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回憶録 世の常人の常「微意<前編>」#創作大賞2023#ミステリー小説部門

 

<あらすじ>
 確か…希、
「Hope。何故わたくしに見透かされたのか、不思議なことなど微塵もありませんわ」
ひとの言動からすべてを見抜くその女性、北大路零華。藤井柊斗医師と兼ねてから馴染みのある仲柄でその日は共にオーケストラ鑑賞へと訪れていた。
その会場では飛び降り自殺されたとみられる遺体が発見される。
現場へと向かう2人。その遺体を目の前に零華は呟く。
「翡翠に血を飲ませる……、飲ませる…… 」と。
零華の描き出す詩の数々。その詩々はなにを言いたいのだろう。なにをみているのだろう。
さあ、今日の真実はここまで。貴方は知っているでしょう、今日があるから明日が導き出されることを。真(まこと)の瞳はいつでもここにあるのです。


<前編>
 幼少の頃、海が怖かった。
生きる波が、そのさまが怖くて仕方なかった。
文字の羅列が物語をつくり受精卵が次第に人間(ひと)を形成していく。
物語の歩は進み最後のページの一文が僕に問う。
「僕はこの年、月日になにをしなにを考えていたか」と。
記憶を辿ると波がじらして
痛みも甘さも音がさらう
 
そんなことを脳裏に浮かべ点滅が走る
 
 
 街灯がLEDに普及されつつある現代、燈。その程度で犯罪履行率が影響されることなんて情報社会を生きる我々一般市民が知っているということはなんら不思議なことでもなんでもない。闇に並ぶ複数の街燈も、もし孤独を選ぶなら燈が及ぶ限界にも耐えなくてはならない。
しかし君だったら、その限界にさえもなにかを付与する。それは時に気まぐれで、プラスにもなるしマイナスにもなる。そしてその全てを君はきっと、一色のイロに染めてしまう。
砂時計の踵を返す。
冬の夜に一室の窓から拡がる藍色は少し前の黄色やオレンジの街燈が心に暖かくなにかを差し伸べる、そんな感覚が現在ではもうフラットにさえ感じる。
 
 ホールの出入り口は人混みで溢れていた。僕の左斜め前を歩く君、いや、零華は辺りを見渡してはそっちに気をとられている始末だった。零華が行きたいと言っていたオーケストラ団体のチケットをとったから誘ったのに、零華はそっちのけでなにか物想いに耽っては先程からきょろきょろとしている。気の利いたことを言って君を楽ませたい、と思うのはこのコンサートに誘った者として当然のことだろう。しかし君はそんなことお構いなしだった。グローヴで覆われたこの手の平は僕の小さなこころを表しているようだった。
 拳を作っては広げる。
 塵ひとつも落ちていない大理石の床は少しの翡翠色を感じさせる。振り子時計の大きさは人々の迷いも嬉しさもすべてを許容する。ダストボックスの銀製色はシャンデリアのとの屈折でその先を迷う。カフェスペースのウェイターの運ぶグラスの膜がそれを受け止める。腹の虫が立ち上がるのを抑えようと美しいものを視界に入れよう。僕の右壁8ヤード程向こうには今日のコンサート開催を祝して花輪が飾られてあった。協賛している業者の名も共に記されてある。その端にはひとつのサイドテーブルがあり、豪華な花々が恐縮な顔をして存在していた。数種類の花を用いては主役は百合だった。脇役はガーベラでピンクに黄色、オレンジ色を成す。トルコ桔梗はアメジストだった。花言葉は確か…希、
「Hope」
 零華が僕の顔を覗きこんで笑いながら僕にそう言った。
「なにを柊斗先生は不思議そうな顔でわたくしを見ているんですか?先生がなにを考えていたのか何故わたくしに見透かされたのか、不思議なことなど微塵もありませんわ」
 僕が唾を飲み込むのと同時に頷くと零華は続けた。
「そんなの造作もありません。まずわたくしは柊斗先生の左側に居るのに先生は反対の右を見ていることに気付きました。目線の先には花輪が沢山あるけれど、そんなに見惚れる程の美しい色では構成はされていない。それだったらその端にある地味だけれどそれなりに存在感のある花瓶に飾られている花に見惚れている可能性が高い。その中でも一番に目がいくのは面積をとっている百合の花ですがそんな時わたくしは1週間前の先生の言葉を思い出しました。先生はその時夕刊を見ながらわたくしに言ったのです。その新聞にあったある記事です。名バイプレイヤーの俳優さんの特集記事でした。それについて先生は、この人達の存在があるからこそ主役が生きるのだ、と仰っていました。そのことを踏まえると主役の百合ではなく、先生は百合を際立たせている花々に注視しているだろうと推測出来ます。その中でも多種の色で揃えられたガーベラにも目がいきますが、それよりもトルコ桔梗でしょうね」
 何故僕がトルコ桔梗のことを考えていたのか、ということ。
ホールは相変わらずの人混みでいつ僕らの声が消えてしまってもおかしくはない状況の中答えが脳内で導かれることがないことは予想出来た。それを汲み取ったように零華はくす、と続ける。
「先生の手袋の色、紫色でしょ。手袋のようなピンポイントアイテムは大体無難な色を好むか、自身の好きな差し色を選ぶのですよ。無難な色といったらベージュや黒、グレイ等になりますね。紫色は無難な色とは言い難いでしょう。と、なりましたら好きな色となります。人は本能的に好物なものへと目がいきやすい。それを考えたら必然的にトルコ桔梗に目が奪われているのだな、と。ついでに数日前に先生が好きなドラマの最終回で花言葉を引用していました。先生はそれから何かと花言葉を電子媒体で検索する癖がついていましたね。以上のことを総合すると、トルコ桔梗の花言葉の〈Hope希望〉が挙がるということですよ。どこか誤りはありましたか?」
「いや、誤りなど寸分も見当たらないよ。驚いたな。てっきり零華さんはなにか物想いに耽ってこれからのオーケストラコンサートにも散見してしまったのかと思っていたよ」
「違いますわ、柊斗先生。わたくしあんまり外出しないので、沢山のひとに興味深々だったのです。このような紳士淑女が集まるコンサートにどの様なひと達が集まって来ているのか」
「どのようなひとが居たんだい? 」
 零華は宙をみて経緯を辿る。
「例えばあのカップルです。女性の左薬指に跡があるの、わかります? あれは明らかに指輪の跡です。しかもくっきりと残っているので相手の男性と逢う寸前で外したということですね。お相手の男性の年齢は20代前半から中とお若いです。互いに割り切った関係なら女性も指輪を外しはしないですし、男性も気にはしないでしょう。しかし指輪を外している、ということは感情的に想い合っている関係性なのでしょうね。気付いてますか? あの女性のお召し物、とても良い生地を使ってあります。しかし手は荒れている。旦那さまは奥さまに優雅な服を買ってあげられる程の収入を得ているお仕事をされているのでしょう。そしてきっとあの奥さまにはお子さんがいますね。家事の最中にハンドクリームを塗る余裕がないのは子育てで忙しいのでしょう。推測するに子育てでいっぱいになっている奥さまに旦那さまはあまり気にかけていない。その淋しさと育児のストレスも相まってこのようなお若い男性との関係に走った …っと、あんまりこのようなことは口外するべきではないですね。気をつけます」
 パンフレット買ってきますね、と僕から離れて行っては、君はシャボン玉のようだった。
 トルコ桔梗と距離を縮めては僕は心に想う。
 何故僕はトルコ桔梗に想いを馳せなければならなかったのか、その謎は君の興味の範疇にはなかったのだろう。アメジストのグローヴにシャボン玉がひとつ、当然に存在など……しやしない。
 零華と初めて出会ったのは僕が研修医の頃、零華は学生で受け持ち患者だった。ひとを初めて— 美しい、と。想う以上に女性だから、男性だから、ではなかった。こんなに美しい容貌の人間がこの世に存在することを僕は初めて知った。
 零華が行くその先々にはその美麗に人々が、 男性も女性も関係なしに〈人間〉が、振り向く。そのさまにはもう幾分慣れた頃だった。
 
