「国家安全保障戦略改訂に向けた提言」を読んで思うこと
2022年11月2日、東京大学創発戦略研究オープンラボ(ROLES)有志による「国家安全保障戦略改訂に向けた提言」(https://roles.rcast.u-tokyo.ac.jp/publication/20221031)が公開された。これは2013年に公開された国家安全保障戦略(https://www.cas.go.jp/jp/siryou/131217anzenhoshou.html)から今日までの情勢の変化に対応して改訂すべき点をあげたものになっている。なので、2013年の国家安全保障戦略の骨子を前提としており、大きくその方向性からそれるものではない。
この提言は提言としても読めるが、日本が置かれている状況を総合的に理解し、必要な対応を知る包括的なマップとしてもとても参考になる。
【2022年11月3日追記】安全保障に関する議論はいまの日本に必要であり、本提言がそのきっかけのひとつになることを祈っている。
●提言の内容
個々の内容としては近年日本政府機関が進めているさまざまな施策にも現れているものが多く、それらを包括して全体像が見えるようにまとめられている。
この提言は近年日本政府機関が対応を進めている戦略環境の変化と施策の位置づけをマッピングし、指針を示したもので貴重である。全体像が見えることは非常に重要で、さまざまな施策が統合的に力を発揮するためにも、それを理解するためにも不可欠だ。
提言は下記の3つである。
・提言 1 「総合・統合・融合防衛力」に基づいた対処・抑止能力の強靭化
近年、増加している「グレーゾーン事態」(私はとく閾値以下の攻撃と呼んでいる)に対応するために、国家のリソースを幅広く活 用する能力(総合性)、官庁や三自衛隊の垣根を越えた運用(統合性)、領域を横断 する作戦能力(融合性)が必要という提言である。能動的防御(アクティブ・ディフェンス)を含む具体的な施策をさまざま提案している。
・提言 2 国際的な安全保障協力体制の拡大と安全保障環境の改善
「自由で開かれたインド太平洋」構想実現のための連携深化、日米同盟の深化、多角的な安全保障協力、セキュリティー・クリアランス・システムの確立などをあげている。
・提言 3 認知領域の安全保障強化に向けて
このnoteをご覧になっている方には説明不要と思うが、影響工作、ネット世論操作などへの対策強化である。
個人的には提言1で「グレーゾーン事態」を大きく取り上げていたことと、提言3で認知領域に踏み込んでいる点に目を引かれた。個別のくわしい内容については実物を読んでいただくのが一番だと思う。示唆に富んだ内容で、すごく参考になると思う。
特に、前に書いたように個々の新しい施策はニュースで流れるものの、その背景になっていることや全体像はそれらからはつかみにくい。個別の施策はいわばモザイク、ジグゾーパズルのようなもので、それをまとめた全体像を見ることは少ない。この提言は全体像を示してくれている。
個人的には提言3の最後に下記を加えたのは素晴らしいと思う。
●感想
すごくよくまとまっている、というのが最初の感想で、これだけ網羅的かつ個々の具体的な対処についてまとめるのは相当な労力だったと思うし、センスがよくないと全体像にまとめるのは難しい。両方がうまくできており、とても参考になった。もっとも私は専門家ではないので、上から目線で、「参考になった」などと言える立場ではないのだけど。
ただ、昨今の動向を踏まえると、気になることもある。
・非国家アクターの扱い
非国家アクターはさまざまな領域で存在感を増し、影響力を広げている。SNSプラットフォームなどのビッグテック、PMC、過激派、メディアなどがよい例だ。この提言でもそれらには触れているものの、「協力態勢」という形になっており、じゃっかん最近の動向にはそぐわない印象がある。
SNSプラットフォームなどのビッグテックについては国際政治学者イアン・ブレマーが地政学上のアクターと呼び、フランシス・フクシマなどが民主主義衰退の原因と指摘している。米中関係に限ると、米国と中国の双方から利益を得るために、中国に莫大なデータを提供している企業の実態が「Trafficking Data: How China Is Winning the Battle for Digital Sovereignty」で紹介された。グーグルが反民主主義的な活動を行う過激派に広告料金を支払い、中国に検閲機能つきのサーチエンジンを提供しようとしたことからも、彼らが自国の安全保障や民主主義的価値を優先していないことは確かである。
