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ACIMの実践 ~おこめの場合~


正直に言って「赦したくない」。
この人はやっぱり赦せないな…と思うこと、ありますよね。

ある意味、それは当然かと。

「ある意味」というのは、ACIMの言う「自分自身に贖罪を受け入れていない」状態なら、それはしかたのないことでしょう…っていう意味。

しかし、それでもなお私たちには他者に対する不平不満、怒りや恐れを取り消す選択が求められている。
それがACIM(A Course In Miracles)。

無理なこと言うよなぁ…
とタメイキが出そうになります。が、しかし。

「怒りや恐れを取り消す」と、「怒りや恐れを取り消す選択をする」のは、似て非なるものです。

そしてACIMが学習者に期待しているのは、あくまで後者だと思います。
これは、それほどのムチャぶりではないと思うんですが。

無理筋なのは…

「この人を赦します。愛のヴィジョンで見ます。」
そう唱えれば、たちどころに不平不満のすべてが消えてしまう。
赦せなかったはずのその人は、まばゆい光に包まれて微笑む救済者。
ハートが愛に満たされて、感謝の涙があふれ出るばかり…。

そんな感動を約束してくれる、「奇跡の呪文」。
あったら便利。かな…?

「相手を完全に赦す」=「相手に対する怒りや不満をすべて捨てる」。
いきなりそれを目的にすると、こんな「魔法」のファンタジーを求めたくなるかもしれません。

その想定のほうが、無理筋なんだと思います。
いきなり「相手への怒りを捨てて、完全に赦す」って…。

「赦そうとする選択」から「赦し」までには、多くの場合、個々別々の様々なプロセスがあるものです。
各々が具体的にどのようなものになるのかは、そのときになってみないとわからない。

しかしひとたび「赦す選択」の決断を下せば、いずれ「達成」するのは確かです。
あとはプロセスの各段階で与えられる導きを信頼し、それに従って実践すること。
この部分に関して、私たちが手出しできる余地はほぼありません。

もしそれに不満でこのプロセスをすっ飛ばそうとするなら、「奇跡の呪文」を探すしかないかも。

ちなみにACIMは、このような誘惑を「魔術」と呼んでいます。
プロセスの部分を抜きにして、達成だけ手に入れようと意図するのは、心の力の誤用だという指摘です。

投影=赦せない=私は悪くない


ともあれ赦そうとするときの”難関”のひとつは、目の前の物事に対する不平不満の源が自分にあると認める部分でしょう。

それは自分の恐れや憎悪や怒りが投影された結果です。
しかし、これがなかなか腑に落ちない。

そして実際、これを自力で腑に落とそうとするのは難しいと思います。

そもそも相手を赦せないと思うのは、相手に原因があると信じているから。
そんなときに「原因は自分にある」と納得できるはずがないのです。

そのようなわけでACIMは、赦しの実践に際して聖霊の指導に従う重要性を強調します。

あなたの自力だけでは、もう無理。違うやり方をアドバイスしてくれる存在に耳を傾けなさい…ということでしょう。

単独自力で赦しを完遂するのは、上に述べたような理由から、私たちにとって「矛盾した」行為です。

いいトシこいて、明らかに矛盾したことを自分から喜んで行えるほど「おめでたい」はずがないですもん…。

悪者さがし

ACIMを学ぶときに耳タコで言われる「聖霊に導きを求め、それに従う」。
でもそれ、具体的にどうすればいいの…って思うことないですか?

