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犠牲と罪

<↑この記事は、上に加筆したものです。特別性など含め、もう少し踏み込んだ内容になっています>

「無理やりやらされる」

前回は、ACIMでいう「偶像」や「特別性」と、私たちが抱く「期待」にまつわる話題でした。

この期待(「偶像」や「特別性」)の放棄には、通常強い抵抗や苦痛が伴うものです。
期待は、そこに自分の求めるものがあると思うことで生じます。
ACIM風に言えば、その特定の(「特別」な)相手が、自分が求めるもの(自分が想像する愛、心の安らぎなどの「偶像」)を与えてくれるーそう信じることで、相手への期待が生まれるのです。

だとすれば、この「期待」(「偶像」)を捨ててしまうと、自分が求めるものが手に入らないことになってしまいます。

当人にとって、そこに求める「偶像」の重要性が増せば増すほど、あきらめることに対する恐怖や抵抗は大きくなるでしょう。

ACIMでは、こうした「あきらめる」ことを、「犠牲」と表現しています。

自分が望ましい、手に入れたいと考えるものを無理やりあきらめさせられる。
手放したくないのに、無理やり取り上げられる。

この「無理やり」というのがポイントです。

「できない」のか「やらない」のか

この「犠牲」、実は日常生活でもちょくちょく顔を出しているものです。

たとえば、何気なく「そんなのできないよ」「無理だわ~」などと思うことがありませんか?

こうしたとき、私たち自身はそうはっきり自覚していないことも多いですが、実は「強要されている」と感じている場合があります。

したくないことを、無理やりやらされる。
無理やり「やれ」と強制された。

当人がそう解釈すると、ほぼ間違いなく「いや、それは無理。できない」といった反応が生じます。

しかしこの「強要」は、実際、心のレベルでは原理的に起こり得ません。

以前「自由な意志」についてお話ししましたが、心がもつ意志は完全に自由であるため、他者から強制されることはあり得ないのです。

さらに心は本質的に「ひとつ」なので、「他者」による干渉というのがそもそもあり得ない。

そうなると、「できない」=「自分の意志に反してなにかを”やらされる”」という事態は起こりようがないーということになります。

私たちがなにかを「しない」とき、それは「できない」のではなく、実は自分の自由な意志で「しない」のです。

期待が生む苦痛

前回、私の息子に対する期待の話をしました。

彼に対する「期待」を捨てる段にになって、私は苦痛を経験することになりました。

しかし、それは、私が「大切なものをあきらめなければならない」「自分の望みを犠牲にしなければならない」(=「無理やり取り上げられる」「奪われる」)と考えたことが原因だったのです。

わが子が「人間として」「人並みに」生きる望みを捨てなければならない。
(息子に発達障害があることで、私はそう思い込んでしまいました。今考えるとむちゃくちゃな話です。)
自分が抱いているこの「期待」を、あきらめなければならない。
希望を「無理やり奪われた」…。

このように考えたために、大きな葛藤が生じました。

誰の”意志”なのか

私は、「この子は”人並み”に生きられない」と言っているのが「世界」あるいは「社会」だと考えていました。
わが子を否定するのは、こうした「世の中」の“意志”だと思っていたのです。
しかし、それは間違いでした。

では、世界はもっとやさしいのでしょうか。
ほんとうは社会はもっとフレンドリーで、どんな人でも受け入れてくれる。
それこそがほんとうの、世界の”意志”なのでしょうか…?

これもまた幻想だということは、悲しいかな、私たちの多くが身をもって理解していることでしょう。

実際、いま私たちが生活している社会には、やはり
「一人前の人間なら、他人の気持ちを察するべきだ」
「それが人間としての重要な資質だ」
といった考えがあり、多くの人に支持されています。

そして、残念ながらというべきか…その支持者たちは、その考えを自分の意志で支持していることに気づいていない場合があります。

まさに私自身がそうでした。

私はまず最初に「一人前の人間なら、他人の気持ちくらいわかるべきだ」という考えに自ら同意していたのです。
(もっとも、そのことをはっきり意識してはいませんでしたが。)

「この子は人並みに生きられないかもしれない」と考えたのはその次の段階でした。

自分がすでに受け入れた考えに、自分の息子が当てはまらないーそう認識したからこそ、抵抗が生じたのです。

私自身が自ら「同意」した最初の部分でもっと自覚的であれば、そのあとの葛藤は起きなかったかもしれません。
少なくとも、「他人の心が察せられてこそ一人前」という「常識」を疑問視するチャンスはあったでしょう。

より自覚的であればあるほど、このチャンスを生かせる可能性は増えていたと思います。

ともかく、「常識」のようなものは、世の中に流布して大勢に支持されているひとつの考えです。
社会や世界は、ただ大勢に支持される「常識」を掲げているだけ。
いってみれば、世界は、ただその内容が書かれた看板を立てているだけなのです。