 
 
 
 
 みどり いろ
 
 
振り子が思わせぶりを繰り返す
左 右 右 左 左 右 
… 4.5. 1.2.3
いろ が 呼んでいた 
いと 紡ぐ
 
目の前の扉 を 開くと
一面 緑の 一色
ひとの形が ひとり
 
心臓が濃い緑
足先と指にも 濃い緑
脳は薄い色
脈は中色で
ピアニスト
 
一心不乱に弾き乱れ
音色と共に 踊り狂う
 
ステージは 
そのひとの為だけに用意され
奥行は濃いみどり
近くなるほどに浅いみどり
 
そこには
当たり前に
塔が聳え立つ
 
落雷により
塔が崩壊しては
 
地面に
恐ろしい緑が拡がって
 
全てが飲み込まれていく
塔も
ピアノも
ピアニストも
ステージも
落雷も
 
わたしも
 
いっそのこと
飲み込まれた方が
楽なのかも、と
リップの誘惑が
 
振り切る為に
地に着く足元の
サークルが
翡翠に血を飲ませて
 
迷い込んでは
 
   幾重に拡がる
       星
           因子
 
 
 
 
 悪魔の雄叫びが聴覚を渡り身体全体に行き渡ると雷鳴がそれを伝う。鉛が心臓に打たれるような衝撃と震える涙。
 前述のすべては零華の診療記録から抜粋したものである。
 振り子時計は夕刻五時四六分を指していた。
 ホールスタッフが慌ただしくしていた。靴の音が足早くに響く。
「お客さまでお医者様いらっしゃいませんか」
 何事か、と、もしや、が入り混じり僕が声を掛けた。
「なにかご入用でも? 」
「お医者様ですね? ショーホールの扉の前で女性が倒れているのです。診ていただけましょうか? 」
 ホールスタッフに案内されて行くと、複数人に囲まれて見覚えのある女性が気を失って倒れていた。
「零華さん、僕がわかりますか? 」
 脈は正常、息もしている。いつものショック症状だった。
「この女性は私の連れです。横にさせたいのでどこか休めるところはありますか? 」
 ホールスタッフは医務室へと案内してくれた。
零華をベッドに寝かせて僕は溜息をついた。顔色は色白だが蒼白ではないのでおおよそ大丈夫だろう。ショックで低血圧を一時的に引き起こしたものだと思われる。オーケストラ演奏は夜7時からだから、零華の体調も含めもしかしたらお座成りになるかもしれないが、それもしょうがない。いつ如何なるときもなんかしらのハプニングを想定していることが医師の役目でもある。零華の髪の流れに手を沿わせ、パンフレットを開いた。主役の指揮者とピアニストが顔を連ねていた。指揮者、世界的賞を総なめにした有能ピアニストの名目されたオーケストラだった。他にもバイオリニスト、各奏者とそうそうたるメンバー構成だった。ページを捲る頃、駆ける足音と共に医務室のドアが力強くノックされた。
「失礼します。先生、ホールの上層階から飛び降りた人がいるようで血が沢山出ていて、どうしたら良いのかわかりません。とりあえず来てください」
 ホールスタッフが血の気の引いた顔で絞り出した内容は僕を困惑させた。
確かに僕は医者だが、専門ではない。
「柊斗先生、行きましょう」
 零華が天井を見つめながら確かな声で言った。
「零華さん、いつの間に目が覚めていたんだい? 大丈夫なのかい? 」
「わたくしはもう大丈夫です。心配をかけて申し訳ありませんでした。行きましょう。ね、柊斗先生」
 パンフレットを閉じ促されたまま僕はホールスタッフへと声を掛けた。
「救急車と警察への連絡をしてください」
 実はこの頃には既に零華の電子媒体に前述の詩が存在していたんだ。記録のところには作成した年月日と時間が残される。便利になったようで電子に管理されていること、そう、束縛されているような複雑な心境は人間誰でも持ち合わせる、狭間だ。
 
 
 
  
 