私にとって「聖霊の導きを求めて従う」とは、ACIMが教える原理を自分の日常に応用することでした。単純。

あらゆる機会に、ACIMから学んだ原理をあてはめる。
自分なりの「脚色」はしません。
ひたすら文字通り、そのままあてはめます。とっても単純。

そうすることで、本に書いてあった内容が「あ、そういうことね!」と徐々に腑に落ちるようになりました。

たとえば誰かに怒りや不満を感じたとき。
つまり、「赦し」が求められる場面です。

そんなときはー

自分のなかに温存されている怒りや恐れや憎しみは、
必ず外界の他者(人物とは限りません)に投影される

この原理をそのままあてはめるように努めました。

自分の中に、この人(この件)に関連する恐れはなさそうだ。
だから今回は、ちょっと違うかな…

ということは、しない。
文字通りにあてはめる。つまり、それが真実だと考えてみる。

なにがどうなっているのかはわからないけど、自分のこの人(この件)に対する怒りは、私自身のなかで保存されてきた恐れや憎悪が原因なんだ。

シンプルに、それが真実だと考えます。

実際、この視点がないと、自分の怒りや不平不満は正当なものになるでしょう。
どこまでいっても「相手が『悪い』」。

結論はもう出ています。
「悪いほう」―「罪」を犯したのは誰か。その人か、自分か。
それは、もうすでに決まっている。

するとその後は、「この人はなぜそのような間違いを犯したのか」というところに思考が向かうでしょう。
それはやがて、度を越した怒りに発展するかもしれません。
(ナマあったか~い、「赦し」みたいな上から目線に落ち着くかもしれません。)

このような「思考」は無意味です。
当人は堂々と正論で考えているつもりなのですが、実は自分の怒りをぶちまけているだけ。

場合によっては、この怒りが自分自身に向かうこともあります。
でも、しくみは同じ。

自分のなかに温存されていた恐れや罪の意識が、「自分自身」という対象に向かったのです。

怒りや恐れは「現実ではない」


自分が経験する不快さの原因は、自分自身にある。

これが、赦しを志した実践者に対して聖霊が教えることだと思います。

それに納得がいけば、そして聖霊への信頼を保ち、指導を求め続けようとするならば、実践者はやがて自分自身のなかの投影の源泉-個人的な恐れや罪悪感を認識することになるでしょう。

そのとき、おそらく実践者にも意外なかたちで「赦し」が達成されると思います。そして実践者に(「赦された」側にも)癒しが起こります。

どのようにこれが起こるのかについて、あれこれ考える必要はありません。
おのずとそのようになりますから、導かれるとおりに実践すればあとは大丈夫です。

私の経験から言えば、ここでもまたACIMでの学びが重要になると思います。
実践には、しっかりした学びの基盤が不可欠なのです。

ACIMは、私たちの怒りや恐れは現実ではないと強調しています。

平易に言えば、そうしたネガティブな思いには、私たちが考えるほどの「力」はないということでしょう。

無自覚なままに持ち続けてきた憤りや憎悪(しばしばそれは「復讐心」と表現されますが)は、正しい手順を踏めば必ず取り消されて消失します
重大な罪ではなく、ただの間違いとして訂正されるだけ。

これをよく学んで理解しておかないと、自分が抱える怒りや不満ー報復への暗い欲望は、おそろしい「罪」と認識されてしまう可能性があります。

ひとたびそう認識されてしまえば、自分の中に原因を認めるのは困難になるでしょう。
そんなおそろしい「罪」に直面するのは、誰だって避けたいですから。

「解釈」がポイント

人生で経験する個人的な葛藤は、心理的なものです。
それと、実際に起きている出来事とを混同しないようにするのも大切です。

この混同があると、「自分に原因があったからこのような『イヤな出来事』が起こってしまった」という誤解を招きます。

この世界での出来事は、様々な因果律によって起こります。
この膨大で繊細な因果律のはたらきについて、私たちの限られた知覚で認知するのは不可能。

それならば、焦点を当てるべきは、その出来事を自分がどう解釈するかです。

しかしこの「解釈」は、最初の段階で誤っている可能性が多々あります
これが正確でなかったため、「イヤな出来事」が経験されてしまうのですしね。

私たちは多くの場合、出来事そのものにではなく、出来事に対する自分の解釈に対して反応しています。
解釈が不穏なものなら、その後に不平不満を経験することになるのは確実。

出来事は、ただの出来事です。
私たちの解釈とは別次元。(ACIM風にいえば、異なるレベルに属します。)

出来事じたいは同じでも、解釈が変わればその体験は変化する。

これもまた、私がACIMから学んだことです。

ロマンがない?


私にとって「聖霊に導きを求める」ーACIMの実践とは、ACIMから学んだ原理を、そのまま額面通り自分の人生の葛藤に応用することにあります。

瞑想状態でインスピレーションを待つとか、”偶然”聞いた他人の言葉にハッとするとか。…ほかにもいろいろな方法はあるでしょう。
ACIMを学んだ上での実践ならば、どれも有用なはず。

しかし、ACIMに書かれていることをそのままあてはめるのも、シンプルで確実なやり方だと思っています。
なにも待たずに、すぐできますし。

とはいえそれ、なんだかロマンがないかもしれない…。(^_^;)


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