それを見て、書かれた内容を受け入れ、真実だと考えるのはその人自身です。
そしてそれは、当人の自由な意志のなせるわざなのです。

「この子は人並みに生きられない」。
そう告げているのが自分自身だったと理解したとき、私はようやくこうした「期待」を捨てる気になりました。

「無罪」になりたい

私たちは自分の意志で決断したことをあいまいにして、「やらされた」「社会に押し付けられた」(自分は犠牲を払った)と考えたがるものです。

そのほうが、安全そうに見えるからです。

それならば、自分は「無垢」ーなにも悪さをしていない(ACIM風に言えば「罪を犯していない」)ことにできます。
悪いのは自分ではなく、自分に押し付け、強制して犠牲を払わせる世界のほうなのですから。

そうして、「無垢な私」が確保できます。

この「無垢な私」(罪を犯していない私)の安全性こそが自分の「救済」だと固く信じているため、私たちはなかなかこの思考回路を手放す気になりません。

それも確かに、一理あります。

「罪を犯せ」ば、断罪されて罰せられる可能性がある。
そのようなおそろしい危険は、回避しなければなりません。
そんなときに、「自由な意志」なんてものはどうだっていい。

私は「強制された」「やらされた」「犠牲を払った」だけ。
そう主張するほうが、はるかに安全です…
いえ、正確に言えば「安全そうに見える」だけですが。

このようにしてみると、私たちが「犠牲」に固執するのもある意味無理はないということがわかるでしょう。

私たちは、それほど、自分が「罪を犯す」こと―ひいては「罰せられる」ことを強く恐れているのです。

犠牲の”意義”

ともかくも、こうして見てみれば、「悪い」のは世界ではなさそうです。

では、なにが「悪い」のでしょうか。
だれに、どこに、「罪」があるのしょう?

「罪」と「間違い」が混同されていると、そのような詮索をしたい誘惑に駆られます。

しかし、実際は「間違った意志の使い方をすると、自分自身が苦しくなる」というだけのことーそして、それだけが重要なのです。

なんらかの苦しみ経験しているのなら、自分に苦しみをもたらすような考えに、気づかないまま「同意」してしまったのでしょう。

それならば、その「同意」を自覚して、やめればよい。

こうした「同意の解除」が、「犠牲」の真の意義だーACIMは逆説的にそう教えています。

自分にとっての苦しみの原因を、「捨てる」。

無意味なものを「犠牲」にすることこそ、意義ある「犠牲」だというわけです。

犠牲と罪の「特別性」

ACIMの考える「犠牲」の根底にあるのは、自分の「罪」を他者になすりつけようとする意図です。

自分は強制され、「犠牲を払った」側なので「罪」はない。
むしろ自分に犠牲を強いた側に「罪」がある。

このロジックは「特別性」という人間関係でもいかんなく(?)発揮されます。

特定の「特別な」相手に対して犠牲を払うことで、優位に立つことができます。

その人のために、あなたは様々なものを「犠牲」にしてきました。
平易に言えば、いろいろなものを「がまん」してきたのです。

その相手は、あなたに対して犠牲を強いた(がまんさせてきた)負い目―「罪」があります。
あなたに対して、その「罪」を償わなければなりません。
あなたは、堂々と、自分への「罪滅ぼし」を要求してよいのです。

つまりーあなたはその人を、正当な理由をもって「攻撃」できる

特別性と呼ばれる人間関係では、このロジックが非常に巧妙に粉飾されて表現されることが多く、それが「愛」と混同されることがあります。
それどころか、ACIMに言わせれば、この世界の「愛」はほとんどがこの犠牲を基盤にした特別性なのだというのです。

意志の再認識

「やらされている」「強制される」「無理やり取り上げられる」ー

このように感じるとき、私たちは、まさに「捨て身」で自分が罪を犯していないことを証明しようとしています。

しかし、そこで「犠牲」にされ、積極的に放棄されているのは、実は自分自身の自由な意志です。

もしACIMがいうように「意志」こそが私たちの本質だとしたら、私たちは、ここで「自分で自分を捨てた」と信じるようになったことになります。

自分の意志を捨てて、「無理やり犠牲を払わされる」ほうを選んだのですから。

しかし、実際には、どう頑張っても「自分を捨てる」ことなどできません。
自分は自分ですから、どうしたって自分のままです。

けれど私たち自身は、どういうわけか、そう考えてはいないものです。

自分自身―自分の意志を「捨て」れば「罪のない私」が手に入ると信じているため、おかしな言い方ではありますが、”喜んで”自分を捨てることに夢中になってしまいます。

自分の意志より強力な「なにか」が存在していて、その「なにか」によって強制されたり犠牲を払わされたりするーそうした考えに魅了されてしまうのです。

この混乱を癒し、自分の意志を再認識してゆくことが、ACIMの学びそのものだと思います。

自分の意志に対する充分な気づき、自覚がないと、私たちは意志を自律的、自発的に活用することができません。

自分の意志について混乱しているうちは、せっかくACIMが「無意味なものを放棄する決断」などについて教えてくれても、その実行は困難でしょう。

それは、私たちにその能力がないからではありません。
自分で決断することによって罪を犯す結果になるのを恐れているため、それをする気にならないのです。

ACIM風に言えば「意欲がない」状態にとどまってしまう。
よりはっきり言えば、意欲がない状態にとどまり続けたがってしまうのです。

このような状態にある私たちのことを、ACIMは「悪夢を見ている子供のよう」と表現しています。

この悪い夢から目覚めるためには、「犠牲」の幻想について理解し、自分の意志を再認識することが重要なのだと思います。


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