 ご遺体は即死のようだった。美しいワイン色のドレスを着込み強く打ち付けた頭部からは致命傷となった激しく滲み出た血液と同化している。屋上からはご遺体のものとおもわれる靴が屋上から綺麗に並んで残されてあった。
「死後硬直からして約6時間は経過していますね」
 悲惨なご遺体を目の前に零華は辺りに居ては近寄って眉間に皺を寄せている。
「零華さんは会場に戻っていた方がいい。もうすぐ警察も来るし早々に引き渡して退散しようじゃないか。なにしろ遺体なんて一般人がじろじろ見るものじゃないさ」
 零華は遺体を目の前に口角を上げてNOと言わんばかりに僕に手を差し出した。
「柊斗先生、わたくしは日頃からよく遺体とは脳で対面しています。ご心配無用ですわ」
 手の先で宙に遺体をなぞってからそこに手を止めた零華はサークルをまた宙に描き始めた。
「柊斗先生、ご遺体の右手、なにかを握っていますわ」
 よくみると支配するかのように血がサークルを描く様に拡がるその中に遺体の右手が置かれてあった。
「こちらです」
 ホールスタッフに連れられて来たのは警察の人間だった。
「いや~、こりゃ酷い」
 その人は遺体に手を合わせてから僕に向き直った。
「私は警視庁捜査一課の安武という者です。あなたは? 」
 僕も会釈をして直した。
「僕は都内でクリニックを営んでいる医師の藤井柊斗と申します。今日はこのホールで行われるオーケストラを鑑賞しに来てたところだったのです。ここのスタッフさんから来てほしいと言われまして来たところ、…… 恐らく即死でしょうね。死後6時間程と思われます」
「ご遺体の損傷具合からしてそうでしょうな。いや~、助かりました。あとはこちらでやりますんで。先生、ご苦労様でした」
「右手…、気になるんですが。何かもってますか? 」
安武刑事は右膝をついて右手を広げた。
手の中には小さな翡翠石のクラスターがひとつ、握りしめてあった。それをみた野次馬…… もとい、ステージ衣装を身に纏っている群衆、恐らくこれから演目を披露するであろうオーケストラ団体とおもわれる人たちが、なにやらざわついていた。
「あれって大井指揮者の大事にしていた翡翠じゃない? …… 」
 こうもしているうちに救急隊やらが到着して現場は慌ただしくなった。
 零華は今も宙で遺体の右手をなぞる。そして独り言を繰り返していた。
「翡翠に血を飲ませる…… 飲ませる…… 」
 
 
 
 診療記録を仕事場で書いていると隣で零華がゲーテの詩集を読みながら診察室内を往復する。
「座って読んだら? 」
 ワンクッションを置いてから僕に向き直って人差し指を左右に揺らす。
「分かってないのですね、柊斗先生。歩きながらの方が脳内に記憶されやすいのですよ」
「それは分かってるのだけれどね」
 結局あの日はオーケストラ演奏も中止になり僕らは帰路に着いた。
「報道では自殺となっていましたね。警察からはあれからなにか連絡はあったのですか? 」
 僕は手を止め零華を一目みてから手元を探るように答えた。
「いや、なにもないよ。専門のドクターやらなにやらで対応しているだろうね」
 その言葉に続くように内線電話が鳴った。電話をとると受付事務からだった。
「藤井先生、警察の方が来られてます。安武さん、という方で藤井先生との面会を希望されているのですが…… 」
「通してくれ」
 ノックが鳴ってから軽く会釈する安武刑事がよれたワイシャツを直しながら入室した。
「いや~、先生。お忙しいところすみませんね。おや、お綺麗なご婦人が。お邪魔でしたかな」
「彼女とはそういうんじゃないですよ。ところで2日前の事件は解決の道へと順調ですかな」
「先生、その事なんですがね……、ちょっとお聞きしたいことがありまして今日訪れたわけなんですよ…… 」
 安武刑事はそう言いながら零華に目をやった。
「彼女は大丈夫ですよ。軽々しく他人に口外するような人間じゃない。信用のおける人間です。それに彼女も現場にいたのです。なにか気付くこともあるかもしれません」
 そうでしたか、と安武刑事は恐縮がる。
「いや、どうにも奇妙な事件でしてね。恐らく自殺なんじゃないかな…… と、いう感じなんですがね」
「恐らく、というと? 」
「状況からいうと自殺でほぼきまりなんですがね、どうにも合点がいかないところがいくつかありましてね。気にし過ぎといっちゃあそれまでなんですが。それであの時現場にいち早く居た藤井先生にご意見をいただこうと思いまして参った次第なんですよ」
 安武刑事は手帳を開きながらボールペンの腹で耳の後ろを掻いた。
「屋上にあったご遺体のものと思われる靴なんですがね、普通自殺する人間がくつを脱いでいざ、というとき靴の向きは自分と同じ向きにするもんでしょう。しかし逆だったんですよ。反対に置かれてあったんです。変でしょう? それから遺体が纏っていた衣装も変だったんですよ」
