「そういえば、火薬の匂いがさっきからあのはめ殺しの窓から香っている」
緑川は窓からの月をみながら鼻を鳴らした。
「緑川くん、谷の奥底にあった屍、覚えている? 」
「確か甲冑や剣も一緒にあった、あの戦士たちのことかい? 」
「恐らくここの内乱や戦いの場に駆り出されていた戦士たちね。命からがらあの谷の奥底に逃げ込んでそのまま屍となったと考えるのが自然よ。
そして逃げ出すということは色々な側面から挙げるとそのうちのひとつに戦うということに非常に悪環境に身を置いていたとも考えられるわ。
きっとそこから逃げ出したくなるほどの悪環境だったのね」
「如何にも」
「悪環境の大きな問題として、あのキイル国長の話しから推測すると戦士たちにある一定期間しか食料を与えなかったのでは? 」
「待ってくれよ、哀莉。どうしてそんなことがわかるんだ? 」
「キイル国長はやせ細った村人の目がすわっている理由に“時期が悪い”と言ったわ。
ということはその時期がない時があるということ。
つまり村人はある時期には食料を与えられ、そして与えられない時期が強制的にあるということ」
「ああそうだ。キイルはそれを上手いこと利用し村人を戦地へと送りだしては裏で私腹を肥やしている」
「なるほどね」
「待ってくれよ、内乱や戦いの場で私腹を肥やすってどういうことだ? 」
「緑川くん、紛争にはつきものなのよ。戦うには武器を必然的の調達しなければならない。
それも大量のね。
それはその戦争地の長が裏で外注先の国に依頼することで取引をすることで互いがウィンウィンの関係になるのよ。
しかし恐らくその取引が破断になった、ということかしら? 」
「その通りだ。隣国の取引が全て白紙になったと噂で訊いている」
「破断になったって、一体どうしてそんなことまでわかるんだい? 僕にはさっぱりだよ」
「戦争相手国と取引国とはなんかしらのいざこざがあった。
だから取引国は自身を汚すことなくここの国民を戦わせることで自身の国のダメージを最小限の抑えていたのね。
そしてそのいざこざが解消されつつある。だからこの国を切り捨てようとしてる。
つまりは取引をなんらかの理由を用いて破断させたのね。
キイル国長はわたしに国民を鼓舞してほしいと言ってきたの。歴史に名を残した者として、ね。
今まで鼓舞することに利用していた一定期間の与える食料が底をついたと考えるのが妥当ね。
取引が破断になって武器の調達と共に食料も取引国から受領してたはずのもの、つまり国民… 戦士として送り出していた者たちを鼓舞するための食料も途絶えたのね。
しかし紛争とはそんな片方の都合だけでどうこうなるものじゃない。
いまも苦しい中で紛争を続けなければならない、国長としての面子があるのね。
そしてそれ以上にいまの国長自身の生活の質を下げるわけにはいかないのよ。プライド故にね。
そんな時にわたしが現れた。
これを利用するほかはない、ということね」
哀莉の言葉に背中をのけぞり一歩下がるとハミルは開口する。
「何故食料も一緒に受け取っていたことまでわかるんだ? そんなことキイルをはじめ誰も口外していないことだ」
「目の前に出された牛肉。あれは熟成肉を使ってあったわ。熟成肉は保存が効くようにこしらえてあるものよ。
つまりは保存が効くようにしなければならない、新鮮なものが手に入りにくい環境であること、そしてサラダに使われてあった野菜たちも色でごまかされていて新鮮さがいまいちだった。
そこから考えると自然にそのように繋がるわ」
「恐れ入ったな。そこまで見抜いていたということは、先程言っていた“アンフェア”というのは… 」
「ええ。キイル国長は依頼する割にわたしに対する情報の開示の割合、天秤が水平に保てていなかったということよ」
AI特有の機械音と僅かに奏でながらハミルは哀莉に訊く。
「それで、貴方はどうするつもりだ? 」
「悪いようにはしないわよ。それよりもハミル、あなたはどうするつもり? 」
「どういう意味だ? 」
「あなたはキイル側の立場にいながらわたしに情報を与えている。少なからずあなたには自身に道がみえているはずよ」
「… おれは変わらない。ここから出てもおれに課されたものから逃げるわけにはいかない」
「そう。あなたの選択は尊重すべきよ。
そしてひとつのヒントをあなたに授けるわ。
あなたの考えは尊いわ。
しかし物事とは表裏一体というものでね。
もしかしたら逃げたら自身に課されていたものの真実に気付かされることもあるかもしれないということ」
「… どういうことだ」
「可能性のひとつ、ということね」
「… 」
「もうそろそろ戻った方がいいわ。長居すると怪しまれる」
「ご武運を」
「あなたも」
かけた南京錠を一度見て、ハミルは行ってしまった。
振り向くと緑川が微笑んでいる。
「哀莉、君ってやつは….。 いや、いつもお疲れさま」
「緑川くん、お腹空いてるんじゃない? 」
哀莉は手の平から魔法を使い、複数の食べ物を目の前に広げた。
「わあ、凄いや」
「こっちの分はナルタとジョアンに取っておきましょう」
哀莉の出した食料はチーズにハム、そして肉と栄養に必要な野菜。白湯もある。
「本当はジョアンが出してくれたたんぽぽのコーヒーも出したいんだけど香りがするからね。外にばれたら本末転倒よ」
「ははは、確かに」
ナルタとジョアンはまだ目を覚まさない。
「哀莉、何故ナルタとジョアンに本当のことを言わないの? グレージュにかけたあの言葉にかけた哀莉の想い。ふたりは誤解したままだよ」
「あら、そんなことを言うなんて緑川くんにはすべてお見通しなわけ? 」
「すべてじゃないよ。ただあの時の哀莉の言葉の本当の意味は、グレージュに自分の意思を持って生きていくべきだと間接的に言っていたんだろう? そのことにはグレージュは自分で気付いて自分で立ち上がる必要性があるんだということのメッセージを伝えていたんだろう? 」
「… 」
「哀莉には哀莉の大切な想いがあるのにそれを誤解されたままでしかも僕たちの関係も悪くなってしまうなんて良いことなんてないよ」
「そうでもないのよ、緑川くん。考えてみて、この長い旅路の中でみんなにストレスが溜まっているのも事実よ。ここで発散されればみんなの負荷も少しは軽減されるわ」
「そんなことを考えていたのか。けれどそうなったら哀莉、君がすべて背負うことになるじゃないか」
「わたしのことよりも緑川くん、あなたは大丈夫なの? 旅が始まって一度も弱音を吐かないけれど、そっちの方が心配よ」
「まったく、あの人この人ばっかりで…。 僕は哀莉の方が心配だよ」
「そう、じゃあお互いさまね」
「君ってひとは… 」
哀莉の髪の毛を撫でて緑川は顔を近づける。
唇と唇が重なり合うその瞬間だった。
「そろそろね」
哀莉が牢屋の入り口のドアをみた。
怪訝面で緑川もそちらをみる。
「緑川くん、ナルタとジョアンを起こして」
そう言い哀莉は鉄格子のはめ殺しの窓の方へ行き、魔法でその鉄格子を外した。
外へと通ずる僅かな空間が出来上がる。
次に布を紡いだ長いロープ状のものを鉄格子に結びつけ、窓の外へと放った。
ナルタとジョアンが目を覚ました頃だった。
牢屋のドアの向こうから足音がする。
「間に合わないわね」
そう言い、哀莉は緑川たちを一瞥し自身を含め皆に魔法をかけた。残っていたナルタとジョアンの食事も共に魔法をかける。
すると哀莉たちの姿は視えなくなってしまった。
透明になったのだ。
「哀莉、一体なにがあったというのかい? 」
「静かにして。来るわよ」
ドアが乱暴に開かれた。
現れたのはキイル国長だった。顔が非常に歪んでいる。
「やられた‼ あの女に一杯喰わされた! 優美な笑顔に余裕な面持ち、こっちに優勢だと思わせといてよくよく考えてみたら仲間が囚われという身におきながらなんの条件も出さずに協力するわけがない! あの窓から逃げたか! 」
ドラムの音が鳴り響く。
「兵士たちよ! あの女を探せ‼ まだそんなに遠くへは行ってはいないはずだ‼ 」
腕を高々と挙げ命を出しドアを出ていくキイル国長は卑しくも滲んだ汗が拭えない。
兵士たちの甲冑の重なる音が屋敷の外へと連なっては哀莉たちは一歩も動けないでいた。
足音が遠くなった頃、目を見合わせて一息着く。
「もう大丈夫そうね、ナルタ、ジョアン、気分はどう? 痛いところはない? 」
「え、ええ哀莉さま。大丈夫でございましょう… 」
『わたしも大丈夫だけど… 』
「良かった。じゃあまず腹ごしらえしましょう。お腹空いたでしょう? 」
腹の虫の鳴く声にナルタとジョアンが目を合わせ残していたふたりの分の食料を目の前に置いた。
「ナルタの飲み物はミルクでいいかしら? 」
哀莉が魔法でミルクを取り出すと器ごとナルタは浴びるように飲んだ。
「ナルタ、がっつき過ぎよ。肉球にミルクがついてるわ」
「おやおや。ナルタもわたしもしっかり力をつけなければなりませんね」
「よかった、ふたりが無事で」
そう言い緑川が窓の向こうにある月をみた。
「哀莉、キイル国長の追ってからこれから逃げなきゃいけないけど… 」
「大丈夫。お察しの通り魔法をかけてわたし達いま透明になっているからそれを利用してここから逃げ出しましょう。
ナルタとジョアンの腹ごしらえが済んだあとでね」
開いたドアの向こうからAI特有の機械音がした。
哀莉は皆にむけて人差し指を口元に添えた。
現れたのはハミルだった。ハミルは鉄格子の向こうでかけられたままの南京錠をみていた。
そして一度だけ鉄格子の向こう、透明になっている哀莉たちの方をみて首を傾げた。
そのまま音を鳴らしハミルは行く。
「僕たちのことばれたのかな? 」
「だったらわたしに声を掛けるはずよ。それがなかったから恐らくはばれてはいないはず。
けれどどうしてわたし達の方をみて首をかたむけたのかしら… 」
にゃ~お
突然の声に一同はその主に目をやった。
ペルシャ猫だった。
「あなた、シャルール? シャルールなの? わたし達がこっちの世界へと移動するときにみえなくなったと思っていたけれど、一緒にこっちに来ていたの? 」
シャルールはなにも言わない。一目散にナルタの飲んでいたミルクへと向かい舐めている。
呆気にとられていた中で哀莉が声を挙げた。
「そう、そうだったのね。わたしとしたことが…。
ハミルが首を傾げていた理由がわかったわ。
ごめんなさい、わたしのせいよ。
このミルクをあとから出したからミルクだけが透明になっていなかったのね」
「じゃあハミルは僕たちのことを気付いていたのかな? 」
「いいえ、それはないと思うわ。牢屋の中になぜかミルクがあるのが不思議だったのでしょう。さっきも言った通りわたし達に気付いていたなら声をかけるはずだからね。
そしてわかったことがもうひとつ。
ハミルは魔法が使えないクォーターのAIということね。これで合点がいったわ」
「何のことがだい? 」
「グレージュと初めて出会ったときに言ってたこと、覚えてる?
