龍神池の小さな死体/感想
一ヶ月ぶりに戻ってきた。何をしていたかといわれたら、ぼーっとしていた。
退職してからぶっつりと糸が切れて、気づいたら今だった。そして気づいてから何をしたかというと、本を読んでいたのだ。
急に本が好きだったことを思い出して、急に積み上がった積ん読を消化し始めた。これは勝ち目のない戦いだ。本屋に行くたび何かを買ってくる癖は、そろそろ治したい。
タイトル通り、徳間文庫の復刊シリーズということで見かけた本を買ってきた。未読を増やすな。増やした。
今回感想を書き連ねたいのは、1985年に出版された梶龍雄――カジタツと当時は愛称があったらしい――の復刊ミステリ小説、「龍神池の小さな死体」だ。
1985年というと、昭和60年。平成まであと4年というところだ。著者の梶さんは1990年に逝去されたそうである。平成に足を踏み入れて2年ほどだ。お若いのに。当時でもまだお若い方だったのではないだろうか。あっさり30年くらい前の空気感なんか忘れてしまってはいるが…。
平成まであと4年ということは、つまり、携帯電話やネットがまったく発達していない時代の物語ということだ。いま、携帯がある時代から過去を追想して書く物語と、その時代に語られた物語は、やっぱりちょっと空気感が違う。なにせ、当時からみたら、2022年の今の携帯やネットの進化なんか、SFそのものだろうから。
心配していた文体や空気感に、いま読んでもそこまで違和感はなかった。むしろ、今時の古風なミステリならこのような空気感の文体が多いのではないだろうか。単語が所々古い言い回しに思えたけれど、それだって、堅物のミステリ作家なら今もこんなふうに書くだろう。どちらかといえば、当時でいえば新しい書き口の作家さんだったのではないかと思う。
女性が社会進出を始めた頃の話、さらに物語の舞台は戦後すこしと言うところ。男性より女性の活躍のほうが目につく本作は、ますます当時は新しいものだったのかもしれない、となんとなく感じた。
ここからは失礼ながらミステリのネタバレをする可能性がある。なるべく避けてはいるが、ネタバレを気にしない方でも、いくらなんでもミステリのネタバレは御法度だという方は多いだろう。
読み進める際は、読み終えてからにしていただきたい。
本の面白さというのは、結構帯に懸かっているんじゃないかと思うことが増えた。帯の煽りを見て買うタイプだからかもしれない。その煽りと本文がぴったり一致していれば満足するし、していなければなんとなくもやもやする。今回は、少しだけモヤモヤした。
というのも、本作「龍神が弟を殺した」だなんてだれもちっとも疑ってないのだ。龍神様の祟りじゃ~なんて、誰も言わない。言って欲しいかといわれたら、帯にそう煽るならいっそ誰かに言って欲しかった気持ちが、ある。
解説は、あの三津田信三さんがされている。その三津田さんがいうように、一章まるまるつかっての謎解きは、珍しいかもしれない。この本にはちゃんと「推理小説で言えば、ここで犯人を推理するデータはぜんぶ出つくしたというところなのよ」と謎解き前にそう締めている。
ところでミステリというのは、たいてい、「お前が犯人だ」と探偵役がのたまい、犯人が投了するまでが多いように思う。それ以降はミステリにとってはおまけなのだ。探偵が暴いた犯罪のあらましでおわりなのだ。とくに、この本が創刊された時期のミステリというのは、そういうあっさりしたお仕舞いの物が多いのではないか、と勝手におもっている。
けれど本作はそこからまた物語が転回(文字通り)する。
ラストに賛否があるだろうけれど、このラストをこの時代に書き上げたというのは、やっぱり、この方はかなり最前線で未来を見据えていた方なのではないかなとぼんやり思う。今も生きていらしたら、一体どんなミステリを書かれたろうか。実際の人物の生死までも、すこし、考えてしまう。
主人公の隠れた偏屈具合が、またじわじわとしみ出してくるのが面白かった。こいつ、案外頭の固い偏屈だぞ、と思えたなら、本読みとして大正解なのではないだろうか。
満足のいく読書だった。