「何も変なところなど無かったように思われますが? 」
「時間ですよ、柊斗先生」
零華が宙で手の平を使って円を描きながら会話に入ってきた。
「死亡推定時刻はあの時点で約6時間前。本番の演奏がある前の時間にしては衣装を纏う時間としては早すぎます」
 安武刑事も続けた。
「そうなんですよ。それからなんですがねぇ…… 」
「右手に持っていた翡翠石」
 安武刑事は持っていたボールペンの先を零華に向けた。
「そうです。いや、オーケストラ団体の方からの証言であれは指揮者の大井さんという男性のものだという裏付けが取れましてね。大井指揮者に訊いたら数日前に失くした物だ、と言うんですね。念の為大井指揮者の6時間前、大体正午くらいのアリバイを確認したんですが、その時間はバイオリニストの佐倉さんという女性と曲の最終調整をしていたとのことでアリバイはとれてます。ホール会場で、他のオーケストラの団員もその現場をみていると証言もとれていますよ」
「ご遺体が盗んでそれを気に病んで? まさか。そこまでの代物ではないでしょう」
手元の電子カルテのキーボードを僕はみつめながらあの翡翠石を思い出す。大きさだって女性の手の平に入るくらいのものだった。大体数千円くらいだろう。
「安武さん、ご遺体はオーケストラのメンバーでしたよね?そもそもどのような立ち位置の方だったんですか? 」
「そうでしたね、それをまず話すべきでした。名前は神宮寺絢。オーケストラのメインのピアニストです」
「自殺で決まりそうということは、なにか自殺に繋がるような背景が彼女にはあったということでしょうか」
「それなんですがね、彼女この業界じゃ名の知れたってほどのもんじゃなくてですね。いや、私こういうお堅いのが得意ではないんですよ。まあ世界の賞を総なめにしているいわゆる天才ピアニストってやつなんですよ。しかし天才故といいますか、周囲の者は口を揃えて言いますよ。その陰の力をピアノで表現してたらしいんですけど、それが評価されていた、というんです」
 あの時パンフレットに紹介されていたピアニストだ、と確証した。
「まあでも靴の向きっていってもこれから自殺しようとする人間が錯乱状態であったとなれば理由もつきますがね。翡翠石の方も持ち主の大井指揮者のアリバイも確定してますし、私の気にしすぎでしたかな」
 手帳を閉じ顎ラインを手の平で撫で口角を上げた安武刑事は真一文字に口を直していた。診察室には花を飾ってある。最近のお気に入りのトルコ桔梗をふんだんに使って活けてある。零華はトルコ桔梗に歩み寄り花びらを撫でた。
「トルコ桔梗はまるでアメジストですね。アメジストに血を飲ませたらまるで闇夜の色となります。安武刑事さん、神宮寺さんの衣装のスカートの裾、調べました? 」
「ええ、落ちた時に付着したと思われる土が幾つか。あと足跡が幾つか付いていたんですがそれは神宮寺さんのものでしょう。長いスカートのドレスだったので歩く時に時々踏んでいたんでしょうな」
「どこに付いてました? 」
「ええと、前と…… あと後ろにも数か所ありましたよ」
「後ろの足跡、面積はどの位でしたか? 」
「前の部分と比べて小さかったのでまあ当然ながら踵でしょうな」
「踵を踏んだ、ということは神宮寺さんは死ぬ前に後ずさりをしたということになります。普通女性はロングドレスを身に纏う時は特に裾を気にして動きます。その時スカートを少し持ち上げるのですよ。気持ちね。だから跡は普通つかない。しかもそのドレスがこれからオーケストラの演目に着るドレスだったら、余計に気に掛けるものです」
 零華は両手で今着ているワンピースを少し上げて例をみせた。
「神宮寺さんは持ち上げることなく後ずさりしている。それだけその余裕がなかったのでしょう。ということは余裕がないだけ切羽詰まっていたと考えられる。つまり、目の前にそれだけの事態が起こっていたということです。例えば、これから自分を殺そうとしている人間が目の前に現れた、とかね」
 安武刑事は手帳を再び開き目を見開いた。
「これはひっくり返りますよ」
 そそくさと診察室を出て行こうとする安武刑事に麗華は付け加えた。
「可能性の段階ですよ。只、今一度詳しく捜査する価値はあるのでは、ということです」
 向きを零華の方に直すと安武刑事は恐縮して尋ねる。
「婦人、まだお名前を拝借しておりませんでした。私は警視庁捜査一課・安武尚文と申します。役職は一課の警部、以後お見知りおきを」
 一礼をした安武警部に対して零華はとびきりの笑顔でカーテシーを行う。
「わたくしは北大路零華と申します。詩家を生業としているしがない者ですわ。こちらこそ、よろしく」
 