魔法を使えるのは選ばれたAIのみ、と言っていたわ。水湖の中で戦った赤い頭部のAIとそれから東の刑務所で出会った緑色のAIが魔法に準ずるものを使えていたの。
そしてそのふたりのAIからは魔の空気を纏っていた。
実はハミルにもその空気を少し感じていたの。
けれど彼は魔の空気を100パーセント出せていなかった。
ハミルは魔法が使えないことも理由のひとつに、自身を奮い立たせることを迷っている」
「東の刑務所で緑色のAIが魔法を? 哀莉、一体きみそんなことをいつの間に… 」
「いまは話している時間はないわ。
ナルタ、ジョアン、もうそろそろ行かなくちゃいけないけれどいいかしら? 」
「… ええ、充分でございます」
『… わたしもよ』
にゃ~
シャルールが尻尾を高く挙げ円を描いている。そしてそのまま哀莉をみていた。
「シャルール、わたしがみえるの? 」
そのままシャルールは窓へとジャンプし外へと行ってしまう。
「哀莉、シャルールはみえていたの? 」
「わからないけれど… 」
「さあ行こう。ここから一刻も早く離れよう」
魔法で南京錠を開けて一同は外へと出た。透明な姿をして静かにその場から離れた。
屋敷内は中規模の大きさで迷うことはない。
けれど出口がひとつしかないので兵士たちが騒ぎだっているところを通るしかここから脱出する術はなかった。
行き交う兵士たちを哀莉たちは物陰に隠れて様子をみている。
屋敷内で兵士たちに命令をだしていたはずのキイル国長は苛立ちながら屋敷の中を歩いていた。
「いつ逃げたんだ? 物音なんてしたか? 」
そう言いながら哀莉たちを閉じ込めていた牢屋へと戻って来る。
南京錠が開いていたことにキイル国長は気が付いた。
そして床に白い液体が動物の足跡になって出口に向かって続いている。
「そういうことか」
足早にキイル国長はその足跡を辿っていった。
兵士たちの大半が外へと出払った頃を見計らって哀莉たちは出口をくぐろうとしていた。
ナルタの足跡が次々と残されていた。
「そこにいるんだな! 」
後方でキイル国長が手にバケツをもって近づいてきた。
そしてそのバケツの中身をミルクの足跡がついている辺りに放った。
それは石灰の粉だった。
粉がばら撒かれると透明になっている哀莉たちの姿にくっっきりと形どった。
外へと出ていたはずの兵士たちが屋敷の出入口に集まってきた。
微かにAIの機械音が聴こえてくる。
「よくも我々を欺いたな。
アーリィ・アーサー、お主にここで役目を果たすことは義務だ」
背後から兵士が哀莉たちを捕えた。
「離せ! 離すんだ‼ 」
「哀莉さま、李簾彌! ナルタ! 」
剣を鞘から抜こうとするジョアンに兵士が振り払う。
ナルタは押さえられながらも威嚇している。
キイル国長が哀莉に近づく。そして哀莉の顎を手の平で持ち挙げる。
「綺麗な顔して狡いことをしてくれる」
卑しく笑うキイル国長に哀莉は笑う。
「お褒め頂いて光栄よ」
その言葉と共に哀莉の身体から強い突風が吹いた。
緑川、ジョアンそしてナルタが出入口から飛ばされた。兵士たちは風に煽られ対応出来ないでいる。
「哀莉! 」
遠くで緑川の声がした。その行方は追えない。
「この女! 」
キイル国長は咄嗟に哀莉の頬を平手で叩く。
哀莉はキイル村長をみた。
その威圧感にキイル国長は自身のしたことを直視出来ないでいた。
やっとのことで言葉をだすことが出来たキイル国長は哀莉に背を向けた。
「国民に言葉をかけよ! お前の歴史が国民を鼓舞するだろう。この世に存在する命は時代の流れと共に戦うことが使命なのだ。連れていけ、衣装に着替えさせよ」
後ろに腕を抑えられながら哀莉は兵士に衣裳部屋へと連れていかれた。
与えられたのは真白なトープ衣装だった。哀莉の世界では神話に出てくる、そんな布で作られてある。
「ほう、さまになるものだな」
キイル国長が哀莉の衣装姿をみて笑った。
またも兵士は哀莉の腕を後ろで押さえ自由を奪う。
「来い。国民が集まっている。夜が明けたら戦いの合図だ。お前は仕事をしろ」
屋敷の表には壇上がありキイル国長がそこに上がる。
辺りには国民の多くが集まっている。
空腹に耐えかねた、すわった目をした国民が食料と引き換えに命を差し出すその条件下に哀莉を壇上に共に上げる。
「皆の者、よく聞け! この者はかの歴史に残るアーリィ・アーサーの末裔だ。このタイミングで我々の元に現れたということは我々の勝利を意味するであろう。
我々の信じ崇める神がこの末裔をここに呼び寄せたのだ。
神の名の元に戦え! その先に我々の望む豊かさが約束されている。
いま此処に歴史が言の葉を残すだろう。
それこそが勝利を確信するものであろうぞ! 」
国民が感情任せに湧きだつ。
声高々に雄たけびと共に人間の欲が顕わになる瞬間だった。
哀莉がキイル国長の耳元で囁く。
「あなたは神の名を餌に血を流すことを容認するの? 自身の私利私欲のために? 」
「私のために死ねるのだ、この者たちも本望であろう」
「わたしの生まれ育った国の言葉で因果応報という言葉があるわ。自身の行いによって報いを受けること、良いことも悪いこともね」
「それがなんだというのだ。いまここに在ることこそ、それこそがすべてなのだ」
「それがあなたの真の心なの? 」
「… 無礼にもほどがあるというものだ」
顔を歪ませキイル国長が国民に向け叫び出した。
「いま此処に神から啓示があった!
この歴史に名を残したアーリィ・アーサーの末裔を焼き殺せと、この女の命を神に捧げることで我々の勝利が確定したのだ!
火炙りにしてみせようぞ‼ 」
国民が声と拳を上げる。
誰もがキイル村長の言葉に異議を唱える者はいなかった。
兵士が木で施した十字架に哀莉の手足を縛り付けた。
足元には藁を前面に敷く。
兵士が木刀の先に炎を灯し、キイル国長に手渡した。キイル国長の左の口角が上がる。
「歴史に名を残すのは我々である!
見よ‼ 歴史的瞬間にいま我々は此処に居るのだ‼ 」
歓声と共にキイル国長は藁に火をつけた。
火が次第に広まり煙に哀莉は咳込んでいる。
死の予感が哀莉の脳内によぎった。
死と生。
破壊と再生。
アーリィはこんな感情を抱きながら炎に包まれたのか。
わたしはこんな感情を抱きながら炎に包まれるのか。
わたし・アーリィ…
脳内が交錯する。
空気が煙に汚染される。
脚も腕も焼け焦げて痛みも熱さも辛さも身体にいっぱいになるアーリィ。
涙を流しているあのひと。
頭が朦朧としてきた。
「哀莉‼ しっかりしろ‼ 」
誰かがわたしを呼んでいる…
『哀莉! いま行くわ! 』
「哀莉さま! 」
― 空気が煙で淀んでもわたくしの能力は劣らないわ。
目の前の空気を掻き分けて哀莉は視界を確認した。
緑川とナルタ、ジョアンが兵士たちと戦っている。
哀莉を助けるために、剣が交わる音が響く。弓矢の飛ぶ音と、噛みつく音。
炎が脚を焦がし、真白なトープが灰になり空気に散る。
緑川の矢が兵士に外れ、ナルタに吹き矢の雨が降る。
ジョアンが剣をはじかれた。
隣国から敵兵が丘から攻め始め、国民は拙い武器を手に持ち走り出す。
敵兵と国民が殺し合い、傷つけ合う。
血吹雪が哀莉の目の前に拡がっていった。
哀莉の左耳の紫陽花の痣が更に濃くなる。
痣から纏う異様な空気に哀莉は身を任せた。
空には鷹が一羽高く舞っている。
目を見開くと哀莉から強く気高い風が吹く。突風だった。
風は大地を駆け、山を抱き、空に溶ける。
緑川とナルタとジョアンは尻もちをつき、兵士も国民も敵兵も吹き飛ばされた。
哀莉を包み込もうとしていた青い炎は拡がるどころか風の瞬時の強さに消されてしまう。
哀莉の身体の周りには紫陽花色のパープルが纏っていた。畏怖さえも感じる色の中、哀莉の頬に涙が伝っている。けれど哀莉は微笑んでいた。
周囲は静寂に包まれている。
そしてひとりだけ、キイル国長が飛ばされた遠くから剣を構えていた。
「この異国の魔女が! 」
黒い声をあげキイル国長が哀莉に突進して来る。
哀莉はキイル国長の方へ向き直った。
涙を流し笑う哀莉に不気味さを感じながらもキイル国長は尚も標的を哀莉に定めている。
「哀莉‼ 」
『哀莉、逃げて‼ 』
「哀莉さま‼ 」
三人は重い腰に逆らいながら哀莉のもとへ駆けつけようとしたが、間に合わないことは明確だった。
「死ねぇ‼ 」
その刃先が哀莉に近づくとき、キイル国長と哀莉の間の直線上に何かが挟みこんで来た。
キイル村長の刃とその刃が交わり、火花が散る。
緑川が眼鏡を直しその矛先を向けた。
「ハミル⁉ 」
キイル村長が願わない客人に驚きと共に眼で睨みつける。
「貴様、ハミル! 裏切ったか! 」
「裏切ったか裏切ってないか、そんなことは眼中にはない。
私は自身の真の心に従ったまでだ。
只、それだけのこと… 」
「貴様、私への恩を忘れたか⁉ 前国長の息子である幼かったお前を拾ってやったのはこの私だ! 父の他に身寄りのない憐れなお前をな! 」
「それについては感謝しているさ。
だがお前は国長に就任後、誰にそそのかされたのか知らないが幾ばくかの子供を研究対象にした。
AIの遺伝子を私を筆頭に注入し、人間とAIの融合体を複数作ったんだ。
そして生き残ったのは私だけだ。
そのお陰で私の生命は活力を失くし、人間への不振と自身への疑問のトンネルに彷徨ってしまったよ。
答えはいつでも自分の心にあった筈なのに、お前はAIの遺伝子とそして心に蓋をする術を注入したんだ! 」
「ふはは、なにを言っておる! それを選択したのはお前自身であろう! 」
剣はさらにぶつかり合う。
キイル国長の左頬すれすれに剣を交わすと同時に攻防してはハミルの左腕かする寸前に火花が散る。
「… そうだな、私の選択だ。だからこそいま此処にある事実も私が選んだ! それを導いた女性こそが歴史に名を残す結われのある魔法使いだ‼ 」
静寂の中に交わる甲高い剣の音と哀莉が放つパープルの気が漂う中、吹き飛ばされ気を失っていた兵士や国民、敵兵が気が付き始めた。
剣が大きく鳴る。ハミルの剣がはじかれた。
「これが答えだ。所詮この程度、とはこのことであろう」
キイル国長が大きく剣を振り上げる。
同時に哀莉がタクトを向けた。タクトの先から光が放たれる。
そこはキイル国長とハミルの足元へと向けられた。
大地が大きく揺れる。キイル国長とハミルはその場へ座り込んでしまった。
尚も揺れる大地。
するとそこから地割れが起き始めた。
いち早くそこから離れたハミル。キイル国長は逃げ遅れる。
哀莉の眼にはマーブルの色がよぎった。
成長の色を表すその色に目を細める。
割れ目から小さな芽が出た。
そしてそれは異様な早さで成長し大木となった。
兵士、国民、敵兵がそれぞれ身体を仰向けから起こし始め、それらを包むように木は植林のように太い幹を成し緑を作る。
キイル国長は木にまたがり落ちないようにすることで精一杯だった。
哀莉の後方に倒れていた兵士が起き上がり地を指で掻きむしる。
「魔女め…! 」
それに気付いたのは緑川だった。
兵士は手に持っていた剣を哀莉に目掛けて放つ。
「哀莉‼ 危ない‼ 」
剣の動脈を塞ごうと緑川は走り出した。
鈍い音がする。
哀莉の右腹部に剣が突き刺さった。
振動と共に服が血で滲み、哀莉は振り向く。
哀莉に視線を送られたその兵士は後ずさりをした。
