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「何にもまして、私は見たい」 ~ワークブック第一部~



あなたの今のものの見方の取り消し

私、ACIMワークブックの第一部が大好きです。

ワークブックは、二部構成になっている。
第一部は、あなたの今の「ものの見方」の取り消しについて。
第二部は、真の知覚の習得についてのものだ。

 The workbook is divided into two main sections, the first dealing with the undoing of the way you see now, and the second with the acquisition of true perception.

ワークブック序文
日本語訳は筆者

あなたの今の「ものの見方」の取り消し。
これが大切だと、しみじみ思う…。

間違った知覚

私たちの「知覚」は、現行では主に自我の目的のため使われています。
これは、ACIMが言う「自我」です。

それを神(あるいは聖霊)の目的に変更する。
こちらも、ACIMが言う「神」「聖霊」です。

あらゆることに関してこの目的変更をすることが、ACIM学習の目標といってもいいでしょう。

ともかくこの私たちの知覚が、根本から「間違っている」。
ACIMを学ぶ人なら、もう耳タコかもしれません。
なにせ現行では、自我の目的のために知覚を使っていますしね…。

この状態は、当人の決断によって撤回しないかぎり変更されません。
この変更、取り消しに特化した「実習」が、ワークブック第一部なのだと思います。

特にレッスン1~60は、基礎中の基礎。きわめて重要です。
私が思うに、ACIMを学ぶうえでこの部分はマストかと。
(*個人の感想です!)

思考からめちゃくちゃ

ワークブック第一部のレッスン20,21は、以下のようなタイトルです。

私は見ると決意する
私はものごとを違った見方で見ると決意する

なぜわざわざ「見ようと決意」するのでしょう?
目があるんだし、見えてるはず。

 ACIMワークブックは、こう語ります。

  • あなたの心は過去に占領されているため、過去しか知覚していない。

  • 知覚の基盤になっている思考が、根本からめちゃくちゃだ。

  • しかし、なんの結果ももたらさない思考はない。そのうえ自分の中だけにとどまる思考もない。

「見ているつもり」の私たちの知覚は、すべて過去にまつわる記憶、バイアス、偏見…etcで満載。
それで、「なにかを考えている」といえる?
知覚の基盤が思考なら、そのあなたが「見ている」って何?

調子は淡々としていますが、なかなか鋭い。
とどめにこれ。

あなたの心は、本当のところ「空白(カラッポ)」だ。

…your mind is really a blank.

ワークブック第一部
レッスン10
日本語訳は筆者

また第一部のこのパートでは、ACIMの根幹である「心の原理」がストレートに言語化されています。
レッスン18,19など、衝撃を受けた方も多いでしょう。

私はものごとを違った見方で見たい

そしてレッスン27,28では、再度

何にもまして、私は見たい
何にもまして、私はものごとを違った見方で見たい

前と同じような言葉が繰り返されます。

ここでも引き続き、このようなことが語られています。

  • あなたが見ている世界は、自分自身の怒りのあらわれだ。

  • その攻撃的な考えが、実はあなた自身を傷つけている。

  • なにが自分にとっての「最善」なのか、あなたはまったく理解していない。

とんだデタラメだという、われわれの知覚。
しかもその原因は、自分のなかの「怒り」だというのです。

ちなみにACIMは、「怒り」と「恐れ」を基本同じものとして区別しません。

心やさしい大和撫子としましては、
「怒ってはいませんけど。ただ恐いだけなんです」
そう反論したくなりますが、実は同じことのようで。

「あの人、なんか恐いわね…?」は、完全イコールで「あのヤローめちゃくちゃムカつくな!」ということなんだそうです。

え?大和撫子がそんな言葉遣いはしない…?

ともあれレッスンもこのあたりまでくると、本気度爆上がり!とまではいわずとも、徐々に真剣みが増してくるのでは。

もしこれが本当なら、さすがに「違った見方」をしたほうがいいような気がしてくる…。

わずかな意欲、完了です

私たちを導く「聖霊」という存在を擬人化するなら、ここできっと満足げにうなずいていることでしょう。

ACIMはしばしば、あなたの側でのわずかな意欲をもってほしいーというような表現をします。

実践者が「違う見方をした方がいい」と考えれば、その「わずかな意欲」をもつ段階は終了です。

なにかに強制されたわけではなく、自分から「何にもまして違う見方をしよう」と考えたわけですから。

何にもまして。
つまり、他よりもそれを優先する。

この実践者の「わずかな意欲」が、ACIMの学びにとってきわめて重要だとされています。

でも、それはほんとうに「わずか」なんでしょうか?

この「わずかな意欲」という表現、われわれの側からするとちょっとトリッキーな感じがしますよね。

ACIMは、「違う見方」をあなたの優先的な選択にするよう求めています。
今すぐ「違う見方」で知覚しなさいと言ってはいません。

ハッキリ言って、いまの私たちに後者は無理です。
だからそのようなムチャぶりは言わない。

当人が自分の意志で「何にもまして」それを選ぶ決断。他より優先する意欲。
ACIMの(あるいは聖霊の)観点からすれば、それは「わずかな」意欲です。

「多大な意欲(すごい熱量のやる気)」を前提に、できないこと要求しているわけではありません。

自力では無理

一方で、「違う見方」を実践者が自力で実現しようとしたらーそれは、”わずかな意欲”どころではないでしょう。
現段階では、それは文字通り「不可能への挑戦」。
天文学的数値の「やる気」を総動員しても、まだ足りるかどうかわからない。

ここが混同すると、「わずか」という言葉になんだかうまく乗せられているような感じがするかもしれません。

「わずかでいい」と煽られて、結局は自助努力に頼って不可能なことをさせらるってわけね…

そんな誤解が生じてしまうのだと思います。

何にもまして、私は見たい

ともあれ、「わずかな意欲」を行使して決断したら、あとのことは聖霊に任せるべし。
ACIMは一貫してそう強調しています。

「あとのこと」まで自力で成し遂げようとする”やる気”を出すと、とたんに消耗してしいますから。

ACIMが言う「わずかな意欲」の部分のみが、私たちの学びの領域なのです。

とはいえ私たちの知覚が、そもそもピントがずれているらしい。
そのおかげで、この「わずかな意欲について学ぶ」ことに案外手間がかかります。
より正確に言えば、それを学ぶために意外に多くの「手順」が必要になるのです。

この点も、ACIM学習者の方ならよくご存じでしょう。

この「ピントが合わない知覚」に基いて自助努力を発揮しようとすると、”ざんねんな結果”になります。疲れる。
(とはいえそれは罪ではないので、自分を責める必要はないです。)

料理がどうしてもうまくできないと思ったら、砂糖と塩を間違えていたよ!!
…そんな感じかもしれません。

自分はこの「砂糖と塩の区別がつかない」ような状態なのね。
言われてみればそうかもなぁ。

と潔く認められれば、話は早い。
でも、これがまた、なかなか”入って”きません。

なにせ「心は過去に占領されている」。
無意味なもので満杯です。
肝心なことが入ってくるスキマすらない…。

ああ!なんてこと。
「何にもまして、私は見たい」
もう、こう言ってしまうのがよさそうなんですが。


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