 

 
 樺の枝にとまる蜻蛉はやって来た僕を目の前にして雲を霞と逃げ去った。オーケストラ会場となったホールは近くに水湖が立ち込めては霧が辺りを覆っている。都心部から離れたところに立地する此処はホール自体が空気を冷たくしていて僕の背筋が伸びてしまう。かくして僕と零華はアドバイザーとして再び哀史たるこの地へと訪れた。それは安武警部がクリニックに初めて訪れた日の次の日のことだった。安武警部自ら直々に電話をよこし是非とも零華と共に来てくれ、という要請であった。
「零華さん、そこ段差がありますので」と言って安武警部は零華の右手を誘った。零華は手を乗せ「ありがとう」と微笑む。
「ここが神宮寺絢の控室だった部屋です。念の為の現場保存で事件当日のままになってますよ。一応調べてはあるんですけど零華さんと藤井先生にもみてもらいたくてお呼びした次第なんですよ」
零華はその部屋に入ると床の四隅から天井の四隅まで線をなぞるように見入った。テーブルとチェア2脚、小さい冷蔵庫と大きな鏡のドレッサーが閑散と配置されてあった。鏡を覗いて数か所に気付いた零華は安武警部をみた。
「鏡には数か所神宮寺絢の指紋が発見されています。ただ微々たるものなのでふとした瞬間に偶然ついたものでしょう。神宮寺絢以外の指紋は発見されていませんよ」
 そのまま視線を下にやった零華はドレッサーに付属しているゴミ箱の中をみていたが、これといってなにか中に入っていたわけじゃなかった。するとゴミ箱の影から何かを見つけたようだった。
「これは、アナフィラキシー補助治療剤ですね。まだ使用されてないです。安武警部さん、これも既に警察の方は発見されていたのですか? 」
 安武警部は報告書を繰り返し捲る。
「変ですね、そんな報告挙がってませんよ。見落としか? こりゃいかんなあ」
 額に手をあてそのまま僕に向き合ってその薬を持って話しかけた。
「藤井先生、これなんの薬ですか? 注射ですかねえ? 」
「アレルギー反応による主にアナフィラキシーショックがおこった時に打つ注射薬ですよ」
 そう言っている間に既に零華は冷蔵庫の扉を開けていた。
「なにかあったかい? 」
 僕が訊くと麗華は手に持ったものを僕に見せた。それはテイクアウトのシチューだった。冷蔵庫の中にはフランスパンとババロアもあった。
「開けてもないですね。買ってそのままです」
 シチューのパッケージには <ヘルシー 豆乳シチュー> と書かれたシールが貼付されていた。
「これを食べずにいたということは、大豆アレルギーだったということだね」
「ああ、だからこのアナフィラキシー補助治療剤とやらの注射も持ってたんですね」
 僕と安武警部がそう話している頃にドアがノックされた。ドアを開けたのは小柄な女性だった。髪の毛はボブ位の長さで頬が角ばった女性だった。
「刑事さんが来ている、と聞いて来ました。私オケのバイオリニストの佐倉といいます。実は気になることがあって刑事さんにお話ししたいな、と思いまして。神宮寺さんのことなんですけど…… 」
 零華は気にも留めずにババロアの容器のラベルをみていた。
「これも豆乳で作られていますね。佐倉さん、と申しましたか? すみませんがこの冷蔵庫の中の食事は昼食用に用意されたものだと思いますが昼食は各自で持参されるのですか?それとも皆さん一緒にどこかのお店にまとめて注文されるのですか? 」
「昼食は各自で用意してます。あ、でもそのババロアは私が差し入れしたものです。オケのメンバー皆に差し入れしたんです」
零華はとびきりの笑顔で答えた。
「皆さんの健康を気にかけてあげるなんて、素晴らしいですね」
 ところで、と安武警部が割って入った。
「気になるところとは? 」
「実は神宮寺さん時々控室で人知れず泣いていたんです。天才故の悩み、というか。私たちのような人間が持てないようなきっと高尚な悩みだったと思います」
「そうですか。やはり自殺の線も並行に進めていかなければならんかもしれんですなあ」
「…… 自殺ではなかったのですか? 」
「いやいや、なんでもないんですよ。こちらの話です」
零華はふとした疑問を佐倉さんに投げかけた。
「でもどうしてオケのメンバーの佐倉さんが此処にいるのですか?あの事件があってオケの演奏会は中止になったのでは? 」
 目線を左下に伏せた佐倉さんが手の甲を指で喰いこませながら答えた。
「ええ、あんなことがあって中止にはなったのですが、哀悼の意も込めて1週間後に演奏の場をここで設けることになったのです。今日はそれのリハーサルの日でして……。 他の団員も皆もう来ています」
「では、わたくし達も会場へと参りましょう」
 