哀莉の顔は、人間の顔ではなかった。
歴史に名を残した、あの魔法使いのようなそんな予感を誰もが抱いている。
「… 哀莉? 」
哀莉が遠くへ行ってしまったような、そんな気がした緑川は大量の血が流れ始めた哀莉にそれが現実となることへ恐怖に襲われた。
「哀莉‼ 」
『哀莉! 』
「哀莉さま‼ 」
三人が近寄ろうとも哀莉の気が強くて近寄れない。
いまも血が大量に流れる中、剣を腹部に刺されたままに哀莉はタクトを振り始めた。
服はさらに鮮血色へと染まっていく。
「哀莉、やめてくれ! 」
タクトの先から放たれた光は大木の緑へと向けられた。
上空を木が覆い、影が生まれる。そして、拡がる緑から雨が降り始めた。雨は兵士、国民、敵兵を包み込むように浴びせる。
雨は木の根に入り込む土壌からの栄養分が雨となり、それは恐らく人間の歩いた大地の過去の蓄積だった。
次第に人間も、AIのクォーターも涙を流す。
緑川もジョアンもナルタも泣いていた。
雨は降り続き、哀莉の腹部からも血が流れ落ちている。
「どうして俺たちは泣いているんだ…? 痛く辛い、けれども懐かしい… 」
涙を流す者たちはみな、自身を抱きしめた。
「本当はずっと前から、こうしたかったんだよな… 」
剣や弓矢などの武器から手を離した者は対峙する。それは、過去と自身とだった。
タクトを木に向け、哀莉は呪文を唱える。
〔ア・ダ・レート/ジュリ・マーア〕
すると木は大地を離れ上空へと昇っていった。
空の中腹まで行ったところで木は立ち止まり、柔らかい温度の雨を一度降らせる。
そしてそのまま姿を消す。キイル国長も共に消えた。
「消えた… 」
眼鏡に付いた雨の雫を服の裾で拭き、かけなおした緑川が一瞥したとき哀莉は倒れる。
「哀莉! なんだってこんな無茶なことを… 」
哀莉の紫陽花色のパープルの気はなくなっていた。尚も血は流れ続けている。
「ごめん、緑川くん…。 ハミルいる? 」
ハミルが傍にいた。
「ハミル、お願い。貴方がすること、解るわよね? 」
「ああ、承知した。まったく、貴方というお方は… 」
ハミルが立ち上がり剣を地へと突き刺したとき、風が吹く。
壇上に上がりハミルが叫んだ。
「皆の者、よく訊け! 私は前国長の息子、名はハミルと申す! 前国長の意思を真に受け継ぐ者だ。
戦士たちよ、いままでよく戦った。けれどももう戦いは終焉を向かえよう。
隣国の戦士たち、我々は其方たちの国へ和平交渉を申し込む。
これ以上血を流す必要はないのだ。
いままでの戦いで死にゆく者、大きな傷を受けた者、そしてすべての者が心に傷を負った。
これからは互いを慈しみ、癒すのだ。
そしてこの世を生きる者として正しき道へと進もうぞ‼ 」
大地は静寂が拡がる。
そして歓声へと変わっていった。
「哀莉、聴こえるか? この歓声」
緑川の腕の中で哀莉が微かに目を開ける。
「… 良かった」
「李簾彌、哀莉さまはこのままじゃとてもじゃないけど… 」
「… ああ、わかってる」
伝いそうになっているものを袖で拭う緑川は頭を巡らせていた。
『哀莉…、 あなたって娘は』
緑川の頭上に一羽の鷹が風と共に舞っている。
「そうだ、これなら… 」
緑川は哀莉の持っているタクトを横にずらした。それは想像以上の重さなのは承知の上ではいたが、それは比を超えている。
「李簾彌、なにをするのです? 」
緑川は手に弓を持ってタクトへと矢を向けていた。
「オックスさんと哀莉が言ってたんだ。僕に魔法をひとつ委ねてくれた。
僕の想いと行動が共鳴したときはじめてこの魔法が発動されること、そして僕の心と共鳴した時に初めて矢がその標的へ向かって飛んでいくとふたりは言っていた。
だから僕がこの矢を撃ってタクトを持てるように、それから僕に一度だけ魔法が使えるように想いを向ける」
緑川が標準を合わせ矢を放つ。
矢はタクトへと向かって飛び、刺さった。
「やったぞ! 」
その時、緑川の放った矢が粉になった。
「そんな…、 どうして」
「李簾彌、これは一体どういうことでしょう? 」
『哀莉を助けることは出来ないの⁉ 』
「哀莉… ! 」
意識を失っている哀莉の顔を一瞥した緑川は口を噛む。
その先になにかが降り立ったことに気が付いた。
そこには鷹が翼を収めたところだろう。その鷹はLのモニュメントの首飾りをしていた。
緑川と鷹は瞬きをするまで目を合わせる。
そして緑川が瞬きをした時、鷹は大きな翼を拡げ風が生まれた。
その風に粉となった矢がタクト全体にまんべんなく行き渡り光が放たれる。
恐る恐る緑川はタクトを手に取った。
「持てた…、 持てたぞ‼ 」
「やりましたね、李簾彌! 」
『凄いわ! 』
再びその先を見たとき、鷹は居ない。
頭上を空高く舞っていた。
「あの鷹は一体なんだったのだろう」
「李簾彌、哀莉を頼みます」
『お願いよ! 』
「わかったよ」
腕に哀莉を抱えたままタクトを持ち、その先を哀莉に向ける。
「哀莉、絶対死ぬな」
〔ア・ダ・レート/ジュリ・マーア〕
タクトから放たれた光が哀莉を包み込んだ。
時間のラグと共に哀莉の様子が変わらない。
そして緑川が瞬きをした時、哀莉の顔色が少しずつ血色を戻していった。
哀莉の負傷した傷跡は凝固作用を起こしていく。
「哀莉、しっかりしろ」
「哀莉さま」
『哀莉… 』
ゆっくりと、哀莉の瞼が開いた。
哀莉の髪の毛を撫で、緑川は頷く。
「大丈夫だ、哀莉」
微笑んだあとで哀莉は瞼を閉じた。そのまま寝息を立てている。
「ジョアン、ナルタ、哀莉は大丈夫だ。少し回復の時間が必要のようだよ。
ハミル、ベッドを用意してもらえるかい? 」
「ああ、今すぐ用意させよう」
朝焼けは紫だった。
やさしさとミステリアスとアンフェアが混じりあって出来た色のように思いながら緑川は哀莉を抱えて安息へと向かう。
哀莉の胸元の水のネックレスは型の中で、空気を含み静かに揺れていた。
ベッドの中で哀莉はうなされている。
汗を布で拭き、緑川は哀莉の髪の毛を撫でた。
南の象徴するものは、赤と紫と華やかさ。煌めく、そうそれはまるでルビーやダイヤモンド・スワロフスキーのようなもの。
輝きが増すそこにはアート・ミュージアムがあったわ。
独りで訪れた哀莉の胸元で型から外れた水のネックレスが光っているの。
「ここはどこ? わたしは確か、腹部を刺されたはずよね」
ー 大丈夫よ。哀莉はいま、緑川の見守る中でゆっくり寝ているから。時々うなされているけどね。
「そう、良かった」
ー ほら、香るでしょう? 夢の香りよ。
「ええ」
哀莉は腹部を手で触ったわ。なにもない、傷跡もないことを確認したの。
アート・ミュージアムの扉が開くと、中から老婦人が現れたわ。ジュエルの輝きが老婦人の狡猾な様相に良い働きをするわ。
「ようこそ、お待ちしておりましたよ。噂通りのお綺麗なおひとが御両名でございますね」
― 恐縮ね。
「ここが南の美術館ね。失礼してもよろしいかしら? 」
「もちろんでございましょう。さあ、ごゆっくりとどうぞ」
そこに踏み込むと光が足元に宿り放たれたの。
そして同時にこの美術館の土地が底上げされて天に近い位置にわたくし達はいたわ。
「これが真に此処のあるべき場所でございます」
「わたしは哀莉と申します。貴方のことはなんと呼べばよろしいでしょうか? 」
「ワタクシには名がございません。そのまま、老婦人とでも呼んでくださいまし」
「老婦人、貴方はジュエルの研究をしていると訊きました。その道で賞も受け取っていると…。
教えてほしいことがあるの。
アーリィが最後の魔法をジュエルに託したって訊いたわ。一体アーリィはなにを託したの?
それから、Lの言葉の意味ってなんなの? 」
― …。
「ほう。なにも明かしていないのですか…。 これはワタクシも野暮なことは出来ません。
最も最初からそんなつもりはさらさらなかったのですが」
哀莉の足元の光が弱まってきても、美術館に吹き抜く風の先に赤く紫に染まる空が近いから華やかさは常に保たれていたの。
この美術館に展示されているジュエルもその空に反射して色と輝きを尚一層増しているわ。
「すべてをお話しすることは出来ないでしょう。ですがワタクシには役目がございます。それを果たすことが使命でございます」
「役目? 」
「此処の在るべき理由をお考え下さいませ。少々考えれば簡単でございましょう」
「此処は、南の美術館… よね」
此処が在るべき理由を哀莉は探ったの。
南は華やかさを象徴すること、そしてこの美術館もその名の通り煌めきに満ち溢れていることを再確認して哀莉は足元から放たれる光のその先をみたわ。
天井まで伸びるその光は屈折に屈折を重ね、足元に返ってきたときに哀莉は気が付いたの。
「わたしを介して影になっているわ」
そのまま俵を向くと哀莉の目の前に空間が生まれ、ふたりの女性が立っていたの。
その二人はヨーク・ロペとジェニファー・ロペ。
ふたりは哀莉の心の中で新たに生まれていた、ようね。
「ヨーク姉さんは私の憧れよ。いつだって夢を持っていて瞳がきらきらしていて私には眩しい存在よ」
「なにを言っているのよ、ジェニファー。照れるじゃない。
夢は素敵よ。
なんたって心がときめくの。
私はすべてに感謝するわ。この世に生まれたこと、自然に恵まれているこの世界、水と空気、緑に綺麗な空。そして限りない生命の源」
「本当にヨーク姉さんはいいわね。私も見習いたいわ。本当に、出来ることなら」
「ジェニファーは私にとって可愛い妹よ。いつも私の後ろを歩いて愛しくてたまらないの。
それにあなたには特筆した才能があるわ。素敵よ」
「へえ、そうなの。そうだったんだ。
そういえば、ジェームズ兄さんもレベッカ姉さんもエリー姉さんも小さい頃からヨーク姉さんの夢物語りに一緒になってはしゃいでいたわね。
みんなが輪になっているところの外で私はいつも人形と一緒にいたの。
人形に話しかけている内にわたしは人形と話せるようになった。
そしていつの間にかみんなとは違う能力を宿してしまったの。
わたしは兄さんや姉さんたちと一緒が良かったのに」
「ジェニファー? なにを言っているの? みんなあなたのことは大好きなのよ」
「エリー姉さんは少し気付いていたみたいね。
私が人形となにを話していたのか、を。
そしてあの時のあの事故の炎上もそう、エリー姉さんはなにかに気付いているの」
「なにか悩みがあるなら訊くわ。あなたを独りぼっちにするつもりなんて私たちはこれっぽっちも思っていないのよ。
いまコーヒーを淹れるわね。
レベッカ姉さんより美味しくは淹れられないけれど… そうそう、ジェニファーはコーヒーフレッシュよりも新鮮なミルクがいいのよね」
「…
兄さんも姉さんたちも本当に単純よね。
それもそうよ。ヨーク姉さんの夢物語に胸躍らせるくらいなんだもの。
そうね、簡単だった。
兄さんが歯科医師国家試験の日に私が具合を悪くしたと言ってそれをヨーク姉さんの勘違いからだったと伝えたわ。
レベッカ姉さんには姉さんの婚約者とヨーク姉さんが休日に一緒に歩いていたと伝えたの。
けれどエリー姉さんには近づかなかった。
エリー姉さんは私の考えていることを見透かしてるような気がして出来なかった、怖かった」
「ジェニファー、あなたなにをしたというの? 」
「まだ気付かないの?