安全保障を優先してはいないアメリカの企業が多数あることは明らかであり、ましてや日本の安全保障の優先度はさらに低い。その背景には制度や機構の問題があり、単純に「協力」が得られるわけではない。
PMCや過激派についても同様である。メディアと過激派については、別項で述べたい。
・【2022年11月3日追記】データ安全保障の扱い
データセンターなどインフラ防御についてはじゃっかん触れられているものの、データ安全保障とでもいうべき領域については触れていないのは残念。
データ安全保障は閾値以下の攻撃の中でもさらに対処の難しいテーマで、合法的に製品サービス、買収・出資、あるいは市場圧力によってデータが外国(主として中国)に流れることを指す。
たとえば大連には日本からのアウトソーシングを受ける企業があるし、中国にデータセンターを持っている企業もある。これらのデータはすべて法律に基づいて中国政府に流れる。
日本では世界的に人気のフォートナイトやリーグ・オブ・レジェンドといったゲームをプレイするユーザも少なくないが、どちらの会社もテンセントの出資を受けており、そのデータは中国に流れる。
中国のプロパガンダ機関と呼ばれることもある孔子学院は日本のさまざまな大学のキャンパス内にあるが、そこではWeChatがコミュニケーションに使われたり、WeChatアプリを使用したりしており、これらのデータも中国に流れる。
家電のハイアールのU+ Connect、中国製フィットネストラッカーなど合法的に大量のデータが中国に流れており、その中には業務上、職務上の機密情報が含まれる可能性も少なくない。フィットネスアプリStravaからイラク、ジブチ、シリアの米軍の位置が特定されたことは、たまたま暴露された一例にすぎない。
データ安全保障について下記の記事がくわしい。
アメリカに対する中国のデータ優位性を莫大な事例から分析した『Trafficking Data』
・メディアの扱い
メディアに大きな偏向があることは拙著『ウクライナ侵攻と情報戦』で紹介したプリンストン大学の実証研究(https://esoc.princeton.edu/WP27)の結果からも明らかである。メディアは公正中立な機関ではないことは、アテンション・エコノミー化した現在では特に顕著であるため、それに即した対応が必要のはずだ。本提言のように価値感にもとづいた認知戦を行うなら、その価値感にそぐわない偏向のあるメディアは規制される必要があるだろう。
本提言ではメディアについてあまり掘り下げていないが、メディアの影響力が大きいことは確かで認知戦において、その活用は欠かせない。
特にアメリカのメディアは事実上国際世論を先導する役割をになっており、その利用と連携は不可欠と言える。
・現代における戦いでは、国内にいる敵への対応も重要であり、国際協調が必須
本提言では認知領域の重要性が繰り返し、指摘されているが、それによって国内に発生・増大した過激派については触れていない。
アメリカは白人至上主義過激派グループを中心とした陰謀論、反ワクチン、反LGBTQ+などの活動が広がっており、2021年1月6日の連邦議事堂乱入の暴動など武装化した騒動がいくつも発生している。ロシアや中国はこれらのデマを増幅し、連動している。
アメリカが直面する内戦の危機と中絶問題──武装化したQAnonやプラウドボーイズ
https://www.newsweekjapan.jp/ichida/2022/08/qanon.php
アメリカから世界に輸出されるテロリストたち──いま、そこにある「個別の11人」の脅威
https://www.newsweekjapan.jp/ichida/2022/10/11.php
共和党は別働隊として、表向きソフトなコミュニティ”Moms for Liberty”(実態はカルト)を抱えるほどになっている。
番外編 反主流派の梁山泊となった共和党の新しい仲間”Moms for Liberty” #非国家アクター メモ9
