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真理の直接体験 ~ACIMワークブック第二部~


いよいよ「真理の直接体験」へ…

ACIM「ワークブック」は、二部構成です。
第二部はとても抽象的な内容で、ツッコミどころはほとんどありません。
「あ、そうなんですね」というしかないレッスンが続きます。

ここに至って学習者は、いよいよ「真理(神)の直接体験」へと向かうのです。
なんか重々しい響き。

ともあれ、どうやらACIMのゴールは、このワークブック第二部にあるといってよさそうです。
これまでの学習は、すべてこの部分のための準備だったのですね。

われわれはいよいよ、このコースが設定しているゴールに到達しつつある。
これまでの実践が目指してきたゴールを、見出そうとしている。

Now we begin to reach the goal this course has set and find the end toward which our practicing was geared.

ワークブック第二部序文
日本語訳は筆者

心理学というツール

古今東西、ワークブック第二部のようなアプローチから入る霊的修行や精神修養は多いと思います。
入門者は、当初からひたすら「神との合一」を目指すのです。

一方でACIMが「真理の直接体験」のために(より正確に言えば、その準備のために)採用しているアプローチは、現代ならではの知見である心理学。

まずは心理学的な知見を応用し、ACIMが「自我」と定義する心の側面について、学習者の理解と自覚を促すのです。

もちろんそれだけではありません。心の普遍的な本質に関しても、言語化できる面は可能な限り言語化され、学習者にとって有用な情報として提示されます。

テキストを読めば、こうしたことがよくわかるでしょう。

しかしながら、現在私たちが「心理学」と呼ぶ学問の基礎は、20世紀に入るまで確立していませんでした。

それ以前の人々は、人間の心について、いまの私たちのようには理解していなかったのだと思います。

たとえ理解していた人がいたにせよ、それはたぶん、その人だけが知っていた貴重な情報だったことでしょう。
「限られた者にだけ明かされた、秘密の叡智」みたいな感じだったのかしら。それはそれで、ロマンがありますね。

いずれにせよ、「人間の心は階層的な構造になっており、無意識と呼ばれる領域がある」といったことが”常識”になったのは、現代での話。

より確実な「道」

それでも人々は古来、洋の東西を問わず「真の故郷」への帰還を目指し続けてきました。

この道を歩む人の中には、目的に到達した人もいたでしょう。到達できなかった人もいたでしょう。
尋常ではないプロセスを経て、一瞬で「帰還」を果たした人もいたでしょう。一方で、長い時間をかけた人もいたでしょう。

かれらはACIMが「自我」と呼ぶ心理学的な人の心の側面に関する体系的な理解なしに、果敢に「神の直接体験」に向かってきたのです。
その勇気と努力は、尊敬に値すると思います。

昔の人々にも、体系的ではないにせよ、経験的に心についての理解はあったことでしょう。
しかしそうした「経験的な理解」には、残念ながら再現性がなかったと思います。
つまり、他の人―後世の修行者たちに向けて、的確に内容を伝達できないのです。

偉大な始祖の流れを汲んでいるはずの方法が、いつのまにか形骸化してしまう。そんな例は、珍しくなかったことでしょう。
誰が悪いわけでもないはずなのに…。

「真理の直接体験」の試みがうまくいくかどうかは、長い間、人類にとってある意味での「賭け」のようなものだったかもしれません。

私たちにACIMを贈った存在は、それを「賭け」以上の確実なものにしようとしたのではないでしょうか。

正しい知覚のために

「真理の直接体験」のためには、ACIMが「真の知覚」「キリストのヴィジョン」と呼んでいるタイプの”知覚”が必須とされます。

小難しい理屈は抜きにして端的に言えば、「真理の直接体験」は、(もしそれが起こるとすれば)われわれの人生において起こるからといえるでしょう。

どこまでいっても、私たち人間がそれを体験する以上、この世界という枠組みの中から離れられません。
そしてこの世界は、知覚で成り立っています。

正しい知覚なしに、この世界で真理を直接的に体験することは難しい。
この観点から、ACIMは一貫して私たちの知覚を重視しています。

具体的に言えば、つねに

    あなたはその人をどのように知覚するのか

この選択に向き合うよう促され続けるのです。

この選択は、実際の対人関係での実践です。

その点でACIMは、言っていることは”抽象的”でも、実践面でかなり「地に足がついている」印象です。

良い知らせ

われわれ学習者、実践者の側の実感としては、「真の知覚」は習得するものに思えます。
自分にとっての”新しい技能”として、あらたに習い覚える感じ。

しかしACIM側からすると、真の知覚は”回復するもの”ということのようです。

リアリティの観点からすれば、「神の被造物(creation)」「神の子」である私たちは、「真の知覚」やその基盤になる「智識」、「真のアイデンティティ」などの諸々を失ったことはありません。

「喪失ではなく、一時的に見失っている」という立場に立てば、それは「回復」になるーそういう視点なのでしょう。

ワークブック第二部は「私はいまなお神が創造したまま(の神の子)である」という表現をくり返します。

私たちは深い夢に落ち、あらゆるものを「忘れた」状態かもしれません。しかし、それでもなお「神が創造したまま」であり、リアリティにおいてはなにも失っていない。
そのようなメッセージがこめられているのでしょう。

このメッセージは、まさに「福音」(よい知らせ)だと受け止めています。

もしそれが真実ではなかったとしたら、私たちにとって、「真理(神)の直接体験」はたいへんにけわしい道のりになってしまうでしょうから。


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