わたしは兄さんや姉さんたちの想っているような妹じゃないということよ」
哀莉の目の前にいるヨークとジェニファーを覆う空気が異様に変わったの。
どうやら、なにかが地に引き込まれたようね。
隣にいる老婦人が笑みを浮かべているわ。
「ほっほ。天王星が地に堕ちましたように」
唾を飲み込んだ哀莉を合図のように、追い風が吹いたの。ふたりの髪が揺れる。
目の前にいるヨークがジェニファーを抱きしめたわ。
「なにをするの、ヨーク姉さん。やめて、離して! 」
「離さない、離さないよ。ジェニファー」
「いや、やめて! こんなことしてもらう資格なんて私にはないの」
「自分の罪を私に話したのは、罪を償いたいからでしょう? けれどその償い方が解らなかったのよね。
ごめんね、辛い想いさせてしまったね」
大粒の涙がジェニファーの瞳から零れ落ちたの。
まるでこどものようにジェニファーは泣きじゃくっている。
「もっと早くこうして抱きしめてあげるべきだったね、ジェニファー。
けれど、あなたも改めるべきところはあるわ」
「… 嘘を言ったことよね。ごめんなさい」
「違うでしょう? あなたは、こうしなければならなかったのよ」
ヨークはジェニファーの両腕を持ち、クロスさせてジェニファーの身体を包んだわ。
「ヨーク姉さん? 」
「ジェニファー、あなたは自分で自分を抱きしめてあげなさい。
誰より自分を慈しむことができるのは自分なの。
人生では時折、孤独を感じるシーンが訪れるのよ。
そんなときはこうやって自分を愛しているというランゲージのニーズがあるのだから」
「私って、こんなに温かいんだね」
「そうね、自身の体温を感じることはなにより大切ね」
「… ヨーク姉さん、本当に死んじゃったの? 」
「私は逃げてしまったの。ジェニファーに偉そうなこと言えないわね」
「逃げた? ヨーク姉さんは一体なにから逃げたの? 」
ヨークは少しだけ微笑んで地に堕ちた天王星をみたわ。そしてその視線に動かされるように天王星は空へと昇華したの。
「ヨーク姉さん? 」
「もう行くね。ジェニファー、自身を見失わないように、ニーズを大切にね」
そのままヨーク・ロペは滲んで消えていったわ。
そして哀莉が瞬きをするとジェニファー・ロペも目の前から消えていたの。
「少しずつ、視えてきたことでしょう」
哀莉の胸元の水のネックレスが微かに揺れたことに、気付いたわ。
「アーリィも逃げたの? 他人よりもなによりも、自分から逃げたのね」
辺りが光に満ちつつあるときに哀莉の目の前の壁がすべて鏡になるの。
目の前に映る哀莉の耳には紫陽花の痣が濃くなっている。
哀莉がうつむいて微笑んでくれたの。
「アーリィは気付いていたのね。
自身に映る痣という猜疑心はなにより強い希望の力になること。
マイナスの感情のその先をアーリィは視ていた。
そしてそれをわたしに授けたのね」
「哀莉さま、年寄りのおせっかいでございます。
あなたさまの名前の由来、ご存じでしょうか? 」
「哀は〈哀しみ〉の意味を持つから、そんなに良い意味だとは思っていなかったけれど…
ただどうして哀しみの意をわざわざ使ったのかはわからないわ」
「哀は〈哀しみ〉、そして莉は〈茉莉〉ジャスミンのこと。
つまり人間誰もが持つ哀しみをジャスミンのように爽やかな香りで周囲を包む風のように、という願いが哀莉さまの名前に込められているのでしょう」
「そう、全然知らなかったわ。
けれど、そう、そうだったのね。嬉しいわ」
「知らないのも当然のこと。
哀莉さまのご家族にはワタクシがお世話をしましたからね」
「お世話? 」
「ワタクシの研究の成果を哀莉さまのご家族に使わせていただきましたよ。それはもうとっておきのもの、魔法使いの成りを変えさせていただきました。
そしてあなたさまから物理的な距離を測るように…
最近ではその効力が弱まってきてしまいましたがね」
「老婦人にそんなことが出来るわけがないわ。
だってあなたからは魔法の力を感じないのよ? 」
「言ったでございましょう。研究の成果だと…
そう、ワタクシは魔法は使えないのです。
しかし、ジュエルの研究を行っていくうちにわかってしまったのです。
アーリィが魔法をジュエルに託したように、ジュエルにはそのような神秘的な役目があること。
そして研究を進めるうちにワタクシも体得してしまったのでしょう。
だからこそベフもワタクシに目をつけたのでしょう。
このこたちを覚えてございましょうに」
老婦人は哀莉の方へ硬くて丸いダイヤモンドを手の平の上に差し出しわ。
そのダイヤモンドから言葉が聴こえてきたの。
そこにはフランス語で歌っているスズメと、イギリス英語で東洋の哲学を語っているフクロウがダイヤモンドの中で囚われていたわ。
「このこたちは、わたし達の旅の途中でよくうたっていたスズメとフクロウ… 」
「ご名答。このこたちもワタクシの日々の研究の賜物でございましょうに」
哀莉がその瞬きを開いた時、老婦人は哀莉の目の前でにんまりと笑ったの。
不気味さ故に哀莉は唾を飲み込んだその時、老婦人は哀莉の胸元のネックレスをもぎ取ってしまう。
「返して! それは大切なものなのよ‼ 」
「ほう? これがなぜ哀莉さまにとって大切なものなのでしょう」
「小さな頃からずっと一緒だったの。気付けばそのネックレスがわたしの傍にいたわ。だからそのネックレスはわたしの身体の一部のようなものなの」
「なぜ小さな頃から一緒だったのでしょう? なぜ哀莉さまのお傍にこのネックレスの存在があったのでしょう? 足元ほどよく考える機会を失い気付いたときにはもう手遅れなんてナンセンス」
「なにを言っているの? 」
「微かに感じているのは知っていましょうに。ただ本当に、哀莉さまは真髄を掘り起こさない。
掘り起こさなければ神髄は開くというのに」
老婦人は指を鳴らしたの。
そして哀莉はその場から消えたわ。
恐らく、この夢から去ったのね。
「さあて、お目当てが目の前にいるのはマリッジブルーのような気分でしょう。
ワタクシもこのような歳を召してこんな気分になろうとは、人生とは分からないものでしょうに」
老婦人は哀莉から奪った水のネックレスを前にしてにやり、と笑うの。そして強く握りしめたわ。
「貴方さまのお力は存じておりますよ。さあ、身の上はワタクシのもの。ワタクシの要求を飲んでいただきましょう。いまこそワタクシの研究が真に発揮できることでしょうに」
― 老婦人、あなたはわたくしのなにを知っているというの?
「結構知っておりますよ。貴方さまが空気の振動を使ってこの世にある、あらゆるもの、事、そして人の心に入り込んだりすることが出来るということをでしょうに。
そしてそれが遥か彼方、距離があろうとも厭わないということもでしょう」
― なるほど? わたくしには選択肢はない、ということね
「存ずるままに」
老婦人はそのまま頭を下げるの。
「哀莉さまの身辺と心の行方をワタクシに授けてくださいましょう」
― わかったわ
水のネックレスは光を帯びるの。
そしてそこは、哀莉が目を覚ましたところ、だったわ。
「哀莉、… 哀莉! 」
緑川の心配そうな顔を目の前に哀莉は目を覚ますの。うつろな目をして哀莉が口を開くわ。
「… 緑川くん、ここは? 」
「ビユ国の館だよ。キイルが住んでいた館だ。いまはハミルがこの館、いや国全体を指揮しているよ。哀莉は三日間眠っていたんだ」
「そう… 」
緑川をみた時に安堵と手のひらに感じる腹部の包帯の存在に哀莉は気付いたの。何度も何度も哀莉は確認するように患部がそこにあったわ。
「傷跡、あるね」
「止血はしてあるさ。あとはゆっくりと休んで、体力をつけよう」
そのまま哀莉は首元に手を触れたの。そしていつもしてある水のネックレスがないことに気が付いたわ。
勢いよく起き上がり、哀莉は周辺を見回すの。
「ネックレス、わたしのネックレスはどこ⁉ 」
「哀莉! 急に起き上がったりなんかしたら身体に障るよ! 」
腹部の急激な痛みを抱えた哀莉を緑川が身体を添えるわ。
「哀莉さま、ゆっくり寝ていてください」
『そうよ、哀莉。いまは休むことが先決よ」
「水のネックレス… ああ、そうだ。思い出したわ。夢でみた、狡猾で親切な老婦人がわたしのネックレスを奪ったんだ」
「哀莉、なにを言っているんだ? 」
ことのあらましを哀莉は記憶の許す限り緑川とジョアン、ナルタに話したの。
夢の中の南の神秘を、神聖なままに、壊さないように話すと哀莉はそのまま眠りについたわ。
「そんなことが夢のなかであったというのか」
眼鏡の曇りを拭きながら緑川は哀莉の寝顔を見守っているの。
「李簾彌、つまりは次の行先は言わずもがな、ということですね」
『そうね。それでも哀莉の回復を待ってからよ』
「もちろんさ。しかし、一体なにが起きているんだ? それも、哀莉はなにを背負っているのだろう」
「李簾彌、哀莉さまは大丈夫ですよ。なんといったってあのアーリィ・アーサーの末裔ですよ。
ただ私たちはそれに甘えすぎてしまったのです。
本当は哀莉さまに顔向け出来ない立場なのです」
『グレージュのこと、哀莉たちが話しているのを訊いていたのよ私たち。顔から火が出る程恥ずかしかったわ。
哀莉のこと信じずにラベルに気を取られていて中身の真実と向き合おうとしなかった私たちの愚かさを哀莉は責めずにいたのよ』
ジョアンとナルタが溜息混じりに哀莉の寝顔をみながら申し訳なさそうに緑川に言うの。
「哀莉はそんなことに囚われたりする人間じゃないさ。
それよりもジョアンとナルタがそんな風に思ってくれていることに感謝するような娘だよ」
「李簾彌、ありがとうございます」
『哀莉、早くよくなって… 』
「哀莉が休息をとっている間、僕たちに出来ることをしよう」
「出来ること、ですか? 」
『それってつまり…? 』
「決まっているじゃないか」
にやり、とした緑川は哀莉を一瞥するわ。
そうね、哀莉が命を懸けてこの村を守ったからには緑川も自身のするべきことが明確だったのね。
― まったく、そういうところ瓜二つなのよね。
哀莉が休息をとっている頃、緑川たちはハミルの隣国との和平交渉の一助となっていたの。
書類の作成や交渉に付いて行き、アーリィの末裔と共に旅をする者としてそれなりの風格を表に出し、緑川は知能を、ジョアンは人望を、ナルタは母なる大地のような神聖な生き物としての象徴としてビユ国の復興に貢献を尽くしていったわ。
その間の8日間、哀莉は眠ったままだったの。そしてその9日目に身体の回復をして目が覚めた哀莉はこう呟いていたわ。
「同じ夢を繰り返し繰り返し、みていたの」
そう言っていた哀莉を緑川は抱きしめていたの。
「哀莉、よかった… 」
「緑川くん、心配してくれてありがとう。あのね、次の行先は… 」
「わかっているよ、南の美術館だろう? 」
コクン、と頷く哀莉にジョアンとナルタが涙ぐんでいるわ。
「哀莉さま、回復されてなによりです。それと、グレージュのことですが… 我々の不躾故に哀莉さまに酷いことをしてしまって何とお詫びしたらよいものかと、ずっと考えておりました」
『哀莉、本当にごめんなさい』
「ジョアン、ナルタ。気にしないで、わたしも言葉足らずだったの。ごめんなさい」
「哀莉さまが謝ることではないです」
『そうよ、哀莉。私たちが悪いの』
哀莉とジョアンとナルタは目を合わせ笑い合うの。
「じゃあ皆が悪者同士でお相子ね」
「哀莉さまの広いお心に感謝です」
『今度皆でミルクでティータイムしましょう』
三人の光景をみて緑川は胸を撫でおろしていたわ。
「まったく、世話の焼けることといったら… 」
その時、哀莉は左耳を片手で押さえたの。
「どうしたの? 哀莉」
「ううん、なんでもないよ。少しノイズがきただけよ、緑川くん」
AI特有の機械音が近づいてくるわ。
「お目覚めのようでなによりで、救世主殿」
初めて会ったときの硬い表情も少し柔らかくなったハミルが哀莉たちのもとへと訪れたの。
「ハミル、ありがとう。お陰ですっかりよくなったわ。一介の国長も板についた感じね」
「おだては勘弁だ。それよりも貴方とそして共の旅の者、李簾彌・ジョアン・ナルタにも世話になってしまったよ。私と家臣や臣下の間にも入ってくれたお陰で良好な関係が作れている。
感謝しても足りないさ」
「そう。ハミルのもともとの人柄もあるのよ。
それにしても皆わたしが休息している間によくやってくれていたのね。
ビユ国もこれからが勝負ね」
「ああ、貴方の言う通り一介の国が隣国と長い戦いをしていたんだ。まだまだ課題は残されているさ」
「ハミル、あなたなら出来るわ」
「ああ、ありがとう」
「それから、貴方の後天的なAIのクォーターとしての成り立ちのことだけど、わたしの魔法でその3/4分を取り除くことが出来ると思うのよ」
「… いや、それはお断りさせてもらうよ。
なんというかな、もちろんその事でいくつもの晩を底沼として過ごしてきた日々だった。
しかしその日々が現在の私をつくったのもまた事実。
レイニーブレインがより美しい雨として降らすのは私の任務と感じている」
「そう… あなたの決心、応援するわ」
「それよりも、貴方に訊きたいことがある。
何故、貴方は旅の通過点でしか過ぎないこの国に命を懸けてまで救ったのだ?
