書くときに忘れないでおきたい、主観や感情以外のもの
過去の出来事を振り返るとき、わたしは大抵それを思いきり主観的に捉えている。しかも論理的よりも感情的なタイプだから、感傷的に書きつけた日記を読み返して「人には見せられないな」なんて気持ちになることも少なくない。
そんな主観的かつ感情的な性質のわたしは、物事をありのままに受け止められる人に出会うと「いいなあ」と思う。
ありのままというのは、ひとつの正解を指すんじゃなくて、自分の主観に囚われないということ。自分の見方だけが答えじゃなくて、いろんな見方があると知っていること。自分のことを客観視できること。
一方で、面白いトークやエッセイの多くは、その人ならでは!って感じの主観的な視点で語られていて、そのオリジナリティがおもしろさの理由になっている気がする。そんなおもしろい人たちには、物事を客観視できる人以上に強い憧れを抱いてきた。
そしておもしろい話をできる人や書ける人は、物事の見方、つまり主観的な視点で物事の切り取る力に優れているのだと思っていた。でもトークは別としても、エッセイみたいな文章はそれだけじゃないと考える出来事があった。
自分がおもしろいと思った文章は、むしろ感情や物事を客観視して、読み手に伝わるところまで考え抜いて落とし込んでいるように見えたのだ。
エッセイではなく小説の話だけれど、昨日のnoteで、『人間失格』の感想を次のように書いた。
『走れメロス』であれほど信頼という人間の綺麗な部分を心から信じて描き出すような物語を描いている一方で、『人間失格』で人間のどうしようもないダメな部分、嫌な一面、誰にも見せたくなくて隠している黒いものを描いているギャップが不思議。最近『走れメロス』も読み返したばかりだったから、同じ人が書いたと思えない作風だなと思ってしまった。
心の底にひた隠しにしているような、カッコ悪かったり弱くて脆かったりする部分をここまで描き出せるのすごい。昨日はそう思ったのだった。
そして今日になって、太宰治はあの感情を冷静に、客観的に見つめたからこそ『人間失格』を書けたんじゃないか?という仮説が湧いてきた。
言うなれば、暗い人だから暗い話を書ける、とは限らない。暗い感情を見つめ考え、自分の主観から切り離して書けるレベルになっているから書けるのだ。
……ということは。自分がおもしろいエッセイを書けるようになるために足りてないのは、やっぱり感情やら物事を客観的に見つめることなのかも。
そこまで考えてから、古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』で、エッセイを書くのに必要なものとして「観察」が挙げられていたのをハッと思い出した。
実際に『取材・執筆・推敲』で、古賀さんはエッセイについて次のように書いている。
わたしにはこう見える。わたしにはこう聞こえる。わたしにはこう感じられる。そんな鋭敏な「わたしの感覚」に根ざして語られる文章が、感覚的文章であり、エッセイの基本だ。
そして感覚的文章の根底には、徹底した「観察」がある。
読み返して「これだ!!」となった。感情的よりも、感覚的文章。(一度読んでいたのに、記憶がおぼろげで恥ずかしい限りです。もう忘れない)
感覚的文章のための観察力も描写力も、自分はまだまだ足りてないんだよな。自分の見たもの聞いたもの、自分の感覚と自分自身をじっと観察して、描き出せるようになりたい。それから『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』は、やっぱり自分にとってまがいもなく教科書だってわかった。