https://note.com/ichi_twnovel/n/ndecace54347f
アメリカのこうした反主流派は確たる理念を持たず、ミームやキーワード(人種差別、反移民、反ワクチン、反LGBTQ+など)を共有し、必要に応じて連携する。その裏には莫大な数の見えない人々がおり、実態を把握できないものとなっている。
グローバルノースの多頭の獣 #非国家アクターメモ のまとめ
https://note.com/ichi_twnovel/n/nfc8c42e9323f
そして、彼らは国際的に連携し、グーグルから広告収入を得たり、クラウドファンディングで資金を調達したりしている。ロシアはこれらの過激派に軍事訓練も提供している。
国家安全保障上きわめて重要な課題となっており、日本でも同様の危機意識を持って対処する必要がある。
現代においての戦争は国境がない。国内でも戦争が起こる。アメリカで話題となった『How Civil Wars Start_ And How to Stop Them』の通りだ。
アメリカ内戦を予見した衝撃のベストセラー『How Civil Wars Start』
https://note.com/ichi_twnovel/n/n96588acc900a
・技術など国家全体での対応が必要なことも多い
たとえば技術はデュアル・ユースであることが多く、軍事だけに予算を割いても開発はおぼつかない。国家全体で最適化したアプローチを取る必要がある。多くの項目で軍事領域以外の話が出てきており、もはや国家安全保障戦略というのは、国家全体の戦略と同義であり、単体の国家安全保障戦略の提言では実効性に乏しそうという印象を持った。
【2022年11月3日追記】もっともこれは本提言の問題ではなく、国家安全保障戦略そのもの、あるいは国家そのもの概念から見直す必要があるということなのだろう。
・民主主義の再定義が必要
民主主義の再定義、再設計が必要というのはだいぶ前から言っており、本提言でも国民的な議論と合意が必要と書かれている。まったくその通りなのだが、その際2つの課題がある。
・制度の抜本的な見直しが必要になり、おざなりのものになる可能性が高い
これまで書いたように、国家安全保障戦略は国家全体の戦略ありきのはずなので、民主主義の見直しを含め、抜本的な見直しが必要になる。本提言はそこまでは踏み込んでいない。
・価値感の争いになる
今日において、事実は多様に存在する。そのため、どちらが正しいかではなく、価値感のぶつかり合いとなる。自陣営の価値感にすぐわないものは「敵」なのだ。そのことは民主主義陣営の方が、民主主義的価値感を他国に強要し、国内でもその価値感を冒すものは処罰されることからもわかる。
そのため、再定義された民主主義の価値感にすぐわない国内の勢力(特に非国家アクター)は監視され、問題があれば罰せられることになる。
【2022年11月3日追記】価値感の争いになった場合、ファクトチェックが思想検閲となり、リテラシーが洗脳になるリスクもありそうだ。
ざっと感想をまとめてみた。国家安全保障戦略を掘り下げると、国家全体や民主主義の話になるんだなあ、とあらためて思った。あくまで門外漢の感想なので、あまり信用しないでほしい。
余談だが、現在デジタル影響工作についての本を7人の専門家の方と制作しているのだが、誰もこの提言のメンバーとひとりも重なっていなかった。ものごとには多様な視点はあり、本提言も私が参加している本も、そこそこ偏った視点なのだなあ、とあらためて感じた。
そういえばメンバーの中に防衛省、自衛隊あるいはそのOBの人はいない感じだったけど、なにか制限があったのかな? 防衛研究所の人とかいてもよかったような気がする。
関連資料
国家安全保障戦略改訂に向けた提言
Trafficking Data: How China Is Winning the Battle for Digital Sovereignty
How Civil Wars Start_ And How to Stop Them
Guide to the Analysis of Insurgency 2012
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