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サンダルの穴と脳内サーモグラフィー(「視点」と「ソール・ライター」「ヴィルヘルム・ハマスホイ」)

サンダルの底が破けている。ということに気づいてはいたが、億劫で買換えもせずにいそいそと散歩へ行く。夏も終わりのはずなのに、アスファルトからの熱が直に足裏を直撃する。熱い。
しかしこれはどうしたことだろう。何やらその足の熱さは懐かしいものであった。

そうです。ノスタルジーというやつです。覚えてらっしゃいますでしょうか。プールの脇で足の裏を焦がした夏を。あの頃はどこでも裸足で駆け回っておりました。時に怪我などすることもありましたが、土や木やアスファルトの質感を足で実際に感じておりました。以下略。

戻りまして、散歩である。タイルや石材などの材質によっても熱さは変化する(当然である)が白線の上はわりと熱くない。これは良い。さながら幼少時代の「白線から落ちたら周りはサメがいる海」というような想像を膨らませる散歩が楽しめる。

さて、そうして歩いていると視点が_変わってきた。というのは、これから歩く部分を温度で見るようになるということだ。あのタイルなら歩ける、あの歩道の上は歩けない、というように。(これを脳内サーモグラフィーと名付けたい。なんとなく。意味違うだろうけど。)これは、視覚でものを見ることから、触覚でものを見るように視点が切り替わったと言って良いだろう。ものを見るのは視覚であるが、現時点では触覚を優先し、触覚に動かされているので「触覚の視点」ということだ。

「百聞は一見にしかず」という誰しもが知る諺がある。これは正にその通りで「視覚」はあまりに物事を具体的にしすぎることがある。視覚によって得られる情報量が氾濫し、本来聴覚や触覚から得られるはずの情報を遮断し淘汰してしまうことがあるのだ。故に「触覚の視点」や「聴覚の視点」を常に持つことが重要だ。

私が影響を受けた人たちに「ソール・ライター」と「ヴィルヘルム・ハマスホイ」がいる。
上記の文章から、本来なら音楽家や文豪などを出すべきなのだが、ここでは敢えて「写真家」と「画家」という「視覚」を主体とした人を出させて頂きたい。
個人的な解釈にはなってしまうが、この二人の共通点は画面上において、主体となるものよりもはるかに「余白(背景)」が大きいことにある。そこには技術や経験が際立ち、細かく解説しようと思えばキリがないのだが、シンプルに言わせて頂ければ、画面構成における調和が際立ち、ありきたりな表現ではあるが、「モチーフ」と「余白」の関係性が非常に美しくまとまっている、つまりは情報量が非常に適切である(具体的になりすぎない)ということである。例えるならば、情報を「視覚」というバケツに注ぎ込み、表面張力で保たせている状態である。少しでもバケツが揺れたり(モチーフが画面上で少しでもずれたり)するとそれは崩れてたちまち氾濫してしまうにも拘わらずにだ。なんという好ましい緊張感だろう。

では、その「余白」には何があるだろう。それこそ、「視覚」における背景ではあるが、勿論それだけではない。私はそこに「ソール・ライター」や「ヴィルヘルム・ハマスホイ」の「触覚の視点」や「聴覚の視点」があるように思えるのだ。彼らの余白からは「百聞」は出てこない。それは実に上手く調整されていて、私が聞き取れるものとしては、少しの語や詩的な短文みたいなものである。しかし、それで良いのだ。幽かな言葉を辿って自身で補完するように、通常の「視覚」を「触覚の視点」や「聴覚の視点」に切り替えて、私は彼らの絵画や写真を読み解いていく。そうしている時、詩的な短文や少しの語(一聞)は一見に勝り、私は彼らとの視点の交わりを感じるのだ。これは「視覚」を「聴覚」や「触覚」に切り替えれば(例えば行間を読む等とはよく言うが)文学や詩や音楽でも同じことである。



サンダルの穴から随分な話になったものだ。さて、穴は歩くほど広がっているようだし、せっかくなので手に持って覗いてみるとしよう。高名なお二方には申し訳ないが、どれどれ・・・。

「何の変哲も無いものを写して その中に“特別な何か”を見つけるのが好きなのです」

ソール・ライター

2022/09/12 一井 重点

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