なんてことのない時間の必要性
家の中に窓際席をつくってみた。
私は窓に向かった席が好きだ。
窓の外の景色が素敵だったら素敵なほどいい。
そんな席で一人で読書や物書きや考え事や何もしない時間を過ごしたい。
いまの生活ではそんな席があるカフェにはなかなか行けないので、自分の部屋の中に作ってみた。
壁に向けて置いていた机を窓に向けただけだけど、なかなかいい感じ。
そんなことをしながら、今までの自分の生活の中で、だいじな役割を果たしていたかもしれない「なんてことのない時間」にふと想いを馳せた。
カフェの窓際席に一人佇む時間
公園のベンチで本を読む時間
意味なく街をぶらぶらする時間
電車に数分ゆられている時間
駅の改札で誰かを待つ時間
道ゆく人の人間観察をする時間
一駅前で電車を降りて歩いて帰る時間
ふらりと本屋に立ち寄る時間
そんなに目的も意味もないし、
それをやろうと思ってやったわけでもないような
なにかのおまけでついてきたみたいな時間。
でもそのなんでもない時間が自分の中の何かのネジを締め直したり、ちょっとしたズレを調律したり、ぐちゃぐちゃした頭の棚を整理整頓したり、散り散りになっていたアイデアがまとまったり、感情をクールダウンしたりするような、そんな時間だったのかもしれないって思う。
いつもと違う道をわざと歩いて偶然すてきな景色に出会ったり、ふらりと立ち寄った本屋で偶然いい本を見つけたり、そういううれしい偶然にもたくさん出くわしたい。ちなみにそういう偶然をセレンディピティと呼ぶらしい。予定調和でないそういう時間がセレンディピティを引き起こしていたのかもしれないとも思う。
車で移動することが多くて、意味なく出かけるようなことがあんまりない今の生活では、こういう時間が持ちにくい気がしている。
いや、車でもどこか意味なくふらっと出かければいいのだが、車で30分以上移動することに、若干腰が重たくなってしまうあたりが、まだ車社会に馴染めていない人である。電車で出かけるのも本数少ないから一苦労だしなぁ。
ところ変われば生活が変わるのは当たり前なので、
そりゃあそうだしまあ仕方ない。
そんなこんなで、かつて自分の中でだいじだったかもしれない「なんてことのない時間」は以前よりも減っている。
その代わりにまた違った尊くてしあわせでたいじな時間はたくさんある。猫を愛でる時間とか、田んぼ道を散歩する時間とか、深めの対話をする時間とか。
だからそういうだいじな時間を天秤にかけて比べることはできないのだけど。
でもやっぱり必要なのかなぁとも思う。
ないものねだりなのかなぁとも思う。
どうでもいいような、なんてことのないような、おまけみたいな、無目的の、こまぎれの時間。
ないものはまた自分で作ればいいのか、
違う代わりのものを見つけるのか、
ないままに適応していくのか。
選択肢はいろいろ。
でもやっぱり今のところ私には必要かなぁ。
とりあえず、
「窓際席でぼーっと佇む」
は、できるようにしたぞ。
なかなかにいい時間が過ごせそうである。