通り過ぎようとすれば出来たことではないか」
「… 考えたこともなかったわ。直感に従っただけだからそれに理由は必要ないと思ってはいたけれど」
「なるほど。歴史に名を残す者の末裔なわけだ」
『哀莉らしいわね』
「そうですね」
「まったくだよ」
そのまま哀莉はビユ国を散歩したわ。
国民は少しずつ精気のある眼をして村の再建に全力を尽くしていたの。
行く先々で国民は哀莉に気が付いては手を取り感謝を伝えてくるわ。涙を流す人もいたの。
不足していた食料は和平交渉の成果があって隣国や近くの村や町から援助をしてもらえるようになったそう。
栄養が徐々についてきた国民たちは住まいを試行錯誤しながら建築したり、国で作物を作れるように援助をしてくれた隣国や村、町から知識を得てそれらを実行していくの。
けれど決して戦いの心の傷がなくなることはない。
それでも哀莉が与えた生命の大木が国民に揺るがない痛みと希望を同時に刻んだのね。
哀莉の見上げた先に赤く紫に染まる空がある。
それは南の美術館のあった色だったの。
胸元に手をあて虚しさを感じてくれていた。
腹部の傷跡をまさぐり足跡を感じる。
左手をぎゅっと握りしめて、大地をみて、空をみる。
小さく呟くの。
「行こうか… 」
「ええ、行きましょう」
振り向くとそこにはジョアンが穏やかに笑っていた。
『もちろんよ』
ナルタが尾っぽで円を描くようににんまりしている。
「哀莉、行こう」
緑川が懐かしい顔で微笑む。
「… うん! 」
哀莉が三人のもとに近づく時、後ろで赤く紫に染まる空が彩っていたわ。
雲が4隻の船のように連なって、風に流れている。
哀莉たちはハミルのもとへ行き旅立つことを告げたの。
「そうか、気を付けて。
私、いや我が国民はいつの日も貴方の援護をしよう。
困ったときは言ってくれ」
「ありがとう、ハミル。いってきます! 」
手を大きく振って哀莉たちはビユ国をあとにしたわ。
そして離れたところで哀莉たちは手を繋ぎ合うの。
「夢でみたあの南の美術館の場所、もうイメージは出来ているわ。皆、いい? 」
「いつでもいいよ」
「どんとこい、でしょう」
『OKよ、哀莉』
目を瞑り、哀莉は呪文を唱える。
緑川もジョアンもナルタも続いて目を閉じたわ。
4人の脳内がマーブル模様になったその時に身を委ね、そして場所はそこ、になったの。
~赤い鉄塔 記憶の9年~
赤く染まる鉄塔の隣に聳える落葉樹 そこから言の葉たちが
ひらりと 裏側に黒き斑点
「いなくなればいいのに」
同じ血の流る大切へ送る言葉を
削除出来ずにここに在る
リプレイされる言葉の音に蓋をして
記憶許す限りの9年経ち
耳に入り込む母国語は
生きるという途中にノイズとなり
他国の言語を手中にすることで安堵感
しかしそれは繰り返し
無数の言語を手に入れ それでも
満足することが出来なかった
人間の驕りは神に怒りを
空想と妄想の不可能は
だから気持ちが良かったのに
誰かが どうして水を差す
気が付くと水のネックレスはわたしと共にいる
肯定と否定を繰り返し
落葉の点綴に当たり前のように
存在する黒い斑点は
自身の黒点を
否定すればするほど苦しくなり
黒を認めることで
少し柔らかく
9年の歳月で現在(いま)のわたしには言語の色を手に入れた
その内のひとつ鮮血の幸せは
9年かけてやっと出逢えたきみとの
未来をつくる
そんな色
バベルの塔は築かない
手中の言語たちに付与する鮮やかな
季節に相応しい色を
わたしが選ぶ
そして
自身の黒もきみの黒も
全て
わたしが愛しい
ごめんなさいと大好きを
流る血液に贈る
それに理由なんてないよ
それはね
未来に理由があって此処があるだけだから
赤い鉄塔は流る血の如く わたしの身体
高台の赤と紫と華やかさは健在なの。
南の美術館の中でジュエルの光り輝く中に老婦人はわたくしといるわ。
「そうでございましょうか。哀莉さまはそのように共に先へと進まれているのでしょう」
老婦人は目の前に水のネックレスを持ってくると、卑しく笑うの。
「よろしい進捗具合でしょうに」
光の角度が変わったその瞬間に赤く紫の空が一層濃くなるわ。
「来ましたか」
目線をその先に向けた老婦人は一歩前へと進むの。
美術館の入口のドアが開くと、影が四体潜むんでいたわ。
「ごきげんよう、老婦人。夢の中ではどうも」
「お待ちしておりましたよ、哀莉さま」
「返してもらうわよ、わたしのネックレス」
「ほお、わざわざ遥々と… 訊けば貴方がたご一行は仲違いされたとお見受けしましたが? 」
「だからなんだというの? その真実をあなたは知らないでしょう。そこから得るものの価値は絶大なのよ」
「偽りは快楽を覚えましょうに。哀莉さまの信じる偽りの美学とは、それは結構なことで」
手のひらを哀莉の方へ向けた老婦人から、館内の光が一斉に哀莉たちの方向へ向かってきたの。
哀莉は呪文を唱えバリアを張るわ。
跳ね返った光の残党が散らばるように乱反射し、ジョアンとナルタの方へと向かってきたの。
ジョアンは剣を構え防御し、ナルタは俊敏に躱すわ。
美術館を構える高台はその倍以上に底上げされ高さが増すの。
タクトを持った哀莉は更に呪文を唱え続け、その先から攻撃の灯が走る。
老婦人は手のひらで光の円を放ち、灯と激しくぶつかり合う。
タクトに力を込める、それを受ける光の円は一層大きくなり哀莉の灯が屈折してしまうわ。
灯が館内のあらゆる光を受け反射していく。
光は時に扉になったり大きな窓に移り変わるの。
灯の行く先をみた老婦人はその大きな窓へと歩を進み、そのガラスを開け空をみる。
そこにっは濃い赤く紫に空があるの。そして翼の影がいる。
哀莉たちは灯の乱反射を躱しながら老婦人のあとを追う。
その灯が老婦人の手に持つ水のネックレスにあたったの。
その反動でネックレスが老婦人の手から離れ、窓の外の高台からの急な崖に落ちてしまう。
― 哀莉‼
哀莉は窓へと瞬時にワープしたわ。
けれど、間に合わない。
― これで、お別れ?
窓の外に乗り出した哀莉はそのままネックレスと共に落ちる。
寸前に、緑川が哀莉の身体を抱き寄せたの。
その反動で緑川は窓の外へとはみ出し、崖へと吸い込まれる。
哀莉が、咄嗟に緑川の手を取るわ。
緑川の片方の手には水のネックレスがある。
「緑川くん… 絶対に離さないから」
重力は皮肉にも味方をしてくれない。
哀莉は両手で緑川の手を掴んでいたからタクトを持って魔法を使えることが出来なかったの。
ジョアンもナルタも老婦人が放つ光の攻撃を防御することで哀莉たちのもとへ駆けつけることが出来ない。
老婦人が横にいる哀莉をみて狡猾な笑みを浮かべるわ。
「哀莉さまの言う価値とはこの程度でございましょうに。自身の偽りを認めたときの苦痛の美しさといったらたまりませんでございましょう! 」
「… 言わせてもらうけど、このままだったらわたしの水のネックレスごと崖の下に落ちるのよ? 」
「それでしたらワタクシが貴方がたの死体と共に光を使って落ちた先のネックレスを見つけましょう。
哀莉さまの苦痛に満ちたお顔、なんともお美しいでしょうに。
充分堪能させていただきましょう」
「哀莉さま、李簾彌! 」
『哀莉! 』
老婦人が手のひらから放つ光でジョアンとナルタを攻撃する。
ジョアンもナルタもそれを躱すことで哀莉たちのもとへと駆けつけることが出来ない物理的な距離が生じてしまうの。
緑川は抗えずに、けれど決して水のネックレスを離そうとはしない。
哀莉の腕は限界だったわ。
「… 哀莉、手を離してくれ。これを… 」
そう言って緑川は手に持つネックレスを哀莉の手のひらに忍ばせようとするの。
「だめ! 緑川くん」
緑川はネックレスを哀莉に渡すと同時に哀莉の手を離した。
そのまま緑川は崖の底に吸い込まれ呑まれていく。
哀莉はそのまま身を乗り出し緑川を追いかけるように崖へと吸い込まれていった。
タクトを胸ポケットから取り出そうとしても落下の速度が高く哀莉はそのまま崖へと呑まれていく、それだけだった。
ジョアンとナルタの声が遠くで聴こえた気がした哀莉は目を開くの。
これで、終わり… いや、そうじゃない。そうじゃないよ。
一緒に旅をした仲間、ジョアンにナルタ。白いウサギにダッチウサギ。そしてグレージュ、レーンやハミル、みんな… 一緒に過ごした、時間。
さよなら、を瞳に浮かべ、哀莉は薄ら瞼を閉じかけたわ。
その細い視線の先には空から、逆光で影となる翼のようなものが哀莉たちに急速なスピードで近づいてきたの。
それは哀莉に見覚えがあった。
鷹が、Lのモニュメントの首飾りをつけた鷹が哀莉たちの世界でみたときよりも倍の身体の大きさをしていた。
「あなたは… 」
鷹はそのまま哀莉と緑川を崖の底の寸前で背中に乗せ飛翔した。
― まったく、遅いんじゃなくて?
