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【本の感想】「なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない」東畑開人著


今回は、本の感想です。
☆ACIMの話題も出てきます



孤独な時代

この本の著者は、現役のカウンセラー。

著者によれば、現代は人々が孤立しやすい時代だそうです。

この世界を生きる私たちは、夜の大海原を漂う小舟のよう。
大船から放り出されて、なんとかひとりで小舟を漕いでいる…。

そんなイメージに沿って、本書もたゆたうように進みます。

さあ!!
そんな小舟たちを、愛と光でつなげていきましょう!
…っていうハナシじゃないです。念のため。

「どうしてわかってくれないの」

本書には、著者のクライアントの若い女性が登場します。

彼女はある時点で「爆発」し、著者に激しい怒りをぶつけてくる。
その場面の描写は圧巻で、すさまじい形相が目に浮かぶよう。

「相性の悪いカウンセラーに当たった、かわいそうなクライアントの女性」。
そう思って、彼女に感情移入しそうになりますが…

でもね。彼女の怒りは、カウンセラーである著者が「自分の気持ちを察してくれない」という不満からきているようです。

「どうしてわかってくれないの」

要するに、コレ。言ってみれば、とってもシンプルな不満です。

もちろん彼女の言い分には、もっともな面もある。

なにせ相手は、プロのカウンセラー。
「お察しのプロ」です。
「相手の気持ちを察する」のが仕事。
カウンセリングに来るクライアントの多くは、きっとそう思っているでしょう。

わかりっこない…?

著者を罵る膨大なセリフのなかで、彼女がこう言う部分があります。

あなたの言葉に、「意識していなかったけど、そうだと思う」と答えたことが何回かある。
それは「違う」っていう意味。
どうしてそれがわからないの?

私は思わず、こう呟きました。

ど、「どうして」って…
わからんだろ、そりゃ。
いくらカウンセラーでも、他人なんだから。

でも、たぶんこれが、この女性に言わせれば無神経な的外れの典型なんです。

私のような一般人ならまだしも、プロのカウンセラーがこんな状態なのは言語道断。

そういうことなんだと思いました。

「愛の証(あかし)」

「どうしてわかってくれないの」
「察してほしい」

日常でも、ときに耳にする言葉です。
しかしこれ、そもそもどういう意味なんだろう…

この本を読みながら、そんなことを考えていました。

これ、たぶん「親密さ」なのかもしれない。

もし相手が自分を「察してくれる」のが「親密さ」のあらわれだとしたら、それは「愛の証(あかし)」になり得ます。

相手が自分を「愛している」かどうか。
その証拠が、「察してくれる」「わかってくれる」。

そうでないなら、その人は自分を「愛していない」のです。

こうして文字にしてみると、花びら占いみたい…?
かなり当人寄りの発想のような気もします。

でも、この前提で相手を判断しているケースは、案外あるかもしれません。

そうなると、がぜん話は違ってきます。
「どうしてわかってくれないの?」は、単なる不満なんかじゃない。

「察してくれない」相手は、自分がそっと差し出した花に気づきません。
自分が差し出した大切な親密さ、愛を、踏みにじっている。
自分に対して、キッパリと愛を拒絶しているのです。

もしこう解釈していたとしたら、相手に怒りを覚えるのも無理はないでしょう。
たとえ当人が、自分のその解釈に気づいていないとしても。

アンビバレントな心

かたや、著者自身はこう考えています。

自分を罵り倒すクライアントは、やはり自分を憎んでいるのかもしれない。
でも同時に、自分を頼ろうとして助けを求めているのかもしれない。

この世界に「善」と「悪」が混然としているように、人の心もアンビバレントなもの。

アンビバレント。両価的で矛盾する状態です。
ACIMで、自我がこう表現されているのを思い出す方もいるでしょう。

ちなみに、このように心が様々な階層に分割され、アンビバレントになっているというのが精神分析以降の心理学の基本的な考え方なのだそうです。

ともかく、相手の一時的な表情だけでは判断できない。

怒りをぶつけてくる相手の心も、きっとそれだけじゃない。

この著者の信念が、最終的にはクライアントの人生を変えることになりました。

詳しい結末は、実際にこの本を手に取ってみてくださいね!

複雑な心


さて、ところで著者は

複雑な現実をできるだけ複雑に生きること

7章「幸福は複数である」

これが「幸福」なのだと本書で述べています。

徹底的に自分を罵る目の前の人。
それは「複雑な」ひとりの人間です。
純粋な悪で構成されてはいないし、純粋な善で構成されてもいない。

「善」か「悪」かに単純化しなくていい。
心が複雑なら、それをできるだけそのまま受け止める。
それが幸福の鍵になる。

著者のメッセージを、私はそう理解しました。

しかしここで、ACIMが「自我を見ずに、聖霊だけを知覚しなさい」と教えているのを思い出すかもしれません。

自我は見ない。自我は実在しないから。
聖霊だけを見る。聖霊は実在するから。
複雑な心をそのまま受け入れるなんて、ただの妥協だ。

とはいえ、「聖霊だけを見る実践」が、いまひとつうまくいかないんだよなぁ…

そう感じている人も、いると思います。

私たちの心は、すでにかなり「複雑」です。
ACIM風に言えば、自我を信じて分裂し「分離」に陥っている状態です。
この点を無視することはできないでしょう。

「実在しない自我は見ない」。
この言葉どおりに知覚するのは、学びの上に成り立つ目標だと思います。

この言葉を聞いただけで、突然「自我を知覚しない」状態に移行できるわけではないでしょう。

「自我を知覚しない」という目標のために不可欠なのが、この目標を選択するという決断です。

そして、このためには「『自我を知覚しない』とは自分にとってどのような意味なのか」を明確に思考する必要があります。
(何につけても、意図が重要なのです。)

ここで重要なのが、「心はすでに複雑になっている」という現状の認識なのだと思います。
なにごとも、まず自分がいるところから始めないことにはうまくいきません。

ポジティブな信念

どうしても相手の「悪い面」や「イヤなところ」、つまり自我ばかりが目についてしまう。

でも、だからこそこう言うこともできるのだと思います。


もし相手に「自我」を知覚するなら、
必ず「聖霊」も知覚できる。


心がどんなに複雑になっても、愛である心の本質は変わらずに残ります。

人の心は複雑だ。
一時的、表面的なものだけでは判断できない。

今回の本の著者は、自身のこの信念を「ポジティブ」と表現していました。

逃避ではなく、現状を冷静に認めることに足場がある。
それが「ポジティブ」の意味なのだと思いました。

私もまったく同感です。


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