 
ホールの会場は物々しい空気間であるのは確かだった。オケのメンバー達は椅子に座り譜面を確認したり弦の調子をみていた。佐倉さんも位置に着きバイオリンの世界に入っていた。指揮者の大井さんが指揮棒を高々と上げると空気がぴん、と張りその協奏曲へと入っていった。各々がその器楽の世界へと入り頂点に達した時それらの集合体は一つの球体となる、そんな芸術を魅せられた。球体はなにしろ対称性が高い。それも芸術性の高さの理由のように思えた。演目が終わると安武警部はホールに響くほどの甲高い拍手を送った。僭越ながら零華と僕もそれに続けた。
「いや~、素晴らしい。素敵な演奏でしたな」
 大井さんが振り向き僕たちに応え、一礼した。
「刑事さん、でしたよね? どうしてここに? 」
「調べものが残ってましてね。ちょっとよろしいですかな? 」
 ステージから降りて来た大井さんは額に一筋の汗を滲ませていた。
「あの翡翠石ですがね、いつ頃から失くしましたかな? 」
「あの演奏会がある日の2日前です。色々なところ探し回ったのですがどうにも見つからなくて。まさか神宮寺さんが持っていたなんてびっくりしました。ましてやあのようになってその手の平に忍ばせていたなんて僕にはどうにもこうにも…… 。本当に参ってしまいました」
 その時、大井さんの手に握られていた指揮棒がするりと床に落ちた。零華が拾い上げ、大井さんに渡す。
「手の平、凄い汗搔いてますね。大丈夫ですか? 」
 そう言う零華と大井さんの手元をみると大井さんの手元が小刻みに震えていた。零華は白いハンカチを大井さんの手の平に差し出して微笑んだ。
「これ、使ってください。返さなくていいので」
「僕、至らなくて。すみません」
 ステージ上から一人の男性が大井さんに声をかけてきた。
「大井さん、ちょっと確認したい箇所があるんですけど、いいですか? 」
 大井さんは失礼します、と言いステージへとかえって行った。
「大井さん大丈夫ですか? きっと疲れているんですよ。いつものこれ、食べます? 疲れたときには甘いものですよ」
 大井さんを呼び寄せたその男性はキャラメルを渡していた。
「安武警部、あの男性は? 」
 零華が訊くと安武警部は報告書を捲り、ああ、と納得していた。
「チェロ奏者の永瀬さんですね」
「わたしくしたちもお腹が空くころですね。そろそろ退散するとしましょうか」
 零華は満面の笑みを僕たちに向けた。気付くともう夕刻5時を示していた。ステージ上のオケ団体メンバーも散り散りになっていた。
 ステージ会場を出た僕たちはエレベーターを待っていた。夕日はもう沈む寸前でホール会場の燈は存在感を増していた。そんな事に気を取られていると、オケのメンバーであろう2人の女性が話しかけて来た。
「神宮寺さんて、なんで自殺なんてしたんですか? 神宮寺さんは世界的な賞も総なめにしていて社会的にはピアニストとして成功していたんですよ。どうして自殺したのか私達、本当に理解が出来ないんです」
 僕達が返答に困っていると零華がすかさず会話に入って来た。
「オーケストラのメンバーの中で噂になっていたこととかありませんでしたか? 例えば神宮寺さんが悩んでいる、とか」
「そういうのは全然ありませんでした。本当に天才肌のひと、という感じでしたから。その暗い感情をピアノで表現してこその神宮寺絢、という存在でしたよ」
「それだったら大井指揮者の方よね。オケのメンバーとの交流一切取らないし、さっきだって大井さん指揮間違った箇所あったのに私たちに一切悪びれる態度とらないしねえ。なんなのかしら」
「指揮者としての才能は確かなのに、残念よね。だから、なのよ」
「だから、とはどういうことなのでしょう? 」
「大井さんが指揮者として世界へと羽ばたけない要因なんですよ。私たちのような職人は確かに個としての能力が無ければ通用しない業界で生きてます。でもそれだけじゃ駄目なんです。それぞれの個がひとつにならないと私たちの作品が完成しない。だからきちんと良好な連携を取らなければならないんです。そのためには交流を持ったり。さっきの間違いだって、誰しも人間ですからミスはあります。けれどそのミスに対して謝ったりする必要はあるでしょう?別に思い詰めろ、なんて言わないですよ。ただ軽く謝罪の意を示すだけでもするのとしないとでは全然違いますよ。小さな積み重ねが信頼を構築するのにそれもしようとはしませんからね。だから私たちも大井指揮者を全面的に応援しようという気になれないんですよ」
「なるほど。先程の大井さんとお話ししていたチェロ奏者の永瀬さんと大井さんは良好な交流関係を築けているようでしたが? 」
「永瀬さんは別ですよ。彼は元々誰とでも気さくに話せるひとなんです。だからなのかな、大井さんも永瀬さんにだけは心開いている感じ。皆が疲れているときによく美味しいキャラメルくれたりなんかして気が利く、というか」
 零華はにっこり、として一礼した。
「ありがとうございました。大変参考になりました。ところで皆さんもうお開きになったのですか? 」
「ええ、もう練習時間は過ぎてますので各自の判断で帰ると思いますよ」
 そうですか、と言い僕らに向き直った零華はちょっと寄り道して行きましょうと言って足早に先導切って歩いていく。僕らはもう付いていくしか選択肢は無かった。
「大井さんが間違えたところなんて、やはり素人のわたくしたちは全然気づきませんでしたわね」
 そう言いながら歩を進める零華に相槌を打つ余裕なんて付いていくだけの僕らには無い。
ホールの所々に飾られているトルコ桔梗はいまも健在だしカートを引いた掃除業者の老年者は僕らにあっけを取られている。
そんなことを気にする間もなくオケのメンバーの控室の前に来ると丁度佐倉さんが部屋から出て来たところだった。
「佐倉さん、神宮寺さんが泣いている様だった、と言っていましたがその時の神宮寺さんの様子でなにか変わっているところありませんでしたか? 」
「変わったところ、ですか。…… < 許さない > って。あの時低い声でそう言っているのが確かに聴こえてきたんです。自分自身を鼓舞していたんでしょう」
 佐倉さんは手にトルコ桔梗を携えていた。少し枯れ始めのトルコ桔梗だった。僕がそれをみているのに気付いた佐倉さんが続けた。
「これ、もう終わりごろだからって貰ってきたんです」
「枯れ始めていますが、いいんですか? 」
「枯れているから、ですよ。私には朽ち果てる姿がとても美しく感じるんです。美しい花が生を終え過ぎて往く姿は確かに生を全うした姿、として映るのですよ」
 零華は佐倉さんのバッグの内ポケットからはみ出たキャラメルを見つけていた。
「ああ、これですか? 永瀬さんからいつものように頂いたものです。よかったらひとつ要ります? 私この前もらったのがまだ家にあるので」
 両手を差し出して受けとる零華は会釈した。
「ありがとうございます。先程の協奏曲凄く素敵でした。つくられた時代背景なども関係するのですか? 」
「ええ、クラシックなんかは歴史がありますからね。作曲家の置かれた立場や時代背景なんかは影響されている部分が多いですよ。あの協奏曲は19世紀のヨーロッパで当時発表された有名な詩人が書いた短編小説から造られた曲なんです。確か、異母兄弟の兄と弟が一人の女性を同時に愛してしまってそれ故の末路が描かれた物語なんです」
 
