70年後にはいないと考えると、ほとんどいらないかも
よく「人生100年時代」なんて言葉を聞くけど、医療の進歩のおかげで平均寿命が延びて100歳まで生きますよーってことだとして、自分の年齢を引いたら70年くらいしかないと気づいた。
100年後どころか、70年後にはこの世にいないじゃん。
3桁から2桁になるだけでグッと少なく感じる。
昨日の夜、隣で轟音のいびきを立てている夫のせいで寝付けなくなった私は、変に冴える頭で色々なことを考えるしかなかった。
おかげで睡眠時間は5時間ほど。
月曜日という週初めなだけで気が重いのに加え、頭も思い。
話が逸れた。
夜というのは大抵ろくな思考回路ではないので、感情も落ち込みがちだし、その沈んだ気持ちに思考も引っ張られる。
だいたい「人生とは」とか「生と死」についてといった、答えのない問いを一人悶々としてしまうのだが、ふと「人生100年って言うけど、もう少しで30になる私からしたら残り70年では?」と思ったのだ。
しかも70というのは、あくまで”100歳まで生きた"場合の数字であって、その前にあちらからお迎えがくる可能性の方が普通に高い。
そう考えたら、私という存在は、長く見積もって70年しかこの世には存在しないのだ。
あっという間じゃん。
今の年齢になるまでの時間×2.5くらいしかない。
そう思うと、なんだか全部いらなく思えてきた。
自分を着飾るための服や靴、気分を上げるためのネイルやコスメ。
食べたいと思って買った、ちょっと高めのお菓子。
ずっと昔から応援しているアーティストのファンブック。
「やらなきゃいけない」という謎の焦り。
一方通行のコミュニケーション。
平行線のまま交わらない会話。
隣のうるさいいびき。
ぜんぶ、いらない。
ものだけじゃなくて、自分の思考とか想いとかも無駄な気がしてきた。
だって、いつかはみんな死ぬ。
死んで残るのは、周りの人の記憶だけ。
そして、その人たちもいつかは死んでいく。
あの世には何も持っていけないのだから、そのことで苦しんだり、悩んだりするのはもったいないことのように思えてきた。
時間は平等に分けあたえられたものだけど、使い方は人それぞれ。
毎日少しずつ、でも確実に減っていく時間をもっと有意義に使った方がいいのではないか。
どうやったって時間は戻らない。
後悔はできるけど、その日には戻れない。
生きることに執着したほうが楽しいのかもしれない。
服やコスメ、ネイルに恋人。
そうやって、楽しいことや生きていたいと執着できるものがある方が、幸せに感じる人もきっといる。
私は、たぶんそうじゃない。
執着すると期待してしまうし、苦しくなる。
これがないと生きていけない、と思うようなものをなるべく作りたくない。
身軽な方が気楽なのだ。
それこそキャリーバック1つで旅ができるくらい、自分の大事なものを減らせたらいいなぁなんて思ったりもする。
まだまだ、それには程遠いけど。
もし、キャリーバッグ1つで旅に出るなら何を入れるだろう。
スマホとPCと、あとはゲーム。これは絶対に外せない。
目も悪いから眼鏡も必要かな。
イヤフォンや充電器とかのこまごましたものを入れつつ、服は最小限でいい。
最低限これだけあればいいかも。
あ。書いてないけど、もちろん最低限のお金もね。
そう思ったらなんだか、気がラクだ。
家にあるものなんて、ほとんど不要ってことになる。
不要だからって全部は捨てないけど、ちょっとずつ手離してみたら、もっと生きやすくなるのだろうか。
物も気持ちも、持ちすぎたってあつかえない。
結局、なにごとも自分が管理できる範囲でということか。
なんだかこうやって書いていたら、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。
私は、もっと気楽に生きたかったんだ。
気楽に生きれていないから、身軽さや気軽さを羨んでいるのだ。
ちょっとだけ、自分が分かったような分からないような。
旅のことを書いていたら気持ちが明るくなったから、やっぱり、今月のどこかで出かけようっと。
もちろん、身軽な格好で。