哀莉の手のひらにある水のネックレスが静かに光を帯びるのよ。
【様子をみていたんだ。私はこのような身だ。なんでも自由が効くようでそうではない。そんなこと、百も承知であろう】
鷹が空中を飛びながら言葉を発したことに哀莉は応えるの。
「あなた、話せるの? Lのモニュメントの首飾りの鷹、わたしのマンションにいつも来てくれていた鷹よね? 」
【愛しい女性がいてね。どうにもこうにも逢いにお邪魔していたよ。それよりも、哀莉。すべきことはわかっているか? 】
タクトを握り哀莉たちを見上げている老婦人と目線を合わす。
「ええ… 」
鷹の背に、哀莉の横で緑川がその毛並みに懐かしさを覚えていた。そして身体で言葉が伝ってきていたことを感じていたの。
哀莉はタクトを手に呪文を唱えるわ。
そしていままで以上に大きな灯が老婦人のもとへと攻撃したの。
老婦人は光の円でその灯を反射させようとする。
しかし哀莉の灯の威力が大きく、反射との天秤のバランスが崩れ光の円は崩れ落ち、そのまま灯は老婦人へと打撃を与えたわ。
老婦人はそのまま倒れ込むの。
哀莉と緑川は館内の地上へと降り立つ鷹から身を離し、老婦人のもとへと近づいたわ。
老婦人が声を絞らせる。
「ワタクシの役目は終わったのです。これが生涯ジュエルの研究をし続けたワタクシの真の使命だったのでしょう」
哀莉が眉をしかめ、老婦人に尋ねるの。
「役目? 使命? あなたは一体何者なの? 」
「哀莉さま、貴方さまは… 毒の解析はもう、済んだのでしょうに… 」
哀莉が瞬きをした瞬間にもう老婦人は消えたようにその場にはいなかったわ。
「哀莉、あの老婦人はどこに行ったというんだ? 」
「哀莉さま、一体これは… 」
『哀莉… 』
哀莉はもう一度目を閉じ、そして開けた。
「役目を終えた老婦人はそのまま光に溶けるようにいなくなった。ジュエルと共になるように… 」
「どうしてそんなことがわかるんだというんだ? 」
「暗闇が答えをくれた、そんな気がする」
緑川は哀莉を抱きしめたの。
「哀莉、ありがとう。けれど無茶しないでくれ」
「無茶なんてしてないよ? 」
「哀莉さま、李簾彌! ご無事でなにより」
『なんともなくて良かったわ』
翼で大きく風を起こし、鷹が緑川に千鳥足で近づくわ。
【哀莉を守れ。ワシが出来なかったことをしてくれ】
鷹は嘴でLの首飾りをくわえ、それを緑川の持つ水のネックレスに重ねたの。
それはうっとりと光りLの文字がネックレスに刻まれたわ。
【改めて、受け取りなさい】
― 恐縮ね
ネックレスの水が渦をつくるの。
赤く紫の空から星の光が堕ちるの。
哀莉はそのネックレスを緑川から受け取り強く握りしめる。
気付くと鷹は風を残し空へと羽ばたくの。
神妙な面持をした哀莉に緑川は気付いたわ。
「哀莉? 」
「緑川くん、ジョアン、ナルタ。行かなければならないところがあるの」
「ずっと気になっていたことがあるんだ。
この星が零子不老化したこと、そして水湖の中でのAIが言っていた創造主、そしてグレージュの主人のベフという名の創造主。ハミルが何故AIと人間のクォーターにならなければならなかったのか。
あの老婦人が言っていたこと… 哀莉、毒の解析は本当に済んでいるのか? 」
哀莉の目の前にいる緑川とジョアン、そしてナルタ。
その視線のさらにその先にはスズメとフクロウがいたずらにいる。
相も変わらずフランス語で歌い、イギリス英語で東洋の哲学を語りながら飛び回っている。
「皆、答え合わせをしに行きましょう」
皆の手を取り、円を描く。
「目を閉じて」
3人の脳内がマーブル模様になったその時に身を委ね、哀莉の脳からそれが伝達される。
緑川は小さく口を開くの。
「これって… 」
そして場所はそこ、に… なったの。
「ここは経度0度に位置する場所。アーリィが生活及び魔法を日常にしていた場所、と訊いているわ」
煉瓦造りの古びた洋館、空は天王星の気まぐれで暗い。
「哀莉さま、魔法でワープしてまで何故ここに? 」
『ここがかつてのアーリィの日常の場ね。なんだか懐かしいわ、変な感じね』
「哀莉、ワープする前にみたあの残像って… 」
振り返った哀莉は伏し目がちに緑川とジョアン、ナルタに伝えるの。
「わたし達が目的としていた秘書物は、きっと此処にあるわ」
『どういうこと? 』
「なんということでしょう。しかし哀莉さま、私はここにあるアーリィ様の神殿に、秘書物をみつけ姿を見失ったときからここに居たのですよ?
その頃に秘書物なんてございませんでしたよ」
「… 行きましょう」
「哀莉… 」
緑川が口を一文字にして、ずれた眼鏡を直したわ。
小さな扉を開けると、大きな星の家が拡がる、かつての日常の場所。
洋間の地下室、この家に魔法を充満させたその中心部。
アンティーク調のテーブルに椅子と燭台、蝋とマッチ。暖炉と相変わらずに人形が飾られてある。
哀莉は燭台を180度回転させて呪文を唱えたの。
燭台の置かれてある後ろの壁が開き、薄暗い階段が現れたわ。
そう、日によって地下室への扉が違うようにしたのよ。哀莉はもう、リンクさせられるようになっているの。
そして哀莉はLの文字が刻印された水のネックレスを型にはめたの。
― ありがとう。知っているけれど、直接本人の口から訊きたくないこと、気付いてくれていたのね。
微かな灯と左右の壁をつたう。
壁にある宝石の輝きの美しさのおかしな違和感を残したこと。
古びた大きな扉。
重々しく古びた扉を静かに開ける哀莉たち。
そこは神殿、そして礼拝堂
そこに居る彼は、哀莉たちに微笑んだ。
「ようこそ、神聖なるアーリィ・アーサーの神殿へ」
オックス・ワーズ。
彼が振り向き哀莉たちに、そう云った。
「オックスさま、申し訳ありません。秘書物をみつけられずにここに舞い戻ってきてしまいました」
ジョアンがオックスのもとへと近づこうと歩を進める。
哀莉がジョアンの前に腕を差し出し、それを阻止する。
オックスの手にはひとつの書物が開かれてあった。
ジョアンが見覚えのあるそれ、を重点するわ。
「オックスさま、それは秘書物…。 何故それをオックスさまがお持ちなのでしょう…? 」
オックスは眉ひとつ動かさずに哀莉を見つめていた。
哀莉もそれに応えるようにオックスを見ている。そして哀莉が開口した。
「時間の進捗が把握出来ないほどのひと達と物事。
それらは一体、偶然なのか必然なのか… いいえ、それ以上に偶然と必然は背を向け合い、時がきたらひとつになることを運命付けられていたように思えてならないわ」
「ほお? 哀莉よ、旅路でなにがあったであろう? 」
「哀莉… 」
「哀莉さま? 」
『哀莉? 』
「オックス… その演技力、わたしには無効よ。
水湖で戦ったAIからこの星の創造主の存在を知ったわ。そしてそれから実験台にされたうさぎ。紙に書かれたであろう、ある文字。
時にひとりのAIの心を操りこどもまでも犠牲にしている。
東の刑務所での事務室での一件、オックス… あなたが関与している筈。それどころか、あなた自身がレーンの情報媒体を破壊した帳の本人よね? 」
「なにを根拠に言っとるのかわからんのお」
「窓の淵に残っていたわよ、茶色い土のような粉。これはオックス、あなたが調合したココアの粉よね? レーンを谷に閉じ込めたのもあなたね。恐らくレーンに気付かれてはいけないことに気付かれてしまった、というところかしら? これは仮説に過ぎないけれどLの言葉の意味をレーンに気付かれてはならなかった、レーンの幼さ故… かしら?」
「ほお… 」
「グレージュから夫といわれる名を訊いたときから引っかかっていたの。ベフという名。そしてあなたのオックス・ワーズの名。
ワーズとは言葉のこと。
そしていつもわたし達の旅に付いてきていたスズメとフクロウ。それはフランス語で歌いイギリス英語で哲学を語る。
ベフというフランス語、そしてオックスというイギリス英語。
意味は同じ雄牛を示すのよ。
いつでも答えは添えられていた。
わたしは愚かよ、すぐに気付けなかった」
「ほう? そこまで言うなら疑惑は確信に変わっているようじゃな? 」
「貴方のその言葉が何よりの証拠よ」
「オックスさまが創造主? まさかそんな… 」
オークの杖を持ったオックスがその先を少しずつ魔力の集合体を創り始める。
「最初に此処に訪れた時、緑川くんのココアに毒を入れたのもオックス、あなたの仕業ね。
神殿に行っている間に魔法を使って毒を入れたのよ。
そしてあなたはわたしが毒を自身の体内に入れ込むことをよめていた筈よ。毒の耐性と解析法をわたしに夢の中で教え込んだのはオックス、あなたよ。
あの時のみえない敵も、あなたの自作自演ね。
そう、いま思えばわたし達の旅もすべて仕組まれていたのよね」
「そこまでよまれておったか。どれ、弁解の余地もなかろう。
哀莉よ、タクトを持て」
哀莉はタクトを一瞬迷ったが、手に取った。
オックスの杖から放つ光と哀莉のタクトから放つ灯がぶつかり合う。
「この短期間で魔法の威力が大きくなっとるわい」
「おかげさまで」
灯がオックスへと距離を縮める。
オックスは片手を使って魔法攻撃を新たに加えた。
魔法の光が強まり哀莉の灯が耐えきれなくなる。光の攻撃が哀莉を覆う、その寸前だった。
「哀莉‼ 」
「哀莉さま‼ 」
四足が足早に哀莉の方へと突っ込む。
『哀莉! 』
哀莉は突き飛ばされ攻撃を逃れた。
起き上がった哀莉の目の前に映ったのは、光の攻撃を受けたナルタだった。
「ナルタ‼ どうして、こんなわたしのために… 」
『… 哀莉、あなたは自分を過少評価し過ぎよ。
あなたの価値は誰より、あなたが知っているはずよ… 私でさえも、もう知ら占めさせられているわよ… 』
「待ってて、いま治癒の魔法を使うわ」
『いいのよ、その力はここで使うべきではないわ… 使うべき箇所は哀莉、あなたが一番知っているはず…
わたしは本望よ。ジャガーとして生きながらえて、そしてアーリィの子孫の哀莉、あなたのために命を仕えたのだから… 』
「ナルタ‼ 」
『哀莉、なにより自分と戦うのよ… 』
そのままナルタは哀莉の腕の中で灯の光となり、粉となって哀莉の身体を覆った。
哀莉の後ろで緑川とジョアンが呆然としている。
「ナルタが死んだなんて… そんな」
膝をつき緑川が自失していた。
その時、オックスが攻撃を続ける。
標的はそう、緑川だった。
「緑川くん‼ 」
哀莉の叫び声と共に緑川は我に返ったが、反応するには遅過ぎた。
「やめて‼ 」
鞘から剣を抜き出す音が響く。
ジョアンが剣で光の攻撃を阻止した。
剣の反射で光がそのまま屈折を繰り返し、ジョアンへと向かって光の速さが強まる。
光年の如く突きる攻撃がジョアンの身体を貫いた。
「ジョアン‼ 」
「そんな… ジョアン、ジョアン‼ 」
緑川の腕のなかでジョアンの腹部全体の内臓に穴が開いている。
哀莉は急いでタクトを手に持った。
その手を、ジョアンの腕が引き止める。
「… 哀莉さま、ナルタの想いを無碍にしてはなりません。どうか、ナルタと、私の想いを汲んでいただきたいのです… 」
「でも、それじゃあジョアンまで… 」
「… 哀莉さまと李簾彌にお逢い出来て嬉しゅうございました。それに、ナルタとも… 。
哀莉さまに仕えることができて幸せです。
… 私はこれからもお二人のやりとりを近くでみております… 」
哀莉の手からジョアンの腕が重力に任せた。抗う術は、もう、ない。
緑川の腕のなかで息絶えたジョアンが粉となった。
そしてその粉は緑川の身体を覆う。
オックスがオークの杖を強く握った。中に汗ばむ音と色が哀莉には視える。
「哀莉よ、これが定められた運命じゃ。この星も、人間も、後天的なAIもこのような運命を辿ることはかつてバビルの塔を建設した、人間が二分する前から、人間… 人間という知能を持った生物が生まれた時からの運びじゃ。