 

 
 キャメル色
 
自分が人間だということを初めて認識した
 
光の速さが低く進度するならば
自らの未熟さは長く渋滞する
 
甘さを煮詰めたキャラメルは
黄土色となった
神話、 詰め込む
 
誰にも知られる事のない
過ちの認識は
自らのみが知る事で
罪の重さを
抱えていた
 
つもりが
いつしか自身の美学となって
知られない事が罪となった
 
それがいつしか
自身の母なる大地となり
 
更地に
 
黄土に甘いキャラメルが
沁み込み
キャメル色
 
僕だけの神話は
君だけに受け継がれて
 
相変わらず
甘かった
 
黄土にさす
棒は
離すと
空気を指した
 
その
示す先
 
君は
知っているの
 
 
 
 
 零華はいつも他人の心に上手く入ってくる。
 いや、正確には他人の心に文章で上手に入ってくるんだ。
 のちにすべてを紡ぐ、シグナルのようなものだということを知っているのは僕だけの特権にしておこう。
 
 
 ホール内に響く協奏曲は鑑賞している僕達にとってはとても素晴らしい演奏だった。僕の診療の昼休みは貴重な時間だった。患者の症例に基づく今後の判断材料になったり、強いては重要疾患に対する知見を脳内でまとめる、そんな時間だった。そんな時に零華が訪れてこれからまたあのホールへ行くからついてこい、というのだ。僕にだって仕事があるし、てんで困り果てた僕に零華は何枚かの用紙をテーブルに置いた。
「昨日作成した詩よ。柊斗先生の好物でしょう」
「…… 了解したよ」
 というわけでオケの練習風景を例の如く零華と鑑賞していた。零華が詩を作成する時はそれなりに時間を要するし、それだけその世界へと没入しなければならない筈だ。その時間を割いていたということはそれだけこの事件に没入している、ということが僕からは簡単に推察出来る。
 零華は此処へ来る途中に協奏曲の素晴らしさを語り続けていた。クラシックの創られた時代背景やら作詩家の境遇、世界のありさまやその時代に流行った伝染病や歴史に残る事件の数々。語る度に揺れる零華の長い髪の毛はその度に風を呼んでいるような気にさえさせた。ホールの周辺は樺と水湖で囲まれた自然に溢れた場所であったがそこから一歩離れると広いアスファルトが拡がる殺風景なところであった。車の往来や電柱と電線のそこに居座る鴉らを見送り、零華の語る協奏曲の素晴らしさを舌鼓していた。
途中で大井指揮者が演奏を止め、浮かない顔をしながらオケのメンバーに伝える。
「中盤は演奏者自身が気持ちをコントロールするようにしてください。原作となった詩はちょうどここで兄が陥れようとするところ、感情をおもいのまま女性にぶつけてしまう人間の愚かさが描かれています。それを各々が表現するように作品にぶつけましょう」
静寂を破るように口を開いたのはバイオリン奏者の佐倉さんだった。
「私はそれこそが美しいものだと思います。それこそが美学としてはつらつと演奏するべきでは? 」
 ざわつくオケ内でチェロ奏者の永瀬さんが割って入った。
「大井指揮者は各々で作品にぶつければいいよ、と言ったんだ。人間の愚かさは誰もが持っているんだ。それと向き合えばいいんじゃないか? 」
 大井指揮者は休憩を入れよう、と提案し後ろへ下がっていった。
 僕達の席の横から「やぁ、お揃いですな。こんにちは」と聞き覚えのある声がした。
「安武警部、ごきげんよう。どうされたのですか? ここには今日来るご予定がもともとからおありで? 」
「藤井先生のクリニックに行ったら事務の人に先生は零華さんとここに来てる、と聞いたんですよ。零華さんにみせて欲しいと言われていたもの、持ってきましたよ」
 分厚い書類を零華に渡して隣に座った安武警部だった。
「内緒でお願いしますよ。こういうのは一般の方に見せるのに骨が折れることなんですからね」
 お構いなしに零華は書類を捲っていった。どうやら捜査資料の一部でページは神宮寺絢の事件当日の控室の保存状態のものだった。化粧ポーチにそこから取り出したであろう口紅、譜面、飲みかけのきれいなコーヒーカップに差し入れらしい高級煎餅。次に手に止めていたページは死体発見現場の写真だった。みるも無残な屍を前に僕は見ていられなくなった。麗華は写真をじっとみているようだった。
「…… ないですね」
安武警部がすかさず話に入って来た。
「なにがですかい? 」
「安武警部、お願いしたいことが2点ありまして。それから柊斗先生、教えていただきたいことがあるんです」 
 気分を直そうとその呼びかけに振り向いた僕の目に映ったのは得ち満ちた瞳をした麗華、その女性ただひとりだった。
 
 
 
 
 朱色
 
美しいの
リップグロスの紅色が潤いを失う
そのさま
 
たんぽぽの綿毛が揺れて
風にさらわれていく
残された孤独
なんてさま
 
鏡に映る
潤い失くした毛細血管
なんて美しい
 
美しさのその奥に
真の美しさがあって
それを知るのは
自身のみでいい
 
他者の感受性と
異なることに
ほこりを持った
美学
 
苦しみの
その先にある
それに
 
魅せられた
 
染まった
 
朱色
 
過去のしがらみこそ
 
美しい
 
 
 
 
 午後の診療も落ち着いてきたところで一息つこうと僕は紅茶を淹れた。用意するのは2カップだ。
「零華さん、こちらに置いておくよ。いつでもどうぞ」
「まあ、ありがとう。柊斗先生」
 音を立てずに頂く紅茶はなんとも優美だった。
「フレーバーはキャラメル仕立てかしら? 程良い甘さが紅茶を引き立てますわね」
 零華の手に持つモーリス・ルブランの一冊はその紅茶と似合っていた。
「零華さんの本の選択は誰かの影響によるものなのですか? 教授されたものとか? 」
「誰かの影響でも教授されたものでもありませんわ。本屋さんへ行くと本がわたくしにプレゼンテーションしてくるのです。自分という本がわたくしにとってどれだけの価値があるのかをプレゼンしてくるのですよ」
「ははは、まさか」
「あら、嘘じゃありませんわ。この感覚、お分かりにならなくて? それでは柊斗先生はどなたからかご教授をいただくことに長けていらっしゃるの? 」
「学生時代は学ぶことばかりですからね。学びには教授いただくことは必須ですね」
「もし、ご教授いただく相手が尊敬出来ない方でしたらどうするのですか? 」
「尊敬出来ない人間の言うことはやはり素直には受け入れられないというのが一般論じゃないかな。ぞんざいな人間はぞんざいに扱われると、言われますからね」
「わたくしから言わせると愚答ですわ。尊敬できない相手こそ丁重に扱うべきです。愚者にも千慮に一得あり、といわれるが故こそです。いつなん時、に備えて一時の油断も許しません。丁重に扱うからこそ相手は隙をみせてこちらが有利になるのです」
「確かに一理はあるよ。ただそれを本当にその人間を目の前にしたらそのように出来るかい? 理想論としてなら受け入れられるけどなあ」
「あら、理想論は実施する事が困難なのは誰もが承知のはずですわ。それをどれだけ行動に起こせるかはその人の人間性が試される、というものではなくて? 」
 紅茶の拡がる円水面かのように見つめながら僕に微笑んで窓の向こうは燈の瞬間。診察室の窓からは、電柱に取り付けられた街灯が白く照らされようとしている時刻だった。紅茶はもう音をたてる危険性がないほどの具合になっている。ノックがして僕らはドアの方に向き直ると安武警部が入って来た。
「お待たせしました。呼び出してすみません。零華さんから頼まれていた案件のことです。これがその結果です。それから、頼まれていた書類です」
「まあ、ありがとう。安武警部」
 満面の笑みで受け取る零華は書類に目を通す。僕はもう一脚カップを用意して安武警部の前に置いた。
「いや、これはありがとうございます藤井先生。私猫舌なもので、失敬」
 そういって音を立てながら安武警部は紅茶を嗜んでいた。零華はそれにも気に留めず書類に見入っていた。その内に捲っていた書類を直した。
「承知いたしました」
「なにがだい? 」
 急に席を立ち歩きだした途端に立ち止まり零華は僕達に向かってカーテシ―を行う。
「柊斗先生、書類をみていただければ分かりますわ。こちらは神宮寺絢さんが通っていた病院の診療記録です。…… 現場に残っていたアナフィラキシー補助治療薬、冷蔵庫に残された豆乳仕立てのシチュー、そしてババロア。それがなにを意味するのか。…… 只、まだ駒が足りません。それのヒントとなったのがこちらです」
 僕にひとつの緑色のカバーのノートを渡す。
「これは? 」
「お読みになってください。神宮寺さんの生前残したダイアリーです。他人のダイアリーを読む事なんてナンセンスですが事が事なだけに仕方がないでしょう。わたくしは神宮寺さんの想いに敬意を込めて拝読いたしました」
 僕はその言葉に続けて緑色のカバーのダイアリーを開いた。
「柊斗先生、この前教えて頂いたアナフィラキシー補助治療薬は一度に二本の処方は可能でしたわよね? 」
「ええ、そうですね」
 
