攻撃しない選択
最近、SNS上での誹謗中傷が問題になっています。
暴言が炎上して、活動休止になった女性タレントもいました。
誹謗中傷をしたり、暴言を吐く人々を見ると、イヤな気持ちになります。
すると、そういう人に対する怒りが湧いてくる。
その、他人に対して自分自身が起こした怒りを捨てる。
この実践が、ほんとうに大切だと感じます。
ACIMの言葉で言えば、赦しを実践するということですね。
誰の責任?
他者からの中傷で傷つくとしたら、それはすでに自分で自分を断罪し、攻撃していたから。
ACIMは、そんなことを言っています。
まず自己攻撃があり、他者からの心ない言動によってそれが強められてしまう…ということのようです。
上で引用した「ヘレンのノート」は、邦題「奇跡講座」の底本になっているFIP版のACIMへと編集される以前の文書だとされています。
章立てがないなど読みにくさもあるのですが、元来の話の流れがよくわかる面もあります。
上に引用した部分はFIP版「奇跡講座」第一章Ⅲ5:9-10 に収録されていますが、編集されて若干違う文章になっています。
本題に戻りましょう。
やはり、そもそもの原因は「傷ついた」と言っている側にあるーということなのでしょうか?
その人自身が自己攻撃をして、すでに自分を断罪していた。
そこに他の人からの”攻撃”が加わって、さらにダメージが増してしまった。
攻撃されて傷つき、苦しんでいる人。
実際に攻撃をした人。
結局、どちらの”責任”なのでしょう…?
そのあたりのこと考えても、あまり意味がないのかもしれません。
だいたい「本当は誰の責任なのか」的な話って、ホンネはこれですよね。
私は悪くない。
悪いのはあなただ。
要するに、自分が悪くなければそれでいいのです。
関心はそれだけ。
心はひとつ
心はひとつです。
だれがいつ、どの時点で「攻撃」を始めたにせよ、それが心で起きた間違いであることに変わりはありません。
相手が悪いといって他者を責めているときは、この間違いを癒すことが目的になっていない。
壁の穴を面白がって壊していたら、実は自分の家だった…みたいな話なのだと思います。
いったいどうして、そんなことになってしまうのでしょうか。
理由や原因を究明したくなってきます。
そもそも、どうして他人と自分は違うと考えてしまうのでしょう?
ACIMは、自我にの解説にかなりの紙幅を割いています。
自我について学べば、上の疑問もある程度は解消するかもしれません。
(ACIMが定義する「自我」は、独特の概念なのです。)
しかし、重要なのは原因究明だけではないのだと思います。
ACIMは、他人と自分が別々の存在だと考える誤り(「分離」)を、「心の病」と表現しています。
この病の癒しが、病んだ理由の解明よりも重要な目的のはず。
攻撃しない
世間でいうリテラシー(SNSで軽率に暴言、中傷を書きこまないなどの正しい知識)をもつのは当然ですが、不快な言動をしている(ように見える)人に対して、自分自身が行う赦しの実践がとても大切だと思います。
その人を批判して攻撃を重ねるより、「間違い」を取り消す選択をしたいです。
その選択は、分離という「病」の癒しに直結していますから。
心はひとつの存在で、分離していません。
他人の間違いを攻撃すると、実は自分を攻撃することになってしまいます。
攻撃している対象は同じ「ひとつの心」ですから、それは自己攻撃になるのです。
でも、その攻撃をやめればどうなるのでしょう?
ほんの一瞬でいいから、それをやめてみてほしい。
ACIMはくり返し、私たちにそう呼びかけています。
ACIMが期待しているのは、私たちがいますぐ分離を完全放棄して、兄弟たちと自分は同じ存在だと知ることではないと思います。
ACIMの直接的な目標は、実は”その前”の段階です。
単純に言えば、攻撃しない選択をすること。
それだけでいいのか?!っていう感じですが、実際そうだと思います。
もっとも、その「それだけのこと」-「攻撃しない」ことを、私たちはよく学ぶ必要があるのでしょうけれど。