【本の感想】「親といるとなぜか苦しい」 リンジー・C・ギブソン著
今回は、本の感想です。
☆ACIMの話も、後半出てきます
「精神的に未熟な親」
今日の一冊は…
この本の原題をそのまま日本語にすると、
精神的に未熟な親に育てられた
アダルトチルドレン
~よそよそしく、拒絶的で、
自己中心的な親たちからの影響を
どのように癒すか~
こんな感じでしょうか。
著者はアメリカのセラピスト。発売以来ベストセラーなんだそうです。
カバー裏で、本書は
と紹介されています。さもありなん。
「毒親」ではなく…
近ごろ日本では「毒親」というショッキングな言葉が話題ですよね。いろいろとすごいネーミング。
考えた人すごい、と感心します。
しかし本書では、この「毒親」という言葉は使っていません。
そのかわりに、「精神的に未熟な親」。
この「未熟な親」は、子どもにとって好ましくない影響を与えます。
それを「毒」と呼ばずして、何と呼ぶ…?
そんなふうに感じている「子ども」たちは、大勢いると思います。
私自身、自分の親がこの「精神的に未熟な親」だったと理解するまでに時間がかかりました。
わかっているけど、なかなか認めたくないーというわけではありません。
自分がそんなにも強く親の影響下にあることじたいに、自覚が及ばない。
自分自身の状況を相対化することが難しいのです。
親は、そもそも、子どもにとってたやすく客観視できる存在ではないのでしょう。
しかしながら本書のポイントは、この「親に対する客観視」にあります。
親を客観視してみる
❝自分が抱えている苦悩は、
「精神的に未熟な親」を客観視できないことと
関わっているのかもしれない。❞
本書は読者にこの観点を少しづつ紹介し、親を客観視する方向への誘導を試みています。
❝少し離れた視点で、親のことを見られた。
自分の親(たち)は、
「精神的に未熟」だったのかもしれない。❞
本書を読んでみて、そう思えたらしめたものです。
この新たな視点をもてることの価値は、大きいと思います。
「理想と現実」…以前
親を客観的に見ることは、おそらくどの子どもにとっても容易ではありません。
悪名高い(?)思春期ティーンエージャーの反抗期も、この「子どもが親を客観視しようとする」葛藤の一種なのかも。
「未熟な親」に養育された子ども(たち)にとって、親の客観視はさらに困難な事態です。
かれらにとって、親は
ほんとうは自分を心から愛してくれている
ほんとうは自分への愛を表現したいと思っている
ほんとうはその能力も充分にある
そう見えています。
もっとはっきり言ってしまえば、そうとしか見えない。そうとしか思えない。
これが親を「客観視できない」状態なのだと思います。
その結果子どもには、怒りや落胆が鬱積します。
実際の親と、自分が考える親(自分の目に映る親)とのあいだに、かなりの落差があるのです。
親は、ほんとうは私のことを大切に思っている。
ほんとうは「普通」なんだもの。
でも…なぜいつもこうなるのだろう?
「未熟な親」の子どもにとって、これは「理想と現実」の物語ではありません。
自分の思い描く理想像が、実像に合わないとは思わない。
(実際はそうなのですが。)
これは現実だ。
その「現実」が、苦しい。苦しくてたまらない。
これ以外の考えが浮かびません。
「ひょっとしたら、これは自分が思い描いている”理想”なのかも…?」
そうした客観的な発想は、おそらく自力では困難だと思います。
「叶わなかった望みの名残り」
親はなぜ「普通ならできること」を、自分に対してしないのだろうか。
それは自分が悪いからだー。
このような思考回路も、未熟な親に養育された子どもたちに典型的なものだといわれています。
しかし、あなたの親は「精神的に未熟」なのかもしれません。
「自分勝手で成長しない親」の可能性があります。
あなたの親は、あなたを愛していないかもしれません。
少なくとも、あなたが望むようには。
あなたに愛の表現をしたいと思っていないし、その能力もないかもしれません。
少なくとも、あなたが望むかたちでは。
これが事実かもしれない。
その可能性は、否定できないのです。
「かなわなかった子どものころの望みの名残り」。
物悲しい響きのある表現です。
親になにかを願っているのは、いまの自分ではないのかもしれない。
過去に満たされなかった(と感じていた)、幼い自分自身なのかもしれません。
投影される罪の信念
ACIMは、私たちが抱える「問題」-苦しみ、苦悩、精神的な苦痛などのすべての根源的原因は「神からの分離」にあるといいます。
親は関係ない。親は本当の原因じゃない。
「分離」がほんとうの原因だ。
だから、親との関係なんかにかかずらっているべきじゃない。
ACIM的にもっと重要なこと、やるべきことがある。
…そうでしょうか?
ほんとうに?
ACIMがいう根本的原因の「神からの分離」は、ほぼ間違いなく親との関係に投影されます。
親との関係だけではありません。私たちが構築するあらゆる関係性に、投影されるのです。
だからこそ「親のふるまいは私の『せい』なのだろうか」、あるいは「私の『せい』じゃなかった。親の『せい』だったんだ」という発想が生じます。
それは、ACIMがいう典型的な「罪と罪悪感」に束縛された思考回路です。
だれに罪があるのか、それが思考の中心なのです。
このように考えると、「神からの分離」と私たちが関係をもつすべての人たち(親も含めて)は、無関係ではあり得ません。
この観点でいえば、自分の親を「赦す」(もちろんACIMが言う「赦し」ですが)のは、ACIMの実践上で決定的な重要事項のはずです。
少なくとも「それよりだいじなことがある」と、わざわざ後回しにする理由はないと思います。
とはいえこの「自分の親を赦すこと」がしばしば非常に難しいのは、私自身、自分の経験からよく理解できます。
「親との関係?そんなの後回しでいい」
自分のなかの、そんな声に気がつくこともあるでしょう。
この声に従う必要はありません。
でも、その声をことさらに「無視」しようとする必要もないと思います。
「赦したくない思い」は、その覆いを取り除けば、愛の呼びかけから生じていることがわかるでしょう。
この奇跡を求める衝動、愛を希求する呼びかけは、私たちの想像以上に強力です。
あえてそれを邪魔しなければ、ひとりでに、最善のかたちで立ち現れてくるでしょう。
とはいえ、自分の親を赦そうとするのは、やはり思った以上にタフな”仕事”だと思います。
その困難な実践を決断した人に、速やかに助けがあることを祈っています。
あるいは本書が、その一助になるかもしれません。