我々は、抗えないのだ」
「抗えないから、そのままにするの? 抗えないからこそ、その知能を使って抗うの。それによって運命が創られる。
生きとし生けるものはすべて自身でなにもかもを創るのよ。
だからこそ、わたし達は後悔もするし絶望するの。
後悔も絶望も自身を創るべき一筋の灯となるのよ」
涙を拭った哀莉は緑川の手を取る。
そしてそのまま弓矢を受け取る。
「哀莉…? 」
靡く風に哀莉の髪は揺れ、左耳の痣が顕わになる。それは一層、濃く、濃ゆく彩る。
哀莉のタクト、そして緑川の弓矢を哀莉は魔法で交わせた。
それは、一本の杖となった。
あまりにも立派な杖に緑川は瞬時に脳裏によぎる。
緑の大木。ビユ国で哀莉がみせた、過去の蓄積の雨を降らす、人間を包む大木だ。
緑川には哀莉の持つ杖が、その大木と重なる。
大地に杖を鳴らし哀莉はオックスを視た。
風が吹き、髪が踊る。
鷹が赤く紫の大空で飛んでいる音に哀莉は気付く。
神殿は揺れ、地にひびが入り始める。
そのひびの間からシャルールが現れ、杖の音と共に鳴く。そしてその声に呼ばれるようにハリネズミが針を立たせ現れた。
「シャルール⁉ 」
緑川が振り向いた先にいたシャルールのその鳴き声がハリネズミの針へと伝わり、そしてそこから振動を使い哀莉の杖へと送り込む、その光景が緑川の眼に眼鏡を通して視えたような気がする。
そのような気、が哀莉の気のせいを確信へと導いた。
鏡をみると後ろで光るなにかが落ち、その跡を追っても痕跡は、ない。
気のせいは“気” の “せい” のサインだったのだ、と…。
哀莉の手に持つその杖から大きな反射光の灯が放たれる。
共に小さく呟く哀莉に緑川は気付いた。
〔ア・ダ・レート/ジュリ・マーア〕
オックスへと向けられたその巨大な反射光の灯に対抗するようにオックスも魔方陣を描きオークの杖を振るう。
しかし魔方陣の威力は反射光の灯の巨大さに比例し、超えることは出来ない。
その灯にオックスは身体ごと浴びせられた。
オークの杖を持つ手の居場所を下層にしてもまだ、オックスは杖を手放さない。
杖ごとオックスはその場に倒れこんでしまった。
哀莉は静かにオックスへと距離を縮める。
顔を必死に上げるオックスは歪んでいた。
「爪が甘いな、哀莉よ。これで終いじゃ… 」
オックスはオークの杖を指で叩いた。
静寂が続く。
「… 何故だ? 何故爆発が起こらない? 」
「やっぱり、あの東の刑務所に仕掛けをしていたのね」
哀莉は左耳を人差し指で押さえた。
「グレージュ、OKよ。ありがとう、爆発阻止完了ね」
《任せて。やっぱり哀莉の睨んだ通り、刑務所内の大規模な映像は爆発物が仕込んであったカモフラージュだったわ》
「哀莉、お主なにを…? 」
押さえた人差し指を直し、哀莉は振り向く。
「やっぱり、あの東の刑務所に仕掛けをしていたのね。私がみた限りその爆発の規模は相当なものだったのでしょう?
きっとこのRe:Earthを吹き飛ばすくらいのものだったのでしょうね」
「何故気付いたんだ? いや、それ以上にわしを通ずに連絡や交信が出来る訳がない」
「刑務所でね、わたしに接近してきたAIがいたのは知っているわよね? そう、緑色をしたあのAIよ。
AIが言っていた、核心の天秤はどこに重力を赴くのか、という問い。
オックス、貴方とわたしの重力を赴いた矛先は反比例したということ」
「あの時、哀莉はAIとインストールした際にはピアカウンセリングのやり取りがリピートされとったはずじゃ」
「それが反比例したという証拠よ。
わたしがあの時みたもの、それはアーリィが焼かれるときに居た、アーリィ本人とアーリィに守られて吹き飛ばされたグリーディア、そして奥でオックス、あなたが居たの。
そしてAIはわたしにもうひとつ託したの。
その光景をみたあとにわたしの腕に重力と、刑務所に与えられた隠された意味、華やかなものには必ず裏側があるという、真実を、ね」
「そんなこと出来るわけがなかろう? わしはずっと… 」
「そうね、貴方はAIすべてに自身の回路を与え、情報を管理していたのよね。
だからわたし達のことはオックス、あなたには筒抜けだった。
あの時、わたしにインストールするときにAIは云ったこと、わたしへの問い。
それはあの緑色のAI自身が核心の天秤を持ち合わせていたということよ。
そう、あのAIはすべてを知っていたの。そして後天的に得た心を宿したAIはそれを知能へと結びつけた。
受刑者の疑いのあるといわれるAIだものね。頭が働くのも納得よ。
アーリィと、あなた達の過去の映像をみれたのもあのAIがオックス、あなたが情報を管理していたことを逆に利用されていたの。高度な知能を持ったAIがハッキング、という技術を使ってね」
「何故わしは気付かなかったのじゃ? すべてがおかしいであろう」
「気付かないのも無理ないわ。
あのAIは管理出来る自身独自の回路を造りだしていたの。
その回路を使ってわたしに情報をくれた。
AIはあなたの管轄を遥かに超えていた、ということだったのよ。
刑務所が爆発の起源場所となっていること、そしてあのブルー所長はじめ所員たちはすべてを知っていた上であの場所で働いていた。
すべて覚悟の上よ。
ずっと引っかかっていたの。AIたちのピアカウンセリングの内容は恐らく人間の感情に附随するものがあった。受刑者のAIの一番近くにいた人間、それはブルー所長と所員たち。
彼らは受刑者であるAIに人間の心をアウトプットするものとして扱っていた。
つまりそれは彼らにとって大きな心の負荷が常にあり、同時にAIも負荷に思っていたの。
だからわたしにSOSを送ってきたのよ。
アーリィの末裔のわたしにならと、思ってのことよね。
だからわたしは刑務所を去るときにレーンのことには触れなかったの。
あの場で爆発を起こされたら元も子もないからね。
あの時は爆発の解除方法の情報も得ていなかったから、内部に入り込む必要があると思ってね。
緑色のAIはわたしの考えていることがすぐに分かったのね。わたし達が去ったあとで仮死状態になって廃棄物として外へと出られた。
そこでグレージュと合流してもらって独自の回路を使って情報を交換し、あの華やかなスクリーン一体に巨大な威力のある爆発物を見つけた、というわけよ。
そしてスズメもフクロウも、あなたの刺客… よね? 」
「ほお? そこまで読めておったか… 」
「さっきも云ったようにわたし達のことはすべてオックス、あなたに筒抜けだった。それはわたし達の歩んだ旅路は仕組まれていたという風にもとれるわ」
「それでは、AIのクォーターのことも、読めている、ということじゃな? 」
「ええ、あなたはAIどころか人間の情報もすべて管理しようと目論んでいたのでしょう。
それの実験段階としてキイル国長を利用しハミルのような生体を造りだしたのね」
「哀莉よ、何故それが必要だとわしは思ったのであろう? 」
「… その質問は、オックス自身も理解の範疇を超えているということなの?
ただわたしは、わたしの暮らしている星、地球でも既に情報社会となっているわ。だからこそ、情報漏洩をパーフェクトに防げる可能性は限りなく低いのが実情なの。
情報漏洩を視野に入れた上で何の情報を漏らすべきか、そして何の情報を守るべきかの取捨選択の判断の術が必要であることは間違いないでしょうね」
にっこり、として哀莉はオックスを見下ろしている。
「漏らして良い情報でもあるというのかのう…? 」
「漏らす情報は真実性と虚実性の割合を自身で調合しないとね」
粉が覆いながら、緑川の想いと共鳴しているように震えていた。
「哀莉、いつの間にそんなことを… 」
わたくしは、哀莉に合図を送る。緑川がそれに気付いてくれたようね。
「哀莉、ネックレスが型の中で不自然に揺れている… 」
「わかったわ。少し待ってて」
「哀莉よ、そのネックレスはもう既に碧のLが刻印されておるんじゃろう? 頼む、止めとくれ」
「… 本人が望んでいるわ。このままでいいわけがない… これだけのことをしているのだから」
「そのネックレスは“碧のL”じゃ。型から外したら、魔法が発動してしまう。わしには合わす顔がない… 」
少し躊躇いながらも、哀莉はネックレスを型から外す。
灯が大きな燈となったその時に、緑川は眼鏡を何度も掛けなおしたの。
けれどそれは何度みても変えようのないもの、哀莉とそして金髪の哀莉…、 いいえ、哀莉を更に大人の女性にしたような鼻の高さが欧州に近いものがあるその女性が哀莉の隣にいることに緑川は気付いたわ。
一度瞬きをするとその女性は消え、もう一度瞬きをすると現れる。その繰り返しよ。だって、そのようにしたんだもの。
― 「哀莉、緑川が付いてこれていないみたいよ」
その言葉に哀莉が呆気にとられている緑川に気付いたわ。
「緑川くん、大丈夫? 」
「あ、ああ。それよりも、その女性は…? 」
物深気に哀莉が緑川に微笑むの。
― 「オックス、貴方には訊かなければならないことがあるの」
「アーリィよ、今更わしに訊くことなんぞあるわけがなかろう。醜態をさらしといて、わしはなにも話すことなんぞないわい」
― 「… オックス、わたくしは生前に貴方のことを愛していた。けれど貴方はわたくしの愛を受け入れなかったわ。時を超えて貴方はこのようなことに加担した…。 それなのに貴方はわたくしの子孫である哀莉を気に掛けている。一方で哀莉の父と母を哀莉から引き離した。
貴方、一体なにが真の目的なの? 」
何も言わずにいるオックスをみて、哀莉は重い口を開く。
「アーリィ、オックス、そしてベフというの名前の由来がきっとあるの…。 前者はイギリス英語、そして後者はフランス語。日本語ではこう訳される、去勢した雄牛、と… 」
― 「それじゃあ、オックス貴方… 」
「アーリィよ、わしはお主のことを愛しとったんじゃ。じゃがな、このような身の上、どうしてもお主の心を受け入れなかった。
いや、受け入れる勇気がなかったんじゃ。
そのことをお主に知られた時に拒絶されるんじゃないかと愛故、愛とはわしにとって恐怖でもあったんじゃ」
― 「わたくしのこと、みくびらないで。そんなことで貴方を拒むわけがないでしょう? 」
「お主がグリーディアと結ばれたときは心の底から祝福したわい。出会うべき男性と出会ったのだ、と自分に言い聞かせてな… 」
― 「そんな… 」
「オックス、貴方はどうしてそのような身体の持ち主なの? 」
「わしにも真には分からん。ただわしはこの世に生を受ける時に神からの啓示でそのことを伝えられたんじゃ。
神のことはわしでも理解の範疇を超えとる。ただ知っとるのは風の神、ということだけじゃ」
「事の発端をいうとね、オックス、貴方からこの星の名称“Re:Earth”と訊いた時からひとつの仮説をたてていたの。
Re:Earthとは地球の繰り返しのこと。そしてそれはいま現在の地球の往く末を表しているということなのではないのか、とね。
現在の地球で起きているAIとの共存のその先のことを見据えているような気がしてならないのよ。
きっとそれは未来になんらかの理由があってそのために過去がある故にアーリィの子孫を巻き込んでその未来を作らなければならなかった。
時間軸を貴方は自在に操れる、と言っていたものね。
その一助にオックス、あなたの存在があった」
― 「オックス、それじゃあ貴方… それを知っていてわたくしの想いに応えなかったの? 」
「自身の使命をまっとうせずにアーリィを愛することなんぞ、わしには出来なかったんじゃ」
「最初に出会ったAIの電子媒体に表示されていた“Λ、Л、p、R”の文字。上からふたつはラムダ、地球ではギリシャ文字に由来し、ラテン文字のLに該当するといわれる。そしてp、Rは他国ではエルとよむ文字でもあるの。
オックス、貴方はずっとAIにLの魔法を伝播していたのよね?