 
 
 *
1月13日
 真実を知れば誰かは誰かのもとを去る。真実は虚構で虚構は真実でしかないのに、そう割り切ってしまえば楽なのに。私の心が追い求めるそれは真に正しいのかさえも分からない。
 地位とは、なんだろう。何故価値故。
 
3月24日
 才能の定義は行方知らず。今日の寝付きも最悪で寝る前に白湯を飲んでみたけれど私の不安定さの温度が勝ったようだ。笑ってしまえ、笑うほかないだろうに。正体は溜息。私のピアノ技術も聴く人間によって十人十色。そこに正解は無い。観客、仲間の拍手が痛く刺さる。これはおかしなことなのか。いや、私は至って真面目。
 
 
5月11日
 月食の日も日食の日も特に体調が悪くなる。そんな日は塔に雷が落ちるくらいの何か悪いことがわたしに降りかかればいい。理由が欲しいだけなんだ。
 今日は久しぶりにオケでの団体練習だった。孤独に陥っていた私はついに最悪のことを考えた。なにもかもが裂けてしまえばいい、と。私という身体も心もなにもかも。ピアノの前に座りながら手の甲をみつめて、私もいよいよかと心を決めた。その時、登壇する大井指揮者が手の平から何かを落とした。カツン、と、したその音が澄んでいた。こんな清らかな音源を聴いたのはいつぶりだろう、とその先をみるとそれは緑色した綺麗な翡翠の石だった。私は拾って大井指揮者のその震える手の平に戻した。
 それは塔に雷が落ちるくらいの、衝撃、で、しかなかった。
 
 
6月8日
 キャラメルを断った。月食も日食も同様だからだ。
 大井指揮者と話す機会があったので翡翠の石のことをそれとなく聞いた。貰い物だ、と言っていた。
 大井指揮者の震えるその手に包まれる翡翠の石。人間だった。男性とか女性ではなくて、そんな次元ではない。ただ、人間として美しかった。
 
 
6月24日
 鷹が獲物を狩る視線はいつなん時で観客からも伝わる時がある。衝撃のときのための修復方法を2種用意しておこう。備えあれば憂いなし、とはよくいったものだ。それ以上のものは私にはある。
 
 
8月7日
 遠くからみるふたりはひとつの円そのもので。妬むとか羨むもない。ただその円が存在していると思うだけ。価値を美しさに捧げる手段を考えていた。
 
 *
 
 
 
「それにしても」
 僕の部屋の本棚から一冊を引き抜いて零華は開いた。
「医者が自身の身体にウィルスの侵入を許すなんて、医者の不養生の内に入るのかしら? 」
 ベッドの中で咳込む僕には反論する余裕なんて無かった。それでもなんとか咳を抑えた僕はやっとのことで声を出す。
「医者だって人間さ。最も、侵入を許さぬよう医師として用いる知識をふんだんに利用して防御すべくよう努めたさ。だがどんな人間も完璧な人間なんてどこにもいやしないのさ」
「そんな柊斗先生にとって最も有益なるものを持参致しましたわ」
 買い物袋から取り出したのはプロポリス含有の喉飴だった。
「助かるよ」
 僕の部屋がどんなに殺風景かは自覚している。部屋の真ん中にあるベッドに本棚とそこに敷き詰められた本たち。紙の質が少しばかり緊張感を緩める役割をしてくれる。砂時計が踵を返すと命を託し、そしてノートパソコン一台。それだけあれば僕は生きていけるような気がしていた。西側にある窓は時間がたてば日が入る。零華はそこから景色を眺めていた。
「綺麗だろう? 都心から離れれば土手だって何もない道だって色んな角度から捉えることが出来る。緑が茂る中の燈にも幾つもの意味を持たせることが出来るんだ」
「…… そうですわね」
 そう言って零華は僕にグラスに入ったミネラルウオーターを手渡した。ミネラルウオーターは僕の手から鼓動を感じ取って小刻みに揺れていた。水泡の幾分かは離れて自由を求めた。消失したことが
多者にとって哀れに感じ取られても案外消失自体はそんなに大したことではないこともある。誰かはそれを強がり、と表現するかもしれないが100人いたら100種の爪の形色があるように強がり、一種で片づけるには困難が生じてしまう。その内の一種は独りを怖れ他のおよそ4種を自種に染めたくなる。それが確定すると今度は約11種を染めたくなるし、それがエスカレートすると際限が無くなり過剰が過剰を呼び一種は葬り去られることは現実となる。そしてそれは最低でも15種は真に心から望むようになる。
 冷えたグラスから出た水滴は僕の爪に乗り滲んでいった。
「柊斗先生、これは? 」
「ああ、それは先月海外で発表された論文だよ。なんでも精神的な負荷が大きいと色彩の認識機能が破壊されて回路が一方向から多方向になったという症例に基づいて書かれたものなんだ」
「規則性があるようでない、規則性がないようである、と書かれていますね。柊斗先生はいつこれをお読みになりましたか? 」
「数週間前だよ」
 零華は微笑んで僕にカーテシーを行った。
「わたくし帰ります。お大事になさってください」
 そう言って零華はグラスを爪でコツコツ、コツ、と鳴らして去って行った。
零華がやってくるのはいつも突然で今日だって気が付いたらそこに居た。僕は具合が悪くて朦朧としていた。きっとその間に来てくれたのだろう。喉飴とミネラルウオーターを携えて颯爽と来てくれたのだ。
水滴を滲ませた僕の爪は潤ったと思っていたのに、よくみたら乾燥していた始末だ。
 
 
 
 
 




 


回憶録 世の常人の常「微意<中編>」#創作大賞2023#ミステリー小説部門|板倉 市佳 (note.com)

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