癒された心は計画しない
朝晩、コオロギの声のが聞こえるようになりました。
とはいえ今年は残暑が厳しい。
この夏も台風がきたり、大雨になったり。地震もありましたね。
そのせいなんでしょうか?
あちこちの店のお米売り場から、しばらくコメが消えてたし。
ようやく、たまーに新米を見かけるようになりましたが…。
備えをしては「いけない」の?
ACIMワークブックのレッスンに、このようなものがあります。
「癒された心は計画しない」
(レッスン135)
ACIMを真剣に学ぶようになって間もなかったころ。私はこのレッスンに、なんだかとっても腹が立ちました。
災害は、いつ起こるかわからない。
それなのに、準備や備えをしてはいけないの?
(その当時は、東日本大震災のすぐあとだったのです。)
当時の私は、自分がまだ恐れを克服していないことに対して失望し、苛立ちを感じていました。
いま思えば、それが投影されてACIMに怒りを感じていたのだと思います。
「できの悪い」自分にガッカリしていた私には、ACIMがこう言っているかのように聞こえました。
癒された心は計画しない。
将来に備えようとして「計画する」心は、
癒されていない。
災害への準備は、恐れからくる「計画」だ。
そのような行いをする者は、正しく学んでいない。
なんだか、一見するともっともらしい…。
やがて私は、自分の怒りを「いったん脇に置く」ことを学習しました。
怒りというのは、火事みたいなものです。
始めはボヤでも、放置しておくとどんどん燃え上がる。
そうなると、ものごとをありのままに認識できません。
自分の怒りを客観的にみる練習をした私は、ようやくACIMのレッスンが上のように言っているのではないと理解しました。
癒された心は、計画する必要がない
これが、私がイヤな気分になったレッスンの該当部分です。
ここに、出来損ないだ!なんて学習者をなじる意図は、全然ありません。
当たり前です。完全なる私の誤解。なにを読んでたんだ自分。
癒された心は、聖霊の声を聞き分けています。
その声に従うことも習慣になっていますから、ことさら自分で「計画」する必要がありません。
内なる聖霊の声の指示に従えばいいと、シンプルに理解しているだけ。
そういう主旨のレッスンです。
「まだ」癒されていない
私がこのレッスンを言葉通りに理解できなかったのは、自分自身の怒りのせいでした。
自分が「まだ癒されていない(恐れがなくならない)」ことに対する落胆。そして怒り。
私は(この当時で)もう数年間しっかりとACIMを学んでいたのです。
(当人はそのつもり)
それなのに「まだ」癒されていない。恐れや憎しみがたくさんある。
「まだ」いろいろなことに対して怒りを覚えます。あれこれ動揺するのも、ほとんど変わってません。
私の出来が悪いのでしょうか?
それとも教えるほうが下手なんでしょうか?
(こういう責任転嫁は、得意です。)
私はなぜ「まだ」癒されていないのでしょうか。
なぜ「まだ」怒ったり恐れたりするのでしょう?
実際、このような状態は当たり前です。
そんなにすんなりと信念が変化することは、通常はあまりありません。
しかし当時の私は、それを「自分のこと」として受け入れたくありませんでした。
「私は他の人とは違う」
どういうわけか、「癒し」や「学び」に関してとても”前向き”になることがあります。
なぜだかあっという間に、不必要な自我の思考体系を捨てられるような気がしてくる。
「あっという間に」とまではいわずとも、他の人より早くできる気がします。
この奇妙なポジティブさ…
この当時の私に関して言えば、それは「私は他の人たちとは違う」という信念の変形にすぎなかったと思います。
ACIMは、私たち自身の「進み具合」は気にしなくていいと言います。
たとえば「癒し」に関してなら、自分が「どれくらい癒されたのか」なんてことは考えなくていい。
自分には癒しが必要だと率直に認め、「癒されたい」と望んで(意志して)いればそれで充分。
そうして「計画しない」心を実践し、素直に聖霊の指示を待てばよいのです。
お墨付きがほしい
思い返せば、当時の私は「癒されたい」と望んではいませんでした。
そのころの私の願望は、「自分が癒されたと証明してほしい」というものだったと思います。
私は癒された。私の心から、罪悪感は一掃された。
ACIMから、その”お墨付き”がほしい。
当時の私は、明らかに混乱していました。
一方では、自分の心に恐れや怒り、憎しみがあるのを認めています。
そうした自分の思いに、嘘はつけません。
しかし同時に、私は癒されたいのです。
そのためには、心から怒りや憎悪がなくなっていなければならないというのに…実際の自分は、それには程遠い。
現状と願望とのあいだに、溝がありすぎる。
よく言う、「理想と現実のギャップ」みたいなものです。
この「ギャップ」を埋めるには…
権威あるスジからの「お墨付き」です。これしかない。
たとえ心に葛藤があっても、ACIMから「あなたはもう癒されましたよ、罪悪感から解放されました」と証明してもらえばいいのです。
自分のなかでは多少ギャップがあっても、権威あるお墨付きのほうが「ランクが上」。これでいける。
これぞ、私自身による「ザ・自分救済プラン」。
今思えば、なんというか…むちゃくちゃな「計画」。
「計画」っていうんなら、もうちょっと冷静に立てろや。
(-_-;)
とはいえ、見ようによってはこのプラン、「なかなか悪くない」かもしれません。
「お墨付き」さえもらえば、あとは自分自身の怒りや恐れは放置していいことになります。
イヤな相手を赦したり、災害への恐れに誠実に向き合ったりする必要もありません。
まさに「私はなにもする必要はない」を地でいく、”いいハナシ”じゃないですか?!
…やれやれ。😵💫
ACIMが、私たちに「お墨付き」を与えることはないでしょう。
「あなたはもう完全に癒されました。さあ、これからは神の教師として、世界を救いなさい」
…というような啓示は、あり得ないとまでは言いませんが、考えにくいように思います。
少なくとも、そのような”啓示”をアテにして学習するのはむなしい気がします。
ACIMが私たちに教えているのは、「聖霊」と呼ぶ私たち自身の内なる叡智の声に耳を傾ける方法です。
その方法は、私たちひとりひとりの人生に密着しています。理屈だけでは腑に落ちないでしょう。
とはいえその方法には、やはり「定式」のようなものがあります。
従って、理論も理解しておく必要があるのは事実。
いずれにしても、内なる叡智に耳を傾ける実践じたいが私たちを癒します。
結局のところ、それが「癒された心は計画しない」というレッスンの意味なのだと思います。