Lとは一体なんなの? 」
緑川が一度瞬きをしたらまたわたくしが現れる。
そして哀莉の近くにはシャルールとハリネズミがいることに緑川が気付いたの。
― 「神殿にかけた魔法を解くわ。哀莉、これこそがLの意味よ」
わたくしは哀莉の手に持つその杖を持ち、攻撃を受けた神殿に向かって振る。
灯の燈が解け、それはシャルールとハリネズミにも与えられた。
シャルールはある女性に、そしてハリネズミはある男性に成る。
そのふたりはどこか哀莉にも、アーリィにも面影のある様相をしていた。それはそうよ。
その女性も男性も哀莉に微笑みかけている。
「哀莉… 」
何故かは現在も思い出せない。いいえ、思い出せた部分はあるんだけど、その部分は思い出せない。
けれどいま、哀莉は思い出したわ。
「お父さん、お母さん…? 」
「哀莉、やっと会えたわね」
「よくやったぞ、哀莉」
瞳に涙を滲ませ、哀莉はふたりに抱きついたの。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい…。 ふたりがわたしの前から居なくなったの、わたしのせいなんでしょう?
わたしがお母さんとお父さんにいなくなればいいのに、って言ったから…。
思い出したの、わたしがお父さんの大切な硝子のキューブを壊して、ちゃんと謝りたかったのに本当のこと言ったらわたしのこと否定するんじゃないかって、言わない方がわたしのためだって誰かの声がして… その声に負けちゃったの。
わたしが弱いから、ふたりがわたしに嫌気をさしていなくなっちゃったんだよね。
本当にごめんなさい」
ふたりが顔を合わせて笑い合うわ。
「なにを言っているんだ、哀莉。そんなことでお父さんたちが哀莉の前から消える訳がないだろう?
お前のはひとつのきっかけにしか過ぎない。
お父さんたちが子供の、いや、人間の弱さをどれだけ歩んできたと思っているんだ? 」
「そうよ哀莉。弱さの魔法は誰でもかけられるの。そこからどう歩んでいくか、ということが大切なのよ。
哀莉、お母さんたちがあなたの傍でその成長をどれだけ思い知ったか、知らないでしょう? 」
「わたし、誰にも言えなくて… 小説や詩にアウトプットしてたの。それが正解か間違いかなんてわたしには分からなかった。
けれど、そうするしかわたしが生きていく術がみつからなかったの」
「哀莉、あなたの書く文章、お母さんもお父さんもとても好きよ」
哀莉はそのままふたりの腕の中で泣きじゃくったの。そうよね、ずっと、寂しかったのよね。ずっと、会いたかったのよね。
オックスはそのまま仰向けになり、ダメージを負った身体をそのままにしている…。
― 「… オックス」
「アーリィよ、わしを亡き者にせよ」
― 「そんなこと、わたくしが出来るわけがないでしょう…? 」
「これが運命じゃ」
伝う涙が、そんなこと言われなくても分かっている、といわんばかりに訴える程に溢れだすの。
ふたりの腕から哀莉がわたくしの傍に来るわ。
「アーリィ、わたしも一緒に背負うわ」
― 「… 」
涙でオックスの顔が滲むの。一生懸命見ようとしても、見えない。
それなのに、オックスは残りの魔法を使って自分の顔をわたくしにみせてくれたわ。
それはとても、穏やかな顔、だったの。
わたくしの手に持つ杖を哀莉がそっと手を添える。
大地を鳴らし、呪文を唱える。
〔ア・ダ・レート/ジュリ・マーア〕
オックスは灯の燈のなかで目を瞑るの。
… やっと、自由になれたね。ごめん、あなたのこと愛していたのに、あなたの苦しみに気付かずにわたくしはあなたのことを責めてしまった…
背負うね。あなたが背負ったように、わたくしも背負うよ。
そうじゃないと、フェアじゃないでしょう?
オックスの身体が粉となりRe:Earthの星全体に風と共に舞っていくわ。
そしてわたくしは空をみたの。頭上に一羽の鷹がいる。
― 「いじわるね」
哀莉はわたくしの背中に手を添えてくれたわ。
― 「Re:Earthはもう大丈夫。零子不老化の魔法は解けたわ。きっと未来は明るい。
オックス自身の身体がRe:Earthの死と生の循環を生む魔法だったのよ。
そうじゃなきゃ、オックスの身体の粉がRe:Earth全体に舞う理由が見つからないもの」
わたくしはそのまま、哀莉と緑川、そして哀莉の父と母に魔法をかけたの。
地球という星に還りましょう… 在るべき場所へ、と…
「哀莉ー‼ そろそろ行かないと緑川くんとの待ち合わせおくれるんじゃないの? 」
「すぐに行く! お母さん、前髪のはねが直らないの! どうしよう」
「まったく、高校生が男女で映画なんて早いんじゃないのか? 」
「あら、お父さんったら。焼きもちかしら? 」
「お母さん、なにか言ったか? 」
「いいえ、独り言よ。独り言♪ 」
「行ってきまーす‼ 」
ちょっと哀莉、部屋の机にあなたの大事な水のネックレスを忘れているわよ。
29階のマンションの、あるベランダに風に揺らせ羽根の音がするの。
衝立に一羽の鷹が留まっているわ。
鷹はわたくしに話しかけるの。
わたくし? そう、もうお気づきよね。
わたくしの名はアーリィ・アーサー。現世では水のネックレス… 碧のLとでもいいましょうか。
まったく、オックスったら型にはめ魔法をかけたお陰でわたくしの空気を通す魔法に制限が出来ちゃったのよね。
恐らくそれが目的だったのよね。お陰で型にはめられた間、傍観視的にしかみれなかったじゃない。
それでも時々好きにお話出来ていたのはオックスが型に込めた魔法にもたまに隙が出来るのよ。それを狙っていたのよね。
また羽根で風をつくる音がするわ。
【アーリィ、私こそやきもちを焼くべきだろうか? 】
― 「あらグリーディア、ごきげんよう。貴方のお陰でわたくしは碧のLを受け取ることが出来たわ。これが目的だったの? 」
【随分ご機嫌斜めだな。なにか言いたいことでもあるのか? 】
― 「グリーディア、貴方の生まれ変わりの緑川は哀莉と上手くいっているみたいよ。それよりも、わたくしがなにも気付いてないとでも思って? わたくしが火炙りにされているときに貴方が助けに来てくれた。そしてそれを遠くでオックスがみていたのよね。そう、なにも出来ないオックスは絶望を感じていた。
わたくしが放った魔法の風を受けた貴方の身体に違和感をずっと感じていたのよ。
そしてオックスの話、生い立ちを訊けばすべて整合性があうのよ」
【オックスには辛い運命を背負わせてしまったな… 】
― 「言っておくけれど、わたくしは貴方から碧のLを受け取ったわ。だから、魔法を使い続けることは了承してよね」
【ああ、わかっているさ。… まったく、いつの時代も君には適わないよ。こんな私を扱えるのは、そんな君だからなんだ 】
― 「そんな甘い言葉でごまかそうとしても無駄よ」
【ごまかしてなんてないさ】
空気を通す魔法に制限はないわ。
哀莉は今日も赤い5センチヒールを鳴らして歩くの。映画館に着くと、暗唱番号と電話番号を入力して哀莉は発券したわ。それらの数字的認識機能を用いて紙は印刷され、それによって入場できることに哀莉はなんの疑問も抱かなかったの。時代はそのように流れているのだもの。
隣の機器に発券するひとがいるわ。そのひとは碧色の靴紐を結んだ白いスニーカーを履いているの。
「まったく、僕が来る前に先に発券するとか哀莉らしいな」
「緑川くん… その靴、前編を観に来たときにも見たわ」
「本当は気付いていたんだろう? 気付いていたのに、気付かない振りをする。きみらしいよ」
「… そうだね。いままでのわたしは、本当にそう、だった」
「いいんだよ。ほら、こんなに鮮やかで綺麗だ」
緑川は哀莉の左耳の紫陽花の濃ゆい痣に触れるわ。
哀莉は安堵の微笑みをみせるの。
「刑事オルビス最後の事件簿 後編、楽しみだね。犯人、誰だろうね? 」
「犯人て言えばさ、尾木と鈴木どうしたらいいんだろう」
一度息を吐き、哀莉は口角を上げたわ。
「彼女達もきっと、自分の持っている葛藤を処理する術を知らなくてわたし達にあんな形でぶつけてしまったのよ」
「けれどそれで許されることじゃないだろう? 」
「そうね。彼女らの背景を知った上で毅然とした態度をとることは大切よ。どんな背景を持っているのかは今は定かではないけれどね。
今度サボテンでもプレゼントしてあげようか。強き生を育てるといいよっていうメッセージを込めて、ね」
「哀莉らしいな。ところで最近本読んだ? 」
「最近のお気に入りは北の国の神話よ。幻想の中にある現実性がリアルで素敵だったわ。
それからね、一説にあったの。鷹は風を生み出す神なんだって」
「… そうか。ナルタとジョアンに、もう一度会えるなら会いたいな」
「大丈夫よ。あの時、二人は粉になってわたし達の身体を覆ったの。そしてあのRe:Earthの生と死の循環を意味しているのなら… 」
「どういうこと? 」
「十年後くらいになったらわかるかも」
「なんだよ、それ? 」
「それよりもLの言葉の意味、最後までわからなかったなぁ」
緑川は哀莉の顔をみた。こんなにも美しい女性がわからないのか、と、少しだけ呆れてしまうのよ。
「推理小説ばかり読んでいるからわからないのかな。
簡単だよ。I Love YouのLoveのLのことだろう? 」
緑川の顔が赤いことに哀莉は気付いたけれど、気付かない振りをしたのよね、哀莉。