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何かになりたいより、どう生きていきたいか
自分の夢とかやりたいことの中に、多分無意識に、「こうゆう姿になりたい」というイメージを何度もしてきた。
なりたい姿をずっと追い求めてきていたと思う。
生きていく=仕事みたいな式が自分の中で染み付いていて、夢ややりたいことが、仕事に直結するような考え方が土台となっていた。
仕事が中心だから、こうゆう資格を取れば、この仕事をしたら、こんな働き方をすれば、私は変われるんだと思っていた。
例えば、占い師になりたい、イラストレーターになりたい、カウンセラーになりたい、そうゆう風に仕事の肩書きというか、自分はこんな仕事をしているという名称が欲しかった。
名称があれば、周りが自分を見てくれる、認めてくれる、尊敬してくれると、とてつもない承認欲求の塊が、自分の中に存在していると気づいた。
その欲求を心の奥に潜め、気が付かずにいた時は、必死で自分が輝けそうなものを探し続けた。たくさん学べばなりたい姿になれる。
考えて考えて、時に実際に体験程度の経験はしたが、結局何か違うと思って、また迷宮入りの迷路のように、なりたい姿探しの旅が始まることの繰り返しだった。
そうゆう時って、とてもモヤモヤしていて、本業をしていても、張りがない毎日が続くことが多かった。
そして気がついた。
仮になりたい姿、やりたい仕事に就いたとして、その先はどうしたいのか。
1周回って、1番大事なことに気づいていなかった自分がいた。
それは、ずっと近くにいたのに、近かすぎて見落としていた。
私はどう生きていきたいのか。なりたい、ではなくどうありたいのか。
これって、すごい大事なことで、自分にとって1番に考えないといけないのに、蔑ろにしてしまっていた。
私は、外側ばかりを気にしすぎていたのだ。
これに気がついたら、凝り固まっていた鎧のようなものが、溶けていく音がした。
一気に肩の力が抜けた、と同時に思う。
私は、何をそんなに生き急いで頑張ってきたのかと。
肩の力が抜けたら、文字通りスッキリした。
どう生きていきたいのかって考えた方が、無理していない答えが出てきそう。
私、どうしたい?どう生きたい?
その答えは、これからの私の人生を送っていくための基盤になる。
ここを明確にしておかないと、たとえ何かなりたい姿になったとしても、すぐ足元から崩れてしまう。
私は、私を大事にできる生き方をしていきたい。
承認欲求や自己犠牲に振り回されない私でいること。
私が生きていられるのは、私という体=器があるからで、この器を愛して綺麗にし続けること。
私自身を生きていくことは、日々私と私が対話することが大切だ。
瞬間瞬間、私に対し、どうありたいかを問い続ける。
どうありたいか、どう生きていきたいかのその先に、派生的になりたい姿が見えてくると思っている。
それに、どう生きていきたいかは、固定しなくていいと思う。
日々、生きていれば世界も変わるし、私も変わる。
触れるもの、聞くこと、見えることも日々変わるから、私も変わっていい。
今の私は、今までより、何かする時のハードルを下げて、一歩でも行動できる私でいること。明日には変わるかもだけど。それでもいい。
自分に問いかけて出た答えが、自分にとって1番の生き方になる。