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やさしくなりたい

好きなタイプは?やさしい人。
親友のいいところは?やさしいところ。
どんな人になりたい?やさしい人になりたい。

私は自分の人生において、「やさしい」ということをとても大切にしているみたいだ。

やさしさってなんだろう。
いわゆる、やさしそうだね、という言葉で形容される類のものとは、少し違う気がする。否、それだけではないような気がする。

私が思い浮かべるやさしい人は、どちらかというと他人と一定の距離を保っていて、人類博愛!みたいな感じではなく、現実的で、クールな印象が強い。
本当にやさしい人ほど、わかりやすくやさしくはないような気がする。だけど、すべての言動がやさしさでできていると分かる。

かつて大学生だった私は、それなりの規模のサークルの長を務めていて、よくメンバーから「やさしいね」「愛情深いね」なんて言われていた。
その言葉に呪われたかのように、異常なほど人に尽くし、人のためになろうとした。そして疲れた。私は私がどうしたいのかわからなくなっていた。ただ人に必要とされ、愛されたいだけの人間になっていた。見返りを求めたやさしさや愛は、相手には届かず、自分を疲弊させる。
その経験から、わたしは自分がこれをやさしさだと自覚しながら行動するとき、「何も返ってこなくてもやさしくしたいのか。その先に何かを求めているのか。」と自問するようになった。

そして、私はやさしさをこう定義した。
「その人が、やさしさだと思って言ったこと、起こした行動は、全部やさしい」のだと。
やさしさの定義は人それぞれあるのだから、原動力となるハートの部分が大切なのだと。
だから、わかりやすく親身になって話を聞いたり、味方でいたりすることがやさしさなのではなくて、時には相手を叱ったり突き放したりすることも、やさしさの一つなのだと。
受け取る側が、やさしさだと思ったかどうかではなく、与える側が何を考えてその行動をとったのかだと。

自分が人にやさしくされた経験を思い出してみたい。
中学生の頃、いじめられて孤独だった私と、毎日のように手紙交換をしてくれて、たくさんの言葉と、音楽と、あたたかな心を教えてくれた先輩がいたこと。
高校生の頃、初めて付き合った彼氏に振られて家に帰った日、いつもどおり母の作った温かいごはんが用意されていたこと。
部活の人間関係がうまくいかず、一人体育館の外でぽつんとしていたら、部の同級生が何気なく声をかけてくれたこと。
残業がなかなか終わらなくて仕事を持ち帰ったら、当時の彼氏が何も言わずにプリンを買ってきてくれたこと。
わたしは忘れない。忘れたくない。

人は、自分がやさしくされた方法でしか、人にやさしくできないという。
今の私が、やさしいねとか、愛があるねとか言ってもらえることがあるとするならば、それだけいろんな形でやさしくしてくれた、たくさん愛をくれた人がいるからだ。その人たちが、やさしさとはなにか、愛とはなにか、私に教えてくれたんだ。

やさしさも愛も連鎖する。
私は、色んな種類のやさしさと愛を知っているから、多種多様なやさしさと愛のあり方に、気づくことができると思う。
そして、彼ら・彼女らに教えてもらった方法で、私はまた別の人にやさしさと愛を配る。

やさしい人がいい、やさしい人になりたいと言う。
他には?と聞かれる。そんなの当たり前じゃないかと言われる。それでもわたしは言い続ける。
やさしくなりたい。やさしくされたい。

